ショート・ストーリーのKUNI[48]夜明け前
── やましたくにこ ──

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ある夜明け前、ふと目が覚めたカンバヤシくんはどうしたものかそのまま眠れなくなった。目をつぶってさっきまでいた心地よい眠りの中に戻ろうとしたが、うまくいかない。ため息をついて目を開けてみるとぼんやりとした不景気な闇が部屋を覆っているばかり。

いつしか思いは過去にさかのぼり、忘れたはずのことがひとつ、またひとつ、脳裏に蘇ってくる。そういうときに限って思い出したくない恥ずかしいこと、なさけないことばかり思い出されるのはいったいどういうことなのか。

しかも、もはや後期中年者となった身には思い出したくないことの種はいくらでもあって、これでもかこれでもかとカンバヤシくんをいたぶり続けるのだ。ああもう耐えられない、こんな恥ずかしい人生はいっそのことさっさと終わりにしたいものだと思ったころ、ドアチャイムが鳴った。

「どなたさまですか」声をひそめてインターホンで応答すると
「セールスマンです。すみませんが、開けていただけませんか。お時間は取らせません」となぜか早口で言う。

カンバヤシくんはついドアを開けてしまう。ドアの外は当然、まだ暗い。踊り場には黄色っぽい明かりがにじんだように点っている。ドアに足をはさみ、半分だけ開け放したかっこうでカンバヤシくんはセールスマンに対応する。地味な色のスーツに身を包んだ、これといって特徴のない男だ。



「こんな時間に何を売ろうと言うのです」

「はい、それですが、いまあなたは悶々としておられましたね。思い出したくないことを思い出してしまって」

「そうだけど」

「23年前、会社の昼休み、同僚2人と昼食をとりながら何気なく言ったあなたのひとことが、同僚のうちのひとりヤジマコウスケくんを傷つけてしまった。しかも、そのことにあなたはつい最近まで気づかなかった。気づかないなら気づかないでよかったのに、いったん気づいてしまうと、そういえばあのとき、もうひとりの同僚であるコンドウミツヨシくんは急に表情がこわばったようだったとか、それ以後よそよそしくなったのに、よくも今まで気にせずに生きて来れたものだ、さぞかしみんなは自分を無神経な人間だと指さし合ったことだろうと、気になって気になってしかたない」

「まったくその通りだ」カンバヤシくんはうなだれた。

「ほかにもありますね。学生時代、シモジョウヨシノリくんの悪口を、シモジョウくんがすぐ後ろにいることに気づかずタムラヨシオくんにしゃべった。シモジョウくんはそれ以前もそれ以後もあなたと変わりなくつきあいを続けてくれた。陰口をきかれていたことを知ったのは一年以上経ったときだった。あなたはシモジョウくんに申し訳ない気持ちでいっぱいだ、というより、自分がシモジョウくんより劣った人間であることを無言でつきつけられたような気がしてなさけなくてしかたない」

「そ、その通りだ」赤面する思いだった。

「それから、10年ほど前、当時部下だった女性・コナガヤマリエ・当時27歳が何か悩んでいるらしい様子だったとき、あなたは悩みを聞くふりを装って誘おうとした。もっと静かなところで話を聞こうとかなんとか言って。もちろんコナガヤマリエはあっさり断り、それ以来口も聞いてくれなくなった」

「言うな、そんなこと。思い出したくないんだ」涙が出た。

「あなたのような方はたくさんおられます。いえ、思い出したくない過去を持っていない方など、ほとんどいないと言っていい」

「そうだろうか」

「ですから、私どもはそういった方のお役に立ちたいと、思い出したくないこと処分会社を立ち上げました」

「なんだいそれは」

「社名の通りです。コースによって料金は異なります。もっともお手軽なBコースはあなたの脳内のいやな記憶を消します。Cコースはそれを知っている関係者の記憶も消します。当然、関係者の数が多いほど料金もかさみます。Dコースではなくした記憶の代わりに新しい記憶に置き換えます」

「新しい記憶?」

「希望、といってよいかもしれません。思い出したくないことを消しただけではどうしても欠落感が生じます。何かがそこにあったのにそれが何かわからないという感じと申しましょうか。それでは完璧とはいえませんので、むしろもとの記憶の一部を生かしたまま前向きの、明るい記憶に置き換えます。これで眠れない夜を過ごすこともなくなります。明日に向かって活力がわいてきます」

「B、C、DとあってAがないのはどうしてなんだ」

「Aコースは最もお安いコースとしてあるのはあるのですが、あまりおすすめできません。価格的にお値打ちである反面、記憶を消す際の精度が落ちますので、思い出したくない記憶とともに、思い出してもいい記憶も一部なくなる可能性がございます」

「それは困るだろう」

「ですから、基本的にはB、C、Dから選んでいただくと」

「わかった。だいたいのことはわかった。おれにはとても魅力的に思える。だが、いますぐ決断というのも…」

「迷うことはありません。すでにこのマンションの3階のタケダモリオさんも6階のヒロセショウイチさんもご契約なさいました」

タケダさんといえばでっぷり太って貫禄十分の男だ。建設関係の会社の管理職らしい。ヒロセさんもエレベーターで時々一緒になるが、血色が良く、いつも大きな声で挨拶してくれる。ああいう人間にも思い出したくないことがあり、眠れない夜があるわけか。

「問い合わせも続々入ってきております。いまならまだ空きがありますが、そろそろ定員になりますので、あとは待機登録者扱いになります。早く決断なさいませ」

セールスマンの口調はなぜかどんどん早くなっていった。なぜかあせっているようだ。

「分割払いとかあるんだろうな。カードも使えるのか」

「そういうお話はあとにして、早く」

「記憶を消すといっても、なにか危険はないんだろうか。だいたいどういう方法なのか、まだ聞いてないが」

「それは あの」

はっと気づくと、外が急速に明るくなっていた。それとともに目の前のセールスマンの体は透明のビニールでできた人形のようにどんどん薄くなり、いまにも光にとけてなくなりそうになっていた。

「あの…もしもし」

「だから  早くと   言った じゃ    な  い  で   す   か」

あっというまに太陽の光は踊り場に満ち、まばゆいばかりの朝がやってきた。光の中でセールスマンであった物体は次第にゆがみ、縮み、崩れ落ちたと思うとしゅるしゅる音を立ててそれきり消えてしまった。

「何なんだ、あれは」

カンバヤシくんはしばらくあっけにとられてその場にたたずんだ。

それから突然、自分がさっきまで悩んでいたことが朝の光の中ではどうでもよくなっていることに気づいた。おれの言葉がヤジマコウスケを傷つけた? ふん、そんなこと知るもんか。あいつは神経が細過ぎるんだ。シモジョウヨシノリの悪口は確かに言った。そんなことだれだってあるじゃないか。シモジョウだってわかってくれるさ。わからないなら、そのほうがおかしい。根に持つなよそんなこと。部下だった女を誘って悪いか? 男が女を誘うのは当たり前だろ。そんなことがどうしたっていうんだ。だいたいそれほど興味なかったんだよ、あんな女。いちいちおおげさだってば。

バタン!と音を立ててカンバヤシくんはドアを閉めた。

かくしてカンバヤシくんは、今日も昨日と同じく変わり映えのしない朝のワイドショーを見ながらぱさぱさしたトーストを食べ、満員電車に乗って会社に行き、我が身を省みず取引先に八つ当たりしたり、昼休みには同僚の陰口を言いながら日替わりランチを食べるのだった。

【やましたくにこ】kue@pop02.odn.ne.jp
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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