小説を書くことは私の夢であったが、その夢が実現した。
私はとても言葉では言いつくせない苦労の末、一編の小説を書き上げた。ほんの短い小説で、それを読むには10分もかからないだろう。だが、私にとっては何ものにも代え難い作品だ。
ところが、妻がそれを粉々にした。いずれきれいに書き直すつもりで、まだ紙にボールペンで書いた状態であったのだが、それを折りたたんでいつも着ている青い木綿のシャツのポケットに入れた。すると、妻が気づかずに洗濯してしまったのだ。
「だって、そんなものをポケットに入れていると思わないじゃない」
「ぼくも君が洗濯すると思わなかった」
「あんなふうに脱ぎ捨ててたら洗っていいのかと思うわよ」
私は、無数の小説の破片でおおわれ、豆腐工場の爆破現場から発見されたようになっているシャツを手に取って悲しみに暮れた。
私はとても言葉では言いつくせない苦労の末、一編の小説を書き上げた。ほんの短い小説で、それを読むには10分もかからないだろう。だが、私にとっては何ものにも代え難い作品だ。
ところが、妻がそれを粉々にした。いずれきれいに書き直すつもりで、まだ紙にボールペンで書いた状態であったのだが、それを折りたたんでいつも着ている青い木綿のシャツのポケットに入れた。すると、妻が気づかずに洗濯してしまったのだ。
「だって、そんなものをポケットに入れていると思わないじゃない」
「ぼくも君が洗濯すると思わなかった」
「あんなふうに脱ぎ捨ててたら洗っていいのかと思うわよ」
私は、無数の小説の破片でおおわれ、豆腐工場の爆破現場から発見されたようになっているシャツを手に取って悲しみに暮れた。
「このシャツだけかい」
「なにが」
「小説の破片がくっついてるやつだよ」
「このグレーのズボンにもついてるわよ。ほら」
「君の服にはつかなかったのか」
「元々別に洗ってるもの」
「えっ。知らなかった」
「そんなの、だいぶ前からよ」
私は未練たっぷりにシャツとズボンをしばらく眺め、それから決心してそれらに強くアイロンをかけた。破片がはらはらと落ちるのを防ぐために。そして、それを着た。
「どこへ行くのよ、そんなもの着て」
いぶかる妻に取り合わず、私はそのシャツとズボン、いや、小説の破片を身にまとって家を出た。せっかく書き上げた小説を、私はとにかく発表せねばならない。世間の人に読んでもらわなければならないのだ。
道を歩くとみなが不審そうな目を向けた。遠目には単なる模様と見えるようで、至近距離まできてぎょっとした顔になるひともいた。電車に乗ると車両中の人々の視線が集中するのがわかった。私の作品が注目を浴びているのだ。それは悪い気分ではない。
「あのう」
つり革を持って立っている私に、学生風の男が話しかけてきた。
「はい」
「感動しました」
「というと、読んでくださったのですか」
「はい、右肩の、この破片が始まりですね。そこからこうつながって、ズボンのこの辺がクライマックスで、あと、背中のここまでだと思うんですが、主人公の悲しみが手に取るようにわかりました」
「そうですか。読む人に感動を与えることができる。これは小説家にとって無上の喜びです」
「あのー」
また別の、若い女が話しかけてきた。
「私も感動しました。なんか、泣けちゃって。でも、主人公がバナナの皮だなんて、ユニークな設定ですよね」
白髪交じりで体じゅうの肉がゆるんだ男が割り込んだ。
「私も小説を書いておりまして、なかなか興味深く読ませていただきました。この作品の持ち味はなんといってもユーモア感覚ですな。しかし、この小説の主人公がバナナの皮だと思う人がいるというのは驚きです。いったいどこをどう読んだらそう思えるのか」
若い女が憤慨した。
「バナナの皮が主人公よ。ほかにどう読めるっていうの」
学生風の男も異論を唱えた。
「ユーモア感覚というのは、逆説的な表現でおっしゃっているのでしょうか。それとも単にこの作品を読み違えているのでは」
「わたくし、短歌をたしなんで50年になりますが」
いまにも倒れそうにやせ細った女が
「最後の場面が『女はパンを手に』で終わっているのがよいと思いました。まるで文の途中でちぎれたみたいな終わり方ですけど、かえって、そこはかとないものを感じました。余韻があると申しますか」
「その破片は終わりの場面ではないですよ。そこからこの破片へと続くんです」
学生風の男が私の脇腹からへそのあたりを指先で示しながら反論した。
言われた女は私のズボンのひざの裏あたりをさわって
「あら、それはむしろこの破片に続くものでございましょう」
「ああ、何をもめてるんです。この破片からここにつながって、そこからこの破片に乗り換えです」
突然現れた車掌が私の腹をなでながら言った。
「ここをじっくり読めば私の言うことが正しいとわかるはずだ」
肉ゆる男が左乳首付近をつつきながら言う。
「じゃあここはどうなの」
若い女がズボンのチャックのそばを指さす。
学生風男は私の右腕をつかみ
「ああじれったい、重要なのはここです」と叫ぶ。
「やめてください、私の作品がはがれてしまう」
私はたまりかねてうずくまった。
疲れ果てた私は電車を降りると恋人の部屋に行った。
「あら、なにそれ。紙切れがいっぱいくっついてて…あ、小説なんだ。へー、これ、自分で書いたの?」
「そうだよ。シャツのポケットに入れてたら洗濯されてしまって」
「あはは。でも、だいたいわかるわよ。えっと。これは二人の女と一人の男のお話ね。男は小説家で、ある日電車に乗って街に行き、たまたま入った映画館で自分の未来を描いた映画を見るのね」
「そう、そう、その通りだ。わかるんだね、こんなになっても」
「もちろん。あたし、文学少女だったし。でも、最後はどうなるの?」
「最後?」
「だって、肝心の最後の部分が欠けてるもの。すごく気になるわ」
そ、そうなのか。では、みんな最後の部分が欠けていることにも気づかずああ
だこうだと言ってたのだ。私はがっかりした。
「どうも、その部分の破片だけなくなったみたいだな」
「どんな結末なの? 覚えていないの?」
「ぼくは記憶力が悪いんだよ。あれこれ迷ったことは覚えているが、最終的にどんなふうにしたのか覚えていない。すぐに忘れるから書いたんだけど。困ったな」
「そうなんだ。うーん。私なら、どう書くかなあ。『おれはその映画館を破壊することに決めた』とか、どう?」
「なんてむちゃくちゃな。でも、それもいいかもしれない」
「ただいま」
妻はリビングでテレビを見ながらジャイアントコーンをばりばりと食べていた
が、私の姿を見るなり話しかけた。
「その小説ね」
「うん」
「最後の部分が欠けてたでしょ」
「なんで知ってるんだ」
「そりゃあわかるわよ。悪いことしたと思ってまじまじ見てたら、だいたいのストーリーがわかったもの。でも、最後の部分がないから気になって」
妻も気づいていたのか。意外だった。妻はめったに本など読まず、たまに何か
広げていると思ったら通販のカタログだったりする人間なのだが。
「私のせいでラストの部分がなくなったとしたら悪いから、私なりに考えたの。こんなの、どう? 『結局おれはバナナの皮になるしかないと思った』」
「妙な結末だな。でも、君が一生懸命考えてくれるなんて思わなかった。いや、その結末もいいかもしれない」
「と思ったら、最後の部分らしき破片が見つかったの」
「えっ」
「あなたのシャツとズボンといっしょに、パンツも洗ったんだけど、そのパンツにくっついてたの。最後の破片」
「パンツに…」
「パンツは白いから気づかなかったのよね。ほら」
私は妻が寄越したくしゃくしゃの小さな破片を受け取った。そこには次のように書かれていた。
おれはため息をつきながら、どこまでも美しい青空を見上げた。
最低の結末だと思った。
【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
みっどないと MIDNIGHT短編小説倶楽部
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