ショート・ストーリーのKUNI[78]おしまいだ
── ヤマシタクニコ ──

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ある日、作家・石山岩雄宅のダイニングキッチンから、わめき声ともなんともつかぬおそろしい声が聞こえてきた。岩雄の妻・鉄子はあわてて室内に入った。

「どうしたんですの、あなたっ」
「あああああ、私はもうだめだ、もうおしまいだ」
「どうしたんですか、いったい」
「とと、トースターにトーストが」
「それでいいじゃありませんか。トースターに炊飯器が入ってるほうが変ですわ」

「そうじゃないのだ。今、私は創作活動に行き詰まり、パンでも焼いて食べようかと思って、見よ、この6枚切り食パンを手にトースターの扉を開けたのだ。すると、すでにこのように焼き上がってすっかり冷めたトーストがある。おそらく私がすでに焼いたのに、それを忘れてもう一回同じことをしようとしたのだ。私はいよいよぼけ始めた。おしまいだ。おしまいだ。こんなぼけた頭でそもそも小説が書けるはずがない。ああ私の人生はいま終わった」

「一体何事かと思えばそういうことだったんですか。驚かせないでくださいな」
「なんだその反応は。おまえ、まさか私がこれまでにも同じようなぼけの数々をはたらいていたので、もはや驚くに足らぬとでもいうのか。そうか。私はそんなに以前からぼけていたのか。おまえたちは気づいていながら気づいていないふりをしていたのだな」
「まさか。そ、そんなはずがないじゃないですか」
「じゃあ何だというのだ」



「そそ、それは、えっと、ああ、思い出しましたわ。そのトーストは私のですわ。さっき急におなかがすいたので、トーストでも、と思って入れたのにすっかり忘れていましたわ。ほほほほほ。最近物忘れがひどくて」
「そうか。私ではなかったのか。それなら少し安心だ」

そこへ息子の鋼一がやってきて冷蔵庫の扉を開けながら
「あーあ、またこんなものが」
「どうしたの、鋼一」
「アイスクリームを食べようと冷凍庫を開けたらホッチキスが入ってた。やってらんないぜ、もう」
「なんだって、それは私のホッチキスではないか。ゆうべから、ないないと思って探していたのだ。ああ、こんなによく冷えて、うっすら霜までついて」
「霜取り機能が弱っているのかしら」
「そういう問題じゃない。さては私はいよいよぼけて、無意識のうちにそんなところへホッチキスを入れたのか。ああ、なさけない。やっぱり私はおしまいだ」
「鋼一、よく考えなさい。そのホッチキスは、あなたがそこに置いたんじゃないの」
「ええっ」

鉄子は鋼一の足をぎゅっと踏みつけて言った。
「あなたは忘れたかもしれないけど、おととい『ホッチキスはよく冷やしたほうがたくさん綴じられるらしい。wi-fiか3Gかは問題じゃない、温度が大事なんだ』と言ってたじゃない。おおかたツイッターか何かで読んだんでしょ。ほら、そうでしょそうでしょ」
「ええ? あー。そういえばそうだった、かな。ははははは。すっかり忘れていたよ。いま思い出した。おれってばか」
「おまえたち、私をかばってうそを言ってるのではないだろうな」
「まままさか。そんなことあるはずないじゃないですか」
「おれがおやじをかばうわけないだろ」
「それもそうだな。ちょっと安心したよ」

そこへ娘の錫子がやってきた。
「あー、もうやんなっちゃう。なんであたしのお気に入りのトートバッグに冷凍ギョウザが入ってるわけ。すっかり溶けて濡れてるしくさいし。どうせまたパパ」
「私が何をしたというんだ、錫子」

鉄子があわてて錫子の首を絞めあげながら
「錫子ったらおかしな子ねえ、突然『パパ、パパ、パンパカパーンパパパパンパカパーン、今週のハイライト』なんて言いだして。漫画トリオはもう解散したのよ。横山ノックは死んだのよ」
「あたし、そんなこと言ってないわ」

また鋼一が
「やばい。今度はラーメン鉢の中にひげそりが」
「鋼一、いちいち細かいことを言わなくてもいいでしょ。そんなことにこだわってるから日本のケータイはガラパゴスなんて言われるんだわ。あなた、なんでも、なんでもありませんわ」
「やっぱり私をかばってるんじゃないのか、鉄子、正直に言ってくれ。ひょっとして私は本当にぼけて、とんでもないことを」

「私があなたをかばったりするはずがありませんわ。なぜなら私、あなたのことは前から大嫌いですもの。何が悲しくて」
「なんだって。それは本当か」
「ええ、あなたの顔も声も、ひげの生え方も、貧乏揺すりのくせもカップヌードルのふたを全部はがさずくっつけたまま食べるところも、あなたの好きな天地真理もみんな嫌いですわ。なんで結婚したのか自分でもわかりませんの」
「そうか、それなら安心だ。私はまだぼけていないのだな」

錫子が岩雄のズボンのすそをめくりながら
「もー、またあたしのレギンスはいてるじゃない。それ、パッチじゃないんだってば。やっぱパパぼけてんじゃん」
「錫子、なんてことを。パパはぼけてませんっ。前からそっちの趣味があるだけなの」
「ええっ、そうなんだ」

自分の部屋から鋼一が戻ってきて
「洋服ダンスを開けたら下着姿の知らないおじさんがいたんだけど」
「なんだって。ああ、私はついにそんなことまでやってしまったのか。鉄子、やっぱり私はもうだめだ。いっそ極上の寿司と天ぷらを食べて死んでやる」
「あなた、気にしないで。鋼一、そんなことで騒がないで。どこの家庭にもあることじゃないの、そんなこと。お父さんはぼけてませんっ」
「いや、そうじゃなくて」

そのとき、岩雄がわめき声ともなんともつかぬ一段とおそろしい声を出した。
「うわああああ。私はいま突然思い出した」
「あなた、なんですの、何を思いだしたんですの」
「私は、ぼけた作家が主人公の小説を書こうとしていたんだ。それで自分で体験するために作家魂を発揮して、ホッチキスを冷凍庫に入れたり、錫子のレギンスをはいたりしていたのだった。そのことをすっかり忘れていた」
「ええっ、ではぼけたふりをしていたんですか、いえ、ぼけたふりをしていたつもりがほんとにぼけていたんですか。じゃなくて、ええっ、どういうことなんですか」

「私にわかるわけがないだろ。これはレギンスとスパッツの違い以上に難しい問題だ」
「自分の能力を超えた作品に挑戦しようとしていたのね。惚れ直しましたわ、あなた」
「それより、あのおじさんをなんとかしろよ」
「鋼一、しつこいわ。あなたにはがっかりよ。時代はiPadでkindleで電子出版なのに」
「あーっ、なんということだ。すでに私は自分で冒頭部分も書いておきながらすっかり忘れていたようだ。おしまいだ、おしまいだ」

鉄子と錫子と鋼一がパソコンの画面をのぞき込むとそこには次のように書かれていた。

ある日、作家・石山岩雄宅のダイニングキッチンからわめき声ともなんともつかぬおそろしい声が...

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