ショート・ストーリーのKUNI[80]パスワード
── ヤマシタクニコ ──

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電話が鳴った。
「もしもし?」
「僕だよ」
「え、もしかして」
「そう。君の元夫だよ」
「切ってもいい?」
「ああっ、だめ、だめだよ! 困ってるんだ」
「何を」

「いま、会社なんだ。君は知らないだろうが僕は今、とあるIT企業に勤めている。何をしている会社かと聞かないでくれ。いえるのはただ、セキュリティに細心の注意を払わねばならない会社だということだ。スタッフはみんな個室をあてがわれ、あらゆる仕事はパソコンでこなすが、メインデータにアクセスするにはパスワードが必要だ」

「それで?」
「そのパスワードを忘れてしまったんだ。どうしても思い出せない。君なら知ってるかと」
「知らないわよ」
「いや。少なくともヒントになる言葉を、君は持っているはずなんだ。僕たちは20年間結婚生活を続けた。結婚する前には3年間つきあった。君が好むと好まないにかかわらず、僕のことは君がいちばんよく知っている。僕の所有する情報の大半は君にリンクされている」



「パスワードって、どうせ生年月日とか?」
「試してみた。ぼくが11月3日なので1103、君の誕生日は5月27日なので0527、どっちも試してみたがはねられた」
「さかさまにしてみたら?」
「やってみたがだめだった。結婚記念日は2月14日だが0214も違った。君と初めてキスをした日で0804にしてもだめだった」
「そんなこと覚えてるの。きも。それより離婚記念日にしてみれば?」

「おお、そうか。やってみよう。離婚届に判をついた日で1024...だめだ。ちが
 った。ああ、そうだ。パスワードは英数半角文字で8文字以上だっんだ」
「そんなこと早く言ってよ」
「ああ、思い出せない。えっと...そうだ、ひょっとしたら君の名前かもしれないな。マリアンヌだっけ、いや、ジャネットだっけシャルロットだっけ」
「明美よ」
「ああ、本名はそうだった。akemi...5文字か。明美ちゃんにしてもだめだ。明美さん。明美はん。明美どん。あけぽん。どれも違うようだ。ああ、どうしよう」
「電話切るわよ」

「ああ、待ってくれ。じ、実は、パスワードを10回以上間違うと、ドアが自動的に外からロックされ、部屋の隅からは少しずつ水が出てくるようになっている。すでにちょろちょろ水が出て、床にたまりつつあるが逃げられない。身の危険が迫っているんだ。なにしろセキュリティを重んじるIT企業なんだから」
「私に関係ないし」

「何か、ヒントを。えっと。そうだ、君の好物かもしれない。そうだ。入れてみるよ。くしかつ...違う...あんきも...違う...エイヒレ...スジポッカ...ああ、どれも違うようだ。教えてくれ、君の好物は!」
「いかげそ」

「あ、そうだ、いかげそだ! そうだ、それにちがいない。えっと、ikageso...7文字だ。違う。じゃあ、じゃあ、僕が今まで感動した映画のタイトルとか、そういうのかもしれないな。うう〜ん...何だっけ、ゴッドファーザーでもない、ETでもない、ああ、あの、ほら...ああ...新じゃがの含め煮でもない、ちくわとこんにゃくのピリ辛煮でもない、鶏肉とごぼうの甘辛煮でもない...」
「『ショーシャンクの空に』でしょ。でも途中から爆睡してたじゃない。いびきまでかいて」
「いや、ちゃんと観てたさ。それそれ、きっとそれだよ。でも、スペルがわからないけど...syosyankunosorani?? shoshankunosolani?? shoushanku??...違うようだ。はねられた。スペルの違いじゃないかもしれない」
「もうあきらめたら」

「そんなわけにいくものか。ああ、水がひざまで来た。やばい。ぼくは泳げないんだ。どうしたらいいんだ。思い出せ、思い出すんだ。そうだ、えっと、えっと、君と最初にデートしたときの待ち合わせ場所かも知れない。いかにもパスワードに使いそうじゃないか。そうだ。どこだっけ」
「思い出したくもないわ」
「そそ、そこをなんとか」
「いきなり30分も遅れてきて、そのことを謝りもせず、しかも自分から誘っておいて、何のプランもなし。映画館決めるのも喫茶店でメニュー決めるのもみんな私にまかせて」

「ああ、ごめん、ごめん! で、どこだっけ。梅田の紀伊国屋前...違う...難波のロケット広場...ちがう...泉の広場、キリンプラザ前、なんなんタウン...どれもちがうようだ、ああ、どこだっけ」
「さあね」
「みみみみ水が腰まで来てしまった。パンツにしみこむ。冷たい」
「天王寺公園よ。今だから言うけど、真夏みたいにかんかん照りで横では植木市やってて、おっちゃんおばちゃんがいっぱいいて時々ホームレスさんも通ったり。そんなとこで若い女を30分も待たすか、ふつう」
「ごごご、ごめん! よし、tennouji...ああ! これも違うようだ、どうしたらいいんだ!」
「悪いけど歯医者の予約入れてるの」

「まままま待ってくれ。ええっとええっと、ああ、パニクっててよけい思い出せない。机の上にのぼろう。お願いだ、僕がパスワードに使いそうな言葉は」
「知らないってば」
「君の気持ちはわかる。そうとも。僕にいまさら協力なんかしたくないんだね。そりゃそうだろ。僕は至らない夫だった。君にもっともっとやさしくするべきだった。君をいろんなところに連れて行ってやるべきだった...そうだ、君がふだんから行きたいと言ってたところは? それかも知れない! どこだった?」
「どこだと思うのよ」

「う...水がどんどん...すわってられない...今宮神社の十日戎!」
「あほか」
「岸和田のだんじり! すまない、一度も連れて行ってやれず」
「行きたくないし」
「有馬温泉だ、そうだろ! 今度いっしょに行こう!」
「全然私のことわかってないわ」
「じゃあどこなんだ、も、もう水が胸まできて、片手でノートパソコン持ちあげて、片手で電話してるんだよ。なんとかしてくれ。パソコンが重い」
「iPadにすればよかったのに」
「あれもけっこう重いんだ! ああ、そんなことより、どこだ!」
「ルミナリエよ、神戸の」

「ルミナリエ! そうか! ルミナリエ...待てよ」
「どうしたの?」
「君が今まで答えてきた言葉は明美・いかげそ・ショーシャンクの空に・天王寺公園・ルミナリエ。その頭文字をつなぐと、あ・い・し・て・る...愛してる! これがパスワードだ! 愛してる、愛してる! そうとも、僕は君を、まだ愛してる、愛してるんだ!」

「くっさー。そんな芝居して私とよりを戻そうっていうのね。何が愛してるよ。ほんの少しでも信じかけていた私がばかみたい。何がセキュリティーよ、何がIT企業よ。どうせほんとはどっかの雑居ビルの一室でエロチラシでも作ってんでしょ。あ、もうこんな時間。歯医者行かなきゃ。時間のむだだわ」
「ままま、待ってくれ、スザンヌ...じゃなかった、明美! 待ってくれ! うぐ、苦し、い」

電話が不通になった。

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