ショート・ストーリーのKUNI[93]午後の茶碗蒸し
── ヤマシタクニコ ──

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最初は雪が降ってるのかと思ったけど、よく考えたら冬じゃなかった。ふと見上げた空に点々、ほんとに小さい点々に、それはみえた。仕事が休みで、ひさしぶりに映画館に行った帰りだった。平日の昼間に都心を歩く人はみんなせかせかと歩いていて上を見上げる人は少なかったけど、それでも素早く一部の人が気づいた。

「なんだ、あれは」
「鳥?」
「ちがう。もっと大きい」
「いつからあったっけ?」

目を細めて見ても小さすぎて判別できなかった。最初は。それがだんだん大きくなった。雪のかけらのようだったのが虫のようになり、鳥の影かと思うようになり、次第に、もっともっと大きくなった。つまり、高度を下げつつあった。

「あれ? あそこにあるのは...」
「コロッケだ」
「そうだ、コロッケだ!」
「空にコロッケが浮いてるんだ!」

その言葉にたくさんの人が初めて空を見た。コロッケだけじゃなかった。空に浮いているのは。みたらし団子もあったし、ハンバーガーもあった。桜餅やおにぎりもあった。それらが少しずつ高度を低くして、頭上に接近しつつあった。



「きゃー!」だれかが悲鳴を上げ、それは一瞬で拡散した。みんな悲鳴を上げ、走り出した。走り出しながらも、頭上の物体が気になるので、少し走っては立ち止まってみたりしていたが、そのうち、物体の動きが止まった。

ハンバーガーもみたらし団子も、コロッケも、いまははっきりと細部までみてとれる距離にまで下りてきていた。どれくらいか正確にはいえないが、5階建てのビルよりまだだいぶ余裕の上空。なのに細部がわかるということは、途方もなく大きいということだった。コロッケもおにぎりも。

それら巨大な物体がふわりふわりと浮いている。落下する危険性は低そうだとみて、地上の人々はいまは走るのをやめ、ぽかんと口を開け、ただ見ていた。あたしは携帯でジュンちゃんにかけた。すぐに眠そうな声が出た。

「あたし。ねえ、見た、空?」
「空がどうしたんだ? いま起きたばっかりでさ」
「たいへんよ。いろんなものが浮いてて。早く見て。いまから帰る」

あたしはそれだけ言ってぱちゃんと携帯を閉じた。そうこうしてる間にも空の物体は少しずつ増えていた。あたしの前を歩いているサラリーマン風の中年の男がつぶやいた。
「ざるそばか。おれの大好物だ」

その男の頭上には巨大なざるそばが浮かんでいた。男が歩くと、ざるそばもついていくようだった。
「あんたもかい」
別の男が声をかけた。作業服姿で古びた自転車を押していた。
「というと?」
「おれもさ、カレーパンがこの世でいちばん好きなんだ」

その男の頭上にはカレーパンがぷかりぷかりと浮いていた。あたしはどきりとした。
「いつか『この世で最後の日にもう一度食べたいものは何?』という質問されてさ、おれは即座にカレーパンと答えたもんだ」
サラリーマン風の男が言った。
「私も同じ質問をされた。そして、ざるそばと答えた!」

瞬間、あたりが静まったような気がした。そしてその後、ざわめきが秒速で広がっていった。叫び出す人がいた。しくしくと泣き出す人もいた。
「今日で世界は終わりなのか」
「まじかよ!」
「うそだ。信じない」

あたしはいつか読んだ小説を思い出した。なんていう小説だっただろう。そう、恐竜が出てきて、こわくて悲しくて...ああ、思い出せない。かなりの人が携帯でだれかと話していたり、ネットを見たりしていた。タブレット型の端末をバッグから出す人もいた。近くのビルや住宅からどんどん人が出てきた。空を見ようとして。

「やばい。おれの上に牛丼が浮かんでる。つゆだくで」
「やっぱり。おれの上はギョーザ定食だ」
「いよいよきたか」
「なんか興奮してきたよ」
「みんないっしょに終わりってわけだ」
「それ、いいかもな」
「いやー、すげー眺めだ」

あたしはなんだか急がないといけないような気がして、走りだした。走ってバスに乗ろうとした。だけど、バスは動いていなかった。地下鉄も。だれもが空の見えるところに出てきて、どこかを指さし、何か言ってた。最初は至る所で聞こえていたクラクションはやがて聞こえなくなり、地上は人間と、動かなくなった車であふれかえった。

それだけではない。どんどん増える物体で、いまや空もあふれかえっていた。カツ丼やチーズケーキ、卵焼きから鉄火巻き、八宝菜、うまい棒やチョコバナナやポンデリングがふわりふわりと上下移動をしながら浮遊している。そしてひとつひとつが重なったり隠れたり、また現れたり、その動きは優美ともいえるもので、見ていて飽きなかった。

ある男の頭上では奇妙な光景が繰り広げられていた。空に浮かぶ、ぷくぷくと変形を繰り返す物体。白くてまるい、おにぎりのようなかたちをしている、と思うとそれがずぶずぶと崩れてがんもどきになる、と思ったのはわずか数秒でまたぐにゃぐにゃとかたちが変わっていつのまにか焼き鳥になっている。「この世で最後に食べたいもの」も決めかねている優柔不断な男なのか。

別のところでは小さな子供が空の上の巨大なアイスクリームを取ってくれとせがみ、母親を困らせていた。あたしはふと、自分の頭上には何が浮かんでいるんだろうと思った。あたしの好物ってなんだっただろう?あたしは、自分が特に何も思いつかないことに驚いた。おそるおそる上空を見ると、いまはぎっしりと食べ物におおわれた空が、あたしの上だけぽっかりとあいて青空がのぞいていた。そして、あたしが歩くと、その青空もついてきた。だれかがまた素早くそのことに気づいた。

「おい、あの女を見ろよ」
「あいつの上空だけ何もない!」
「本当だ」
「何なんだ、あいつは」
「あれが張本人?!」
「何の?」
「何でもいいさ!」
「つかまえろ!」

一人が走り出し、仲間がそれを追い、何もわからないまま周りの人が走り出し、あっというまにそれは集団になった。あたしは全力で走り、人と人の間をすり抜け、路地に入り、店の裏口にまわり、走って走って、死にそうになるくらい走った。

そしてまた、走った。走っても走っても、後ろから人々はついてきた。もう歩けない。パンストは破け、はだしの足先からは、どこで何を踏んだか血が流れていたけど、いつ靴を脱ぎ捨てたかさえ覚えていなかった。

腕もどこかにぶつけたみたいでずきずきと痛んだし、胸はいまにもバクハツしそうに激しく鼓動を打っていた。苦しい。呼吸ができない。もうだめ。あたしはみんなにつかまってしまう。ぜいぜいと息を吐きながら観念してふと目を上げると、茶碗蒸しが見えた。それは無数の浮遊する食べ物の中でなぜか、縁取りでもされてるみたいによく目立った。見覚えのあるかきつばた模様の器の茶碗蒸し。あたしの家の食器棚の上の段の奥のほうに入れてある器。それがゆらゆらとこっちに近づいてくる。その茶碗蒸しの下に、あたしはジュンちゃんのなつかしい顔を見た。

「遅いから迎えにきたんだ」
あたしは泣き出した。疲れがいっぺんに出て、顔をぐしゃぐしゃにして、わあわあと声をあげて泣いた。
「その茶碗蒸し...」

「うん。ずっと前に君がつくってくれた。とてもおいしかったからもう一回作ってほしかったんだけど、君はいつも忙しそうで言い出せなかった。茶碗蒸しは手間がかかるのよ、って君はいつも言ってただろ」
「あれは失敗したのよ。レシピの通りにしたつもりが、つもりが、うまく、いかなくて」
「そんなことない。とてもおいしかった。ほんとうにおいしかったんだ」

ジュンちゃんがあたしを抱き寄せると、背の低いあたしはすっぽりとジュンちゃんに包みこまれ、あたしの上空の青空は自然と閉じられた。それを見て、あたしを追いかけてきた人々は拍子抜けの体で立ちつくしていた。


「おい、これはいけない」
「血圧がどんどん下がっています!」
気がつくとあたしはベッドに横たわっていて、まわりで何人もの人があわただしく動いていた。身動きもできない。あたしはどうしたんだろう? こんなにたくさんの管がついて、機械につながれて。ああそうだ。今日は仕事が休みでひさしぶりに映画に行って。その帰りに、交差点で立っていたら急に車が突っ込んできて、あたしは一瞬で何メートルもはねとばされて...それから、どうなったんだろう? あたしは死ぬのだろうか? ジュンちゃんはどこにいるんだろう? ジュンちゃん。あたしの大好きなジュンちゃん。ジュンちゃんに、もう一回茶碗蒸し、作ってあげたかったなあ。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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書いている途中で星新一の「午後の恐竜」を思い出した。無意識のうちに影響されていたのかなと思い、それ以後はあえて意識して書くようにした。といっても、まさか張り合うとかいうつもりじゃなくて。「午後の恐竜」は星新一の最高傑作だと思っている。