ショート・ストーリーのKUNI[112]感動体験
── ヤマシタクニコ ──

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電車を降り、ホームから改札に向かう階段を上っていた彼はふと、親子連れに気づいた。母親とまだ3〜4歳くらいと思える女の子の2人。母親は身の回りのものを詰めたらしいショルダーバッグのほかに、ボストンバッグと布製のトートバッグをひとつずつ両手に持っていて、どちらにもぎっしりとものが詰まっているようだ。

女の子も、少しでも母親を手伝おうと思ってレジ袋をひとつ下げているが、たいした助けにはなっていない。そもそも、母親の足取りが、どんな事情からかさんざんあちこちをまわってきた人のそれで、階段一段あがるのもつらそうに見える。

彼は2、3段を早足で駆け上がり「持ちますよ」と言って母親の手から荷物を取った。母親は驚いて振り返ったが、すぐ弱々しくほほえんで「すみません」と言った。

荷物は彼にとっても相当な重さで、結局改札を抜けて、タクシー乗り場まで持っていくことになった。だが、口数こそ少ないが本当に安心したように穏やかな表情になった母親を見ると、彼も持った甲斐があると感じた。

タクシーの順番が回ってきて、いざ乗り込む直前、女の子がふと、自分のポケットをまさぐり、もじもじしながら彼に何かを差し出した。「あげる」それは電車に乗る前にどこかで摘んできたらしい紫の小さな花だった。すみれ、だろうか? すっかりしおれたすみれ。お礼のつもりなのだ。

彼は女の子にむかってにっこりほほえんだ。タクシーはすぐ走り去ったが、彼の心の中にあたたかいものがゆっくりとひろがっていった。

その夜、彼がパソコンを立ち上げると一通のメールが届いていた。




───今日の駅での体験はいかがでした?
ささやかではありますが、感動を味わっていただけましたでしょうか?

あ。と彼は思った。

何日か前、道を歩いていると偶然、学生時代のクラスメイトに会った。クラスメイトはなかば強引に彼を喫茶店に誘い、簡単な説明を終えると書類を取りだした。

「ここにサインすればいいんだ。あ、メールアドレスも忘れずに。連絡がくるから」
「うさんくさいなあ。何なんだよ、感動体験って」
「おれもよく知らないんだ。知り合いの紹介なんで。でも、感動っていいことだろ」
「まあな」

「みんな退屈してるだろ。おもしろくないことばかりで疲れてるし。そんなぎすぎすした毎日にささやかな感動をお届けします、てことだそうだ。心のリフレッシュってやつ?」
「ふうん」
「心配すんなよ。別に入会金も会費もいらないんだ。少なくともおれは払ってない」
「おまえも会員なのか」
「もちろんさ。はやってるんだ」

それがこれなのか。だが、するとあの親子は雇われて演技していたのだろうか? とてもそんなふうには見えなかったが。それに、いつも乗る電車ならともかく、今朝は寝過ごして、どうせならと思って歯医者に寄ってから出勤した。尾行でもしない限り、駅での出会いを仕組むことは不可能だろう。まあ、深く考えないでおこうか。

その日はそれで終わった。

数日後、休憩時間に人気のない廊下を歩いていると、どこからか話し声が聞こえた。なんだろうと思って、一瞬聞き耳を立てるとそれはふだんは使わない階段の踊り場から聞こえるのだ。盗み聞きをするつもりはなかったが、彼はつい近づいてみた。

ものかげで携帯を片手に話しているのは、隣の課の女子社員だった。化粧が派手で、だれにでもため口をきく。夜な夜な遊び歩いてるらしいとか、ろくなうわさのない女だったが、いま聞こえてくるのは同一人物とは思えない神妙な口調だ。

「...うん、おとうさんも体、気をつけないとだめだよ...あたし、心配してるし...うん...うん...いまね。セーター編んでるんだ。先輩で編み物得意なひとがいてね。こっそり通って教えてもらってるんだよ...うん、仕事終わってから...だいぶ進んだから、完成したら送るよ...」

彼はなんだかうれしくなった。化粧が濃いからというだけで、何か決めつけてるところがあったかもしれない。ほんとは父親思いのふつうの女の子だったのか。盗み聞きはほめられたことではないだろうが、いいことを聞いた。セーター、うまく仕上がるといいなあ。

すると、その夜もメールが届いた。

───本日はいかがでしたか?
心がほっとする体験をしていただけたのではと思っています。

彼はしばらくモニタを見つめてぽかんとした。

その一週間後にはいつも通勤途上で出会うが、話をしたこともなかった高齢の女性から突然話しかけられた。聞けば、女性の亡くなった息子に彼がどことなく似ているので以前から気にかけていたという。それが、近々遠方の老人ホームに入居することになり、息子と別れるようでさびしいのでつい、声をかけたという。

思いがけない話ではあったが、息子の思い出を語る口調に、彼はつい目頭をおさえた。記念にと、高価そうなマフラーまで手渡された。予測してはいたが、夜、パソコンを立ち上げると、メールが届いていた。

───いかがでしょう。本日も感動していただけたでしょうか。

彼はもう、驚かなかった。
数日後に、またメールが届いた。

───そろそろ、もっと大きな感動をお望みではないでしょうか?
ご希望ならご用意できます。新たなお申し込みは必要ありません。
このメールに何も書かず、そのまま返信してください。

大きな感動、か。確かに、「ささやかな感動」では満足を得られなくなっていた、かもしれない。彼は少し迷ったが、「返信」ボタンをクリックした。

3日後。彼が翌日の会議の資料を整えていると、同僚の一人が沈痛な面持ちでドアを開けて入ってきた。緊張した様子に、まわりの人間も思わず表情をこわばらせた。

「主任が死んだ」
え、と彼は息をのんだ。ざわめきがひろがる。うそ。なんで。どういうこと?
「くわしいことはわからない。まったくの急死としか」
「うそ! 信じられない」
「昨日も元気に帰っていったし...まったくふつうだった」

「そんな...いまわれわれがやってるプロジェクト、主任が中心になって進めていたのに」
「持病があったとは聞いていたけど...」
「私たち、どうすればいいの」
「心配しなくていい。主任はおれたちのためにすっかり用意してくれていた。奥さんがこれをわれわれに、と」

同僚の手にはプロジェクト名が記された一冊の分厚いファイルがあった。駆け寄ったみんながページを繰ると、そこにはプロジェクトを進めるにあたって必要な工程、予算やイメージ、だれに何を頼めばいいか、外部に委託するにはどことどこがいいか、細かな企画を通すときに注意するべきポイントなど、部下たちが何より知りたいことがすべて書かれていた。

「主任は予測していたんだ」
「何も言わずに、でもあたしたちのこと心配してくれてたんだ!」
「これさえあればなんとかなりそうな気がするよ、な!」

みんな涙ぐみながらうなずいた。彼も涙をおさえられなかった。彼はその主任が好きだった。えらそうなことは言わず、黙々と自分にできることをやり遂げていく姿勢に共感していた。尊敬できる人だった。

彼ははっとした。そうだ。だからこそ、これが「大きな感動」なのか? ほかの誰かではなく、主任が死んだのは偶然なのか?

予想通り、メールが来ていた。

───本日は感動を味わっていただけたでしょうか?
われわれはもっともっと大きな感動を

彼は全部読まないうちにノートパソコンを閉じた。

喫茶店で隣のテーブルの女の子たちがおしゃべりしている。
「...それでね。彼ったら、時間を間違えてた私のこと、全然怒りもしなくて。それどころか私のためにお弁当作って持ってきてくれたんだよねー」
「えー!」
「かんどー!」

本屋で立ち読みをしていると背後の客の会話が聞こえる。
「もう枯れたと思っていた桜の木につぼみがついたんだよ」
「え、そうなんですか」
「桜に励まされているような気がしてね。もういちどがんばってみるかと...」

以前からそうだったろうか? 意識するから、街中が感動体験でいっぱいのように思えるのか。すべて偶然か。それとも、ひょっとしたらみんな、自分と同じように入会しているのではないだろうか? そうかもしれない。

自分に紹介してくれた友人も、知り合いの紹介だと言ってた。はやってる、とも言ってた。いったい、だれが何の目的でしていることなのかわからないまま、友人から友人へ、知り合いのそのまた知り合いから知り合いへ、事態はひろがっているのだ。

またメールが届いた。

───われわれはもっと大きな感動をお届けできます。
あなたに早く、それを味わっていただきたくて仕方ありません。

ものすごく晴れた日だった。真っ青な空。ハイコントラストの世界。光が多すぎる、と彼は思った。彼は広い交差点にいて、大勢の人々とともに信号が青に変わるのを待っていた。向かい側にも大勢のひとがいる。

付近ははなやかなショッピングビルやオフィスが建ち並び、けばけばしい看板が重なり合い、街路樹の根元にはくしゃくしゃのチラシが捨てられ、さまざまな方向から人が出てきてはまたどこかに行く。自転車がきいっとブレーキ音を立てて止まったと思うと昼間から酔客のグループが人混みを横切る。ありふれた繁華街の光景。

でも、ただならぬ雰囲気があった。何とはわからないが、大勢の人が、信号が替わるのを待つように何かを待っていた。やがて車用の信号も赤になり、交差点の中がしんと静まった。

すると、一人の男が飛び出した。そして
「もうたくさんだ!」と叫んだ。
「おれたちはほんものの感動がほしい!」
彼はどきりとした。言い当てられた気がした。
たちまち何人もが男の言葉を繰り返した。

「そうだそうだ!」
「つまらない感動体験はたくさんだ!」

大勢のひとが交差点内になだれこんだ。彼は後ろから押され、横からこずかれ、寄りかかった看板ごと倒れた。倒れた彼の上を何人もが踏みつけていった。交差点内はあっというまに群衆であふれた。みんな口々に叫んでいた。それはよく聞き取れなかったが、たぶん、こう言っていた。もっと大きな感動を!

その興奮は彼にも伝わった。そうだ。まさしくそうだ。彼は痛みをこらえながら立ち上がり、交差点の中に入っていった。久しく忘れていた高揚した気分だ。体があつい。自分と同じ気分のひとがこんなにいて、いっせいに声を上げている。何かが起こる。起こるにちがいない。ああ、いまここでこうして感じていること、これこそが感動なのではないか。

そう思った瞬間、疑念が生まれる。これもまた仕組まれているのか? そうなのか? それを振り切ろうとしたとき、ぱん、という音がして、悲鳴がそれに続いた。人々はあとずさり、交差点の中にぽかりとあいた空間ができた。その中心で男が血を流して倒れていた。ぴくりともしない。血だまりがゆっくり広がる。

静まりかえった交差点に、きーんという音、それに続いて調整の悪いマイクを通した声が、耳を聾するばかりのボリュウムで聞こえた。

   さあ、感動のときがやってきた!
   君たちにはもっともっと、大きな感動が必要だ!

交差点内のすべての目という目がきょろきょろと音源を探し、耳は必死で何か聞き逃しているかもしれないことを聞こうとした。だが何の手がかりも得られないまま、交差点内にさらに銃声が響いた。それは抜けるような青空の向こうから降ってくるようだった。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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あるイベントに参加するために6時半に起きた。私にしてはむちゃくちゃ早い。早起きすればそれだけ時間を有効に使える、早起きは三文の得とはよく言ったもんだな...というのが世間の常識らしいですが、私にはあんまりあてはまりません。その日一日眠くて何をやっても能率悪いし、影響は翌日や翌々日におよぶこともあります。早起きは三日間たたる、が正解なのですが、そんな体質なんとかしろ、ですか。すいません。