ショート・ストーリーのKUNI[115]好みの女
── ヤマシタクニコ ──

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こんなことも起こるのだなと思った。彼はひとりで生きてきた。結婚していたこともあるが、数年しか持続しなかった。そのことを別に悔いてはいない。妻だった女を恨む気もないし、自分が特に愚かだったとも思わない。なるようになっただけだ。

自分は何歳になったんだっけ? まだ自分ではそうは思っていないが、世間はたぶん彼に老人のレッテルを貼っている、だろうことはなんとなくわかる。初老というところか。仕方ない。

その彼が、女と出会った。近所のスーパーで買い物を終え、店を出たときに女が後ろから呼び止めた。
「かごにこれが残ってたわ」

薄い袋に入った液体調味料の袋を、女は差し出した。かごに入れたのに袋に移すときにうっかり忘れることはよくある。特にひらべったいものは、かごの側面に貼り付くのだ。

「ああ、ご親切にどうも」
言いながら彼ははっとした。女が、美しかったから。少なくとも、彼の好みだったから。それを機に、彼は女と時々話をするようになった。どことは教えてくれないが、近くに住んでいるらしい。

何を話すんだって? 何を話したんだろう。むかしどんな仕事をしていたか。子どもの頃何が得意だったか。うれしかったことはどんなこと。好きな食べ物。




いやなことはあまり話さない。と思う。いや、話したかもしれない。彼は忘れっぽいから、いちいち覚えていない。まるで遠い山にかかる春がすみのように、そのへんはぼんやりしている。いいんだ。人生なんてぼんやりかすんでいるくらいがちょうどいいんだ。

女は30代だろうか。40くらいかもしれない。目が大きいが、笑うと目の回りにしわができる。でもかまわない。いつも明るい色の服を着ていて、そばにいるだけで気分がはなやぐ。黒やねずみ色の服を着ている女はきらいだ。よく笑う。彼がつまらない冗談を言うと予想の数倍笑う。ああ、楽しいなあと思う。こんな気分はひさしぶりだ。もう、二度と味わうこともないだろうと思っていた。こんなことが起こるなんて。

彼と女はどんどん親しくなっていく。ひとり暮らしの散らかった部屋を片付け、女を呼ぶ。女は手みやげに菓子を提げてきたりする。ところが、茶の用意をしようとして、彼はふいにめまいに襲われる。もう少しで頭を壁に打ち付けるところだったが、女が支えてくれたおかげで助かった。

「だいじょうぶ?」
「ああ。そういえば、病院に行ってたんだが、めんどくさくなって最近行ってない」
「いけないわ。明日にでも行って、ちゃんと診てもらって」
「気が向けばね」

女は悲しそうな顔をする。自分のことを心配してくれるのだ。そんな人間は、この世にもういないと思っていた。彼の親はとっくに死に、たったひとりいる弟が行方不明だが、もともと仲は悪かった。ひとりのほうが気楽だし、それでどうにかなっても自分の責任だから納得できる。でも、と彼は考えた。

最期のときにこの女がそばにいてくれたら。

いや、そんなことを考えないでおこう。いくらなんでも虫が良すぎる。

梅が咲いて桜が咲いて、散って、青空がまぶしくて目を細めてしまうような日が何日か続く。天気予報では次の日もいい天気らしい。それで思い立って、ふたりでピクニックに出かける。ピクニックだなんて自分で笑ってしまいそうだ。

待てよ。ピクニックでよかったんだろうか。自分がそんなものと縁のない生活をしてる間に世間ではピクニックという言葉が死語になっていたりして、その言葉を口にしたとたんに笑われたりしないだろうか。彼はそんなことばかり気にしている。笑われてもいいか。

で、その日になって弁当を持って、私鉄に20分ほど乗って、花がたくさん咲いているらしい有名な公園に行く。家族連れがいっぱいで気恥ずかしいが、考えたら彼も女とふたりなのだ。彼は女とふたりで青空を見上げては、ふたりで目を細める。そして笑う。

あ。と思った。女の笑った顔を見た瞬間、なぜか「ちょっと違う」という感じが突然した。かなり自分の好みに近いと思っていたのが、そうじゃないかもしれないぞというような。たぶん、笑った顔そのものではなく、そのとき笑顔のすきまからこぼれおちた何かが。

たちまち「ぜいたくいうな」と別の声が言う。まったくだ。100%好みそのものの女がいるわけない。いたとして、自分と親しくなれるわけがない。しかし、その小さな違いがいちごの種みたいにいつまでもはさまったまま取れない。忘れようと決めたとき、彼はまたもやめまいに襲われ、倒れてしまう。起き上がれない。

彼は女に言われるまま病院に行くが、入院のすすめは断ってしまう。なんとなくだるくて、寝たり起きたりの日々になってしまう。女はまめに通ってきて世話を焼く。看護師の資格があるのだそうだ。彼はふと思う。

最期のときにこの女がそばにいてくれたら。

待てよ。以前もこんなことを思ったような気がする。いや、気のせいか。記憶に自信が持てない。何もかもがぼんやりしている。でも、と彼はまた思う。できすぎじゃないか。なんだか妙だ。これはひょっとしたら、なにかの罠ではないか。

女は何かたくらんでいるのではないか。財産? 財産というほどのものはないが、まったく貯蓄がないかというとそうでもない。それが目当てか。なんてことだ。そう思うからかもしれないが、彼にはいよいよ女は自分の好みと違っているように思われる。声も、髪形も、歩くときの尻の揺れ方も、そう思い始めるとひとつひとつが気に入らない。

自分の好みの女はどうだっけ。好みの女。好みの女? そういう設問に、いつか答えたような気がする。あなたの好みの女性はどんなタイプですか。そう、確かに答えた。なんのために答えたのだろう?

彼の具合は加速度的に悪くなり、もはや会話も十分にできていない。時折、医者がやってきて女に指示をしていく。
「ちゃんと寝てないとだめよ」
「無理しちゃだめ」
「かわいそうに。もう、ちゃんとしゃべれないみたいね」

女はまるで子どもに対するように言う。何を言うんだ。どうせ財産目当てのくせに! おまえなんかまったく好みの女じゃない。失敗した。自分の最期はこんなふうになる予定じゃなかった。

不意に、脳内の霧が晴れるみたいにクリアになって、突発的に記憶が蘇る。二年くらい前のことだ。彼は台所のテーブルで、分厚い書類の一枚一枚に回答を書き込んでいる。

Q 最期のときに、あなたがそばにいてほしい人はどんなひとですか?
・女性  ・男性  ・どちらでもよい
Q 上の質問で「女性」と答えた方、その女性の外見はどんなタイプですか?

彼が回答を書き込んでいるのは「ひとりぐらしの方専用・いざという、そのときのための保険」だった。彼はネットでそのような保険があることを知ってすぐに説明書を取り寄せたのだ。

ひとり暮らしのあなた。ふだんは気ままな生活を楽しんでおられると思いますが、いざ最期のときのことを考えると不安になることがありませんか? 「孤独死」という言葉が脳裏から離れず、夜も眠れないことがありませんか? 当社はそのときのために必要な一切の手続きを代行することはもちろん、たとえば「好みのタイプの異性に抱かれ、その腕の中で安らかに最期の時を迎えたい」といったご希望もオプションサービスとしてかなえることができます。恋人や友人がいない方でも、心配いりません。ご希望の方はあらかじめ好みのタイプを記入してご登録くだされば.........

いつの間にか医師が枕元にいた。女に状況を聞いている。
「もう意識が混濁しています。ええ、もちろん、日頃から軽度の認知症ではありましたが、いまは私たちの会話も認識できていないと思われます」

女は彼の体にそっと腕をまわす。やせた彼を抱きかかえるような姿勢を取る。彼は違う、違う、と思う。

あのとき悩んだ。別れた妻と正反対の容姿を、あえて選択肢の中に探し、選んだ。目が大きくてはでな外見の女。彼の妻だった女は色白で目は細く、地味だがふうわりとした上質の和菓子のような女だった。着ているものも地味だったが、違和感がなかった。やっぱり自分がいっしょにいてくつろげるのはそういうタイプなのかもしれない。

なのに、今、微妙に違うタイプの女が自分を看取ろうとしている。違うんだ! でも、彼がそう言おうとしても声にならず、息がもれるだけだ。
そして、ついに。

「ご臨終です」
医師がそう言い、女がゆっくりと、やせて軽くなった彼の体をふとんに戻した。「これで幸せな最期を迎えられたことになるのですね。いやあそれにしても画期的なサービスだ。すばらしい。あなたもたいへんだったでしょうけど」

「ええ。この方の場合、医療機関から契約保険会社に末期がんの連絡があり、契約データに従って私が派遣されました。病気の告知は望まないということだったので、すべては極秘裏に、自然な出会いを装って進められたのです。幸か不幸か認知症が進んでいたので、たぶん何も疑わないままだったのではないかしら......」

女は立ち上がって帰り支度を始めた。やがて連絡を受けた保険会社から担当員が到着し、契約に基づいた処理がなされた。

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iPhoneのアプリでMinipianoというのがあって、ためしに入れてみた。たった1オクターブのピアノだけど、なんだか楽しい。ドレミの歌なら1オクターブで間に合う。アメイジンググレイスもオッケー。他に何がひけるかな。小学生のとき、ハーモニカが吹けるようになったときのことを思い出した。