ショート・ストーリーのKUNI[122]レタス
── ヤマシタクニコ ──

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ある日夫は買ってきたばかりのレタスを調理台の上に出す。がさがさと音をたてる透明フィルムをはがし、いちばん外側の葉をめくると、薄みどりのみずみずしい葉があらわれる。

「なんて美しいんだ」

夫はそういいながら一枚、また一枚と葉をちぎりかけて、ふと手をとめた。

「おおい、これを見ろ」

言われた妻がそばに行くと、夫は興奮した面持ちで言った。

「まるでいまにも飛んでいきそうじゃないか」

調理台の上にはころんとまるいレタス。そのレタスの左右に、ひろげただけでまだ根元をちぎっていない葉が2枚、確かに、翼を思わせるかたちでくっついている。

妻は見るなり
「レタスが空を飛ぶなら大根は海を泳ぐわ」
そう言って洗濯物を取り入れに行った。

「あいつはいつもああだ」




夫はひとりごとのように言った。それからレタスをまっすぐ見つめ、斜めから見、近寄ったり遠ざかったりして見つめては、にんまりとした。

「うん、見ればみるほど、これは空飛ぶレタスだ」

結局夫は夕飯にレタスは食べないことにした。予定変更。サラダはレタス抜きだ。お酒を飲みながら

「おまえはどうしてそんなに夢がないのかねえ。いや、想像力というか。日常を離れられないんだ。おまえにはおれみたいな仕事は絶対できないね」

「何よ。スーパーのパートで悪かったわね。デザイナーといってもたいしたもの作ってないくせに。だいたい仕事がないほうが多いのに」
「なんだと」

夫はむっとして口をつぐんだ。そのあとひと言もしゃべらず、おなかいっぱいになるとぐうぐう寝てしまった。妻もなんだかむしゃくしゃするのでさっさと寝てしまう。いや、寝てしまおうと思うが寝られない。薄暗がりの中でぐうぐう寝ている夫の顔をのぞき込むと、ぽかんと口を開け、子どもみたいな顔で寝ていた。

「むかしと同じ顔してる」と思う。20数年前と。

それから妻が自分のふとんに戻り、仰向けに寝てあれこれ考えていると、思った通りレタスがやってきた。レタスは2枚の葉をつばさのようにゆったりと動かし、団地の六畳間の天井から40センチくらいのところを浮遊していた。

そしてやや高度を下げ、つばさで妻を招く。妻は当然のようにレタスに乗った。レタスはそのまま窓から外に出る。団地の中を抜けると急浮上する。眼下に夜景がひろがる。団地の中にまだぽつぽつと見えるあかり。オレンジの外灯が連なる道路。ひときわ明るい駅前付近。

「きれいだね」
レタスは黙っている。
「あ、電車が来た」

闇の中をざーっという音とともに列車が駅めがけてやってくる。明るい窓の中に立ち上がって降りる支度をする人たちが小さく見える。パジャマのままレタスの上に寝そべってそれらを見ているのは不思議な感覚だ。

寝そべっている? それはレタスが大きくなったのか自分が小さくなったのかどっちかを意味している。まあいいさ。レタスはなんだか頼りになるひとの背中のようである。自分がいつからかほほをゆるめ、笑みを浮かべていることを彼女は知る。

「もっと遠くに行きたいわ」

そう言うとレタスはスピードを上げた。うすみどりの葉をはばたかせ、団地や駅前を後に、どんどん進む。古墳らしき黒々とした森をいくつも過ぎ、光の帯となった幹線道路を越え、ひんやりとした風が吹くほうへ。いつのまにか、下にはなにもなくなっている。いや、そうではない。海の上なのだ。暗い水の堆積がどこまでも広がっている。彼女は思わずレタスにしがみついた。

「こわい」

前方からなまあたたかい風が束になって吹き付ける。空には灰色と紫の雲が重なりあい、途方もない大きさで彼女をうちのめす。ふとそばを見ると、夫がいた。いつものしま模様のパジャマ姿で口をぽかんと開けて寝ている。

「むかしと同じ顔」

彼女がほほえみかけたとき、夫は一匹の青虫になる。
あっ。
声を上げることができなかった。なぜなら彼女も青虫だからだ。あたしたちは空に浮かぶレタスの上の小さな2匹の青虫。そう思ったとき、目がさめた。

朝の光が差す台所の調理台の上に、レタスはゆうべのままいた。それを見ていると夫が起きてきた。

「あ、レタス」

夫は目をこすりながら、まだ半分寝ぼけた声で言った。

「それ・・・葉がしなびているだろ」
「ええ?」
「どうしてだか、知ってるんだ」
「そう? どうして、なの?」

「おれはゆうべ、レタスの上に乗って空を飛ぶ夢をみたんだ。あちこちね。それで、レタスはすっかり疲れ切って、しなびているというわけだ」
「ふうん」

「おまえはそんな夢はみないんだろ。そういう女なんだ」
「空を飛ぶ夢なんかありふれているわ」
「そんなことないさ」

「人間はむかしから鳥にあこがれてきたのよ。使い古されたイメージだわ」
「それは・・・永遠のあこがれだからだ」
「レタスに乗ってどこに行ったの?」

「いろんなところさ。古いお城とか、森の中とか。そして、妖怪が現れて闘うんだ」
「ひとりで?」
「もちろんだ。おれは孤高の騎士。供はレタス・・・何をしてるんだ?」
「レタスを水につけるの。またぱりっとなるように」

妻は青いプラスティックの洗い桶にいっぱい水を張り、つばさを持ったレタスをそこに入れた。

「あ、青虫だ」

レタスの葉の間から2匹の小さな青虫が浮き上がってきて、彼女ははっとした。夢の中と同じ。小さな小さな青虫。胸の奥がじいんとした。なのに口では別なことを言っていた。

「やだ。青虫なんて。捨てて」
「まだ生きてるじゃないか。捨てずに飼おう。そうだ、チョウになるかもしれない。チョウは美しいぞ」

「レタスにつく青虫はチョウにならないわ」
「うそだ」
「ほんとよ。レタスにつく青虫は蛾の幼虫なのよ」

夫は一瞬黙り込んだ。

「おまえはいつもそんなつまらないことを言うんだ」

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ブログにも書いたように、現在歯医者に通院中。その発端となった「いきなり歯が欠ける」というできごとは自分ではかなりの「びっくり」だったが、会社のIさんに何気なく言うと「ああ、よくあるよね、歯が欠けるって。私、何回もある」と顔色ひとつ変えずに言った。彼女は私よりずっと若い。これまで、さぞかし苦難に満ちた人生を歩んできたのだろうと思った。