彼女はレイナと呼ばれている。彼女は自分がいまどこにいるのか知らない。どうしてそこにいるのか。今はいつなのか。自分はいつから存在し始めたのか。なぜ存在しているのか。彼女は何も知らない。
「今日は気持ちのいい天気だね」
声が聞こえると彼女の装置のどこかが反応して答える。
「ええ。あなたとお出かけしたいわ」
そのとき、それまで無表情だった彼女のシリコンラバーの顔がほのかに赤みを帯び、遠慮がちにほほえむ。ふたりで出かける幸福の予感に包まれているようにみえる。
「君はとてもきれいだ」
また声が聞こえると彼女はうれしさとはずかしさでまつげを伏せる。ほとんど同時に彼女の口から言葉が発せられ、目を上げる。
「うれしいわ」
「今日は気持ちのいい天気だね」
声が聞こえると彼女の装置のどこかが反応して答える。
「ええ。あなたとお出かけしたいわ」
そのとき、それまで無表情だった彼女のシリコンラバーの顔がほのかに赤みを帯び、遠慮がちにほほえむ。ふたりで出かける幸福の予感に包まれているようにみえる。
「君はとてもきれいだ」
また声が聞こえると彼女はうれしさとはずかしさでまつげを伏せる。ほとんど同時に彼女の口から言葉が発せられ、目を上げる。
「うれしいわ」
レイナの栗色の髪と柔らかな肌の下、茶色の瞳の奥の「脳」にあたる部分には記憶が埋め込まれている。質問者が投げかけた質問に含まれる特定の言葉によって瞬時に記憶が引き出され、記憶は用意された言葉をみちびく。
「ぼくのこと、好きかい」
朝の清潔な空気が満ちた室内。自分は窓辺の椅子に座っている。自分をまっすぐに見つめる男。彼女のそばにまわりこみ、左手を肩に置き、軽く引き寄せる。ぼくのこと、好きかい。ぼくのこと、好きかい。あたたかな左手に力がこめられる。自分はすでに欲情していると思う。軽い羞恥の感情ががわき上がり、それを覆い隠すように言う。
「好きよ」
「ぼくのこと、好きかい」
同じ言葉で問いかけられるたび、レイナの「脳」には同じ記憶が呼び覚まされる。劣化という言葉と無縁の、永遠にプレイバックされるシーン。
「すばらしいできばえですね。表情がとてもリアルだ」
インタビュアーが、制作した大島喜彦S大学教授に向かって言う。それはレイナの完成記念デモンストレーションの席だ。小さなステージの上でレイナは青みがかったライトを浴びて座り、それを取り囲むように座っている観客はほとんどためいきまじりで賞賛の拍手を送り続けている。
「これまでのアンドロイドとは比べものになりませんね。まだ答えられる質問の数は限られているとのことですが、そんなことは問題にならないと思えてきます。正直・・・うっとりしてしまいました」
「おほめいただいて光栄です」
教授はほほえんだ。なおもデモンストレーションは続く。大島教授がレイナに問いかける。
「ただいま、さびしかったかい」
何時間も待っていた彼女の前にやっと現れた男。愛情のこもった瞳で彼女を見つめる。彼女は小首をかしげて言う。その後、男は彼女にキスをするだろうことがわかっている。
「さびしかったわ。とても」
レイナが甘えを含んだ声でそういうと、観客のうちのほとんどの男はレイナをぎゅっと抱きしめ、背中をさすってやりたいと思う。それほどレイナの表情も言葉もリアルだった。
「ぼくのこと、ほんとに、好きなんだろうね」
また言葉が投げかけられる。少し強い調子で。レイナの「脳」が反応する。目の前にいる男は嫉妬に狂った目をしている。彼女は一瞬狼狽する。男は何か気づいているのだろうかと思う。一秒の何分の一、そのまた何分の一かの間、彼女はしたたかな計算をめぐらせ、そして言う。
「私を疑わないで」
おやっ、と観客は思う。そしてすぐに、いや、これもリアルといえばリアルな反応だと納得する。単純な質問のための文例、といったパターンを超えているのだ。
「どこにも行かないでほしいんだ」
また言葉が投げかけられる。レイナは目の前に不意に深刻な顔をした男がいることに気づく。なんて醜い男。そう思っているのは記憶の主体である人物だ。
外では大学教授で通用しているが、目の前にいるのは嫉妬で狂い、無精髭を生やしてつやのない髪を整えようともしない風采のあがらない男。どうしてこんな男と結婚してしまったのだろう。レイナの口から言葉が発せられる。
「行かないわよ」
その声音には侮蔑と嘲笑が含まれている。
記憶は続く。それは夕暮れの地方の駅前広場だ。記憶の主体である彼女は小ぶりの旅行鞄を提げて広場を横切る。待ち合わせ場所である広場の向こうに見える高層ホテルに向かうために。広場は暗くて、まるでSF映画に出てくる人工の天蓋に覆われた未来都市のようだ。陰影の濃い雲がそびえるホテルの背景に渦巻く。
不意に彼女は後ろからだれかが尾行していると感じる。振り向くと、確かに、何者かがものかげに急いで隠れたようだ。自然と早足になる。ホテルに着く。何者かもホテルの中に入った。入った、と思う。でも振り向いても確認はできず、何人もの人がそれぞれの用向きでロビーのそこここを移動しているだけだ。
彼女はポケットからメモを取り出してめざす部屋が25階であることを確かめる。エレベーターに乗り、「25」のボタンを押しかけてやめ、「22」を押す。22階で降りて、廊下を慎重に歩く。
人影がないのを見届け、階段を使う。廊下はしんとして、厚い絨毯は侵入者の足音を完璧に消しそうだ。彼女の心臓は恐ろしい予感に波打ち、足がもつれそうだった。だからめざす号室の前にたどりつき、扉を開いたときはもう緊張を持続できなかったのかもしれない。
扉が開き、恋しい男の顔を目の前にした瞬間、別の男が背後から入り込むのを阻止できなかった。彼女の夫だ。悲鳴をあげることさえできなかった。夫と恋人、二人の男は部屋の中にからまり、もつれこんだ。
「やめて、やめて」二人とも何も言わなかった。荒い息の音と上になり下になり取っ組み合う体の発する鈍い音だけが聞こえた。そして、二人、もつれたまま移動していった。窓のそばへ。
そして、いつ、どちらが開けたのか覚えていない、広い、広い窓。窓の向こうに灰色の闇が広がっていた。闇以外、何もなかった。悲鳴が起きた。
レイナの表情は恐怖に凍り付き、目は見開かれた。
「どうしたんだい。まるで悲劇のヒロインのような顔をして」
そばにいる男--------大島教授が声をかけた。レイナのこわばった表情がほぐれ、深い悲しみに満ちたものへと変わっていく。客席からほうっという声がもれた。
「ああ。わかった」
教授がゆっくりと言う。
「君はきっと夢をみていたんだね。悪い夢を」
レイナは教授のほうを向いて
「ええ、私は」
力なく言った。
「悪い夢を。みていたわ」
アンドロイドのレイナは人工の音声で答え、人工の眼球からはらはらと涙を流した。
「だいじょうぶさ。ぼくの大切なレイナ。ぼくはいつでも君を、悪い夢から守ってあげるよ」
インタビュアーが感動した面持ちで言った。
「すばらしい。苦悩の表情がなんともいえません。この美貌といい、なんとドラマチックなのでしょう」
「ありがとうございます」
レイナのそばにたたずむ大橋教授が控えめに答えた。
「この美しいレイナさんは、教授の奥様そっくりにつくられているとうかがっていますが」
「その通りです」
「奥様は、昨年突然のご病気で亡くなられたそうですね」
「はい。最愛の妻でしたが、どうすることもできませんでした。現代の医学ではどうすることもできないということで」
「残念なことで・・・それはそうと、このアンドロイドには実際の人間の記憶が用いられているらしいといううわさがあるんですが、それは本当なんでしょうか?」
教授は笑った。
「そんなことができるなら苦労はしませんよ」
デモンストレーションが終わり、観客もインタビュアーも去り、教授はレイナを「オフ」にする。レイナはただのシリコンラバーの人形になる。
でも、その中には妻の記憶が永遠に埋め込まれている。言葉で言えないほど愛しい、同時に決して許すことのできない妻。今夜も、また明日も、教授はレイナの美しい顔が恐怖にゆがむ様をじっくりと見るつもりだ。
【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
< http://midtan.net/
>
< http://yamashitakuniko.posterous.com/
>
ここ数年、夏になると2〜3キロ太り、秋になると戻るということを繰り返している。確かに夏はややこしいもの(って何だ)は食べたくないが、ひんやりと冷たくて甘いお菓子や飲み物にはつい手が出る。一方、暑いし熱中症になるかもしれないとテレビでも言ってるし、と外出はせずに室内でごろごろ過ごす。考えたら太って当然だ。
涼しくなって毎日飲んでいたグリコカフェオレも飲まなくなり、夜中に食べていたフルーツゼリーもやめ、天気のいい日は「おー、秋晴れじゃ」とそれなりに出歩いたりしてると体重が元に戻る。こんな人、けっこういるのでは?