ショート・ストーリーのKUNI[141]電子書籍
── ヤマシタクニコ ──

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談話室でジローさんと呼ばれる男が言った。
「最近、電子書籍というものがあるらしいな」
「ああ」
何人かがうなずいた。

ガラス戸越しに中庭が見える。アガパンサスが美しい水色の花を咲かせている。
スモークツリーの文字通りけむりのような花は盛りを過ぎている。
ジローさんは言う。

「それってどういうものなんだ。ふつうの本じゃないんだよな」
「スイッチがついてるんじゃないかな。で、コードがついてて、コンセントに差し込んだら」とぼけた声でゲンさんが言う。

「差し込んだら?」
「電気がついて本が明るくなって。だから夜でも読めるんじゃないかと」
「そりゃ電気書籍だ」
「どこがちがうんだ?」

また別の男が言う。タカちゃんと呼ばれている。
「コードがついてるなんて時代遅れだろ。きっと小型の電池を使うんだ」
「そりゃ電池書籍だ」
「どこがちがうんだよ」

えへん、と軽く咳払いをしたのはコウダさんと呼ばれている男だ。物知りで定評がある。




「そうじゃなくてな。パソコンで読む本なんだ。たとえばな。『我が輩は猫である』というタイトルをクリックすると、『我が輩は猫である』の中身がパソコンの画面に表示されるんだ」

「パソコンで読むのか!」タカちゃんが言う。
「それは困る。わしはパソコンがきらいじゃ。ワードとかエクセルとか、聞いただけでさぶいぼが出るわい」

「パソコンで読むって・・・わかった。エッチな本なんだ。おれはそんなもの読まないぞ! かあちゃんにばれたら怒られる」ゲンさんも言う。
「わしも読まん!」タカちゃんが宣言する。

コウダさんは笑った。
「電子書籍にワードもエクセルも関係ない。だれでも読めるんだ。それに、最近はタブレットといって薄くて小さなコンピュータもできてる。その小さなパソコンに本を何百冊も入れることができるんだ。これからの本はそうなるんだ」

「ふうん。じゃあ本一冊ごとにパソコン買い替えなくてもいいんだ」
「もちろんだ」
「えっ。でも、そしたら『我が輩は猫である』を読んでてもエッチな本を読んでても見かけは同じパソコンなのか」
「まあな」
「それはあまりおもしろくないなあ」

「機械の中に本が、ぎゅーっと閉じこめられてるってわけか?」
「閉じこめられてるっていうか・・・」
「おかしいよ、そんなの」

「だいたい、コウダさんは、その、電子書籍を買ったことがあるのかい?」
「いや・・・ないけど」
「じゃああてにならないな」

「そうだな。電子書籍はそんな変なものじゃないと思う。たいそうな名前がついてるからにはふつうの本よりずっといいものであるはずだ」
「コウダさん、何か間違ってるんだよ」
「間違ってないさ。そういうもんなんだよ」

すると端っこのほうでぼんやりと、季節外れのスノーボールをひっくり返しては見つめていた男が声を発した。みんなからセンセイと呼ばれているが本当に先生だったのかどうかわからない。

「私は電子書籍はそんなものと思わないな」
コウダさんがただちに
「いや、思わないと言ってもそうなんだし・・・」
「コウダさんの話はもういいよ。センセイ、電子書籍・・・これからの本ってやつはどんなものなんですかね」

「そうだ。センセイの話が聞きたい」
「なんだよ、みんな。おれはまともな話をしてるのに」
コウダさんはむくれたふりをする。

「私の思い描く電子書籍はこんなふうだ。いや、名前は電子書籍でも電気書籍でもなんでもいい。それに、私が思っているだけで実際にある電子書籍とは少しちがっているかもしれない。というよりきっとちがうだろう。つまり・・・これは未来の本だ」

センセイはそうして未来の本のことを語った。スノーボールの小さな球形の世界にゆらゆらと降り積もる雪を見つめながら。


未来、本はどこか遠いところにまとめられている。遠いところがどこかは私も知らない。この本が読みたいと思い、お金を払うと、その本の中身が遠いところから下りてくる。

本はもちろん、本らしいかたちをしている。あるときは革の手触りを模した重厚な装本。あるときは派手な原色が目を引くポップアートみたいなつくり。われわれは美しい表紙をまず眺め、これからこの本を読むのだというわくわくする気分が徐々に高まる、あの本の持つ楽しみを最大限味わうことができる。

表紙を開けると扉がある。目次がある。確かな手触りを持つ、本の1ページ1ページをめくりながら、われわれは少しずつその本の世界に入っていく。

読み疲れて今日はここまでと思ったら、本はかたづけることができる。つまり、消えるのだ。今、手元にあった本が影も残さず消える。もちろん、消えるといっても続きを読むときはまた元のかたちのまま、われわれの手元にやってくる。たぶん、前の日に読んだところにはしおりをはさんだ状態で。

各人の読書の記録は「記録帳」にまとめられている。読んだ本は消えるから場所も取らないし、もう一度読みたい本は記録帳を開いて、その本のタイトルを指定するだけでよいだろう。


「それはいいや!」
「狭いアパートでもいくらでも本が買えるわけだ!」
「勝手に棚に整理してくれるようなもんだしな」
「用がなくなったら消えるのはいい」
「おれたちといっしょだな」
さざ波のような笑いが広がる。

「消える、というのは・・・つまり本当はかたちがないけど、かたちがあるように思える本、ということかな?」
「そうかもしれません。幻のようなものかも。そこはみなさん、自由に想像していただいたらいい」
「それもおれたちといっしょだ」
「そうかなあ」


そのような本のかたちは、学校の教科書においても同じだ。学校に入った子どもはみんな、教科書を無償で与えられ、授業にあわせて必要な教科書を使える。学校でも、家庭での予習・復習時にでも。持ち運びする必要はないから重くてぶかっこうなランドセルは必要ない。もちろん、教科書の改訂に連動した最新版の教科書だ。


「それはありがたい。実は・・・実は・・・」
ヨシダさんという体格のいい男が言いかけた。すでに顔がゆがみかけている。
「どうしたんだ、ヨシダさん」
「何か思い出でも?」

「おれは小学校のときにいじめられてて。あるときいじめっ子に国語の教科書を取り上げられ、必死で追いかけたんだけど、やつは橋の上から川に投げ込んだ。汚いどぶ川みたいな川で、けっこう深い川だったのでどうしようもなかった。先生に言っても信じてもらえず、反対に教科書をなくしたことでものすごく怒られた。その後しばらく学校に行けなかった」

「そうなのか」
「つらかったろうな」
「あのころ、今センセイが話してくれたような教科書だったらよかったと思ったんだ」
「泣くなよ」
「もう学校に行かなくていいんだし」
ヨシダさんはうなずく。

ゲンさんが空気を変えるかのように聞く。
「じゃあ、学校に教科書を持っていくのを忘れてもだいじょうぶなんだ。それに・・・落書きはできるんだろうか? その教科書に」
「絶対できるさ」
「落書きのできない教科書は教科書じゃない」
センセイもうなずいた。

「図書館の本もそんな電子書籍になるのかな、センセイ」
「ええ。私の思うところの電子書籍ですがね」
「うん。もし、そうなったら・・・どうなるのかな」

「返却期限が来ると読み終えてなくても消えるんだ。そうだよね」
タカちゃんが言った。
「それはたいへんだ。おれなんかいつも一週間くらい延滞してた」
「なんだと。そういうやつがいるからおれみたいなまじめな人間が困るんじゃないか」
センセイは微笑みながら、また語った。


図書館ではもちろん、返却期限が過ぎると手元の本はすうっと消えてしまうだろう。読み残していたら、新たに借りるしかない。

改めていうまでもなく図書館の本は自分で所有する本のようなわけにいかない。だが、図書館には図書館のよさがある。それは利用者同士の交流だ。

コンピュータで管理されている今の図書館にはないが、むかしの図書館の本には巻末にポケットがあって、貸出票が入っていた。といっても返却期限が回転印で押されているだけだが、学校の校内図書館では借りた人の名前が記入されていた。

中学に入ったばかりのころ、少々背伸びして異色作家短編集などを借りたところ、自分より先に借りていた人の名前の中にクラスメイトの名を見つけた。

おとなしそうでいつも照れたような笑みを浮かべている女の子。パステルカラーに彩られた恋物語でも読んでいそうだと思ったのは見事な偏見であることを思い知らされた。

あの子が自分と同じ本を借りた。私はにわかにどきどきして、それ以後、授業中でも登下校のときにも、その子が気になってしかたなくなったものだ。

いまの図書館ではその本を借りた人の名前を公表したりすることは考えにくい。でも、この本を今までどんな人が読んだだろう。どんな感想を持っただろう。私が疑問に思ったことは私だけが思ったことだろうか。読んだあとにたとえようもないさびしさに襲われたのは私だけだろうか。

そんなはずはない、と私は考える。私のようなだれかはきっと、いる。私は想像する。それは希望そのものだ。

私が思い描く未来の本にはそんな情報が蓄積されていて、ひとびとはその蓄積にふれようと思えばふれることができる。ああ、あんな人がいる。こんな人もいるんだ。その人たちの実名や居所まで知る必要はない。それはたいして重要ではないから。

でも、一冊の本のまわりに豊かな世界が広がり、自分が出会うべき人がまだまだいるのだと思えるだけで力がわいてくるようではないか。私のいう交流とはそういうものだ。


「ふうん。センセイの言うこと、わかるような気がするよ。未来の本は出会い系なんだ」ジローさんが言う。
「センセイはそんなことは言ってないと思うぞ」

「おれは未来の本にかけてみるよ。決めた。今度こそ自分とぴったりの女性に出会えるかもしれないし」ゲンさんが言う。
「そしたらどうする」
「もちろん結婚するさ」

センセイは笑いながらうなずいた。スノーボールの中はすっかり静まって、もみの木と雪だるまが見える。

「みなさん、楽しそうね。そろそろお夕飯の時間ですよ」
看護師がやってきて言う。言われて壁の時計を見上げる者、ふとため息をつく者。それから、車いすの者は自力で移動したり、職員に付き添われたりしてひとり、またひとりと移動していく。

「中島さん、今日は体調良さそうでね」
センセイはそう呼ばれてはにかんだように笑う。

「さっき息子さんが来られて、これを置いて行かれましたよ」
看護師が本を手渡す。すっかり古びた赤い布張りの表紙。異色作家短編集、と小さく記されている。今は亡き妻との出会いとなった本だ。

「明日もいいお天気のようですね」
スモークツリーの枝越しの空はまだ美しい青を残しているが、そのようにして、またホスピスの一日が暮れてゆく。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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今年もとうとう夏になってしまいました。子どものころから夏がつらくて、これさえなければ人生は楽勝だと思ったのですが、年々暑くなる一方です。なんとかしてください。