ショート・ストーリーのKUNI[147]どこかにいる
── ヤマシタクニコ ──

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彼女の夫が突然この世のひとでなくなってから、早いもので4か月になろうとしているが、時が経てば経つほど、そんなことはなかったように思えてしかたない。ほんとうに夫はもういないのだろうか?

葬儀は簡素ながらもよくあるかたちで行われたが、なにかの手違いであったような気がする。ふとした手違いが手違いと気づかれないまま、いつのまにか周知の事実となることはありそうだ。

からだは白い骨となったが、どこかですり替わったかも知れない。調べたわけではないが、一致するかどうか検証したわけでもない。夫は眠っているようだった。ほんとうに眠っていただけではないだろうか?

そもそも、いることを証明することは簡単だが、いないことを証明するのは困難である。あそこにもいない、ここにもいない。だからどこにもいないとはいえない。どこかにいたという情報があれば、どこにもいないとは、たちまち言えなくなる。

とはいっても、彼女を動かしているのはそのような理屈ではなく、単に「どこかにいる気がする」というあいまいな感覚だ。

彼女は自分が参加しているSNSで上記のような自分の考えと「私の夫を見た方はご連絡ください」と投稿した。

すぐに反応があった。




「おまえの亭主を見たよ。居場所を知りたかったらひと晩つきあえよ」

「私たちはあなたのご主人を見たとも言えるし見ていないとも言えます。よろしければそのことについて共に語り合いませんか。毎週集会を開いております」

「あんた、頭おかしいの? かわいそうなひとね」

「きちがい」

彼女はパソコンを閉じた。

忘れかけたころ、直にメールが届いた。

「あなたの夫と親しくしているものです。彼は元気よ」

短い文章を何度も読み返して、彼女は返信した。やっぱりそうだったんだ。

------失礼ですが、あなたは彼とどういう関係?

数時間後に返信がきた。

「どういう関係か言わないとだめかしら? 私は彼ととても近いところにいます。物理的にも精神的にも。たぶん」

------彼は毎日何をしているの?

「散歩したり図書館に行ったり。あと、仕事を少し」

------仕事をしているのね。

「もちろんよ」

彼女の知る夫は、仕事といえるようなものは長い間していなかった。社会との関わりを拒絶していた。

------どんな仕事をしているの?

「それは言えないわ。私もくわしくは知らないけど、夜遅くまでパソコンに向かっている。極秘のものらしくて私にも教えてくれないの。ああ、あなたは先のメールで『毎日何をしているの?』と書いたわね。残念ながら毎日ではないの。彼は週のうち何日かはいなくなるから。私が知っている彼が彼のすべてじゃないわけ」

------そうなの?

「彼には秘密があるの。そんなこと言うとまるでドラマの主人公みたいでおかしいと思うかもしれないけど、本当なんだよ、と言ってたわ」

相手の女は頻繁にSNSを使う人ではないらしく、やりとりは時に一日くらい間があいた。対話はごくゆっくりと進む。

------彼は今日はどんな服を着てた? 彼は今朝、何を食べた? 彼は私のことを何か言ってた?

まとめて聞いて、自分でおかしくなる。相手も笑っているだろう。

「今日は淡いグレーのタートルネックのセーター。ダウンの黒のパーカ」

------それは私が買ってきたパーカかもしれない。お気に入りなの。

「そうかもね。朝はコーンフレークと牛乳。あなたのことは何も言ってない。悪いけど」

------悪くないわ。気にしないで。朝はちゃんと食べてるのね。私といたときは食べなかった。朝は機嫌が悪いし。

「あら、彼は朝からとても快活よ」

------そうなの?

夫の姿は彼女の知るそれと微妙にずれている。それが興味深いし、ちょっと楽しい。自分はついに夫のすべてを知り得なかった。もっと知りたかった。でも、どんな夫婦も相手をすべて知ってるわけではない。

「日曜日の朝はいつも私に紅茶をいれてくれるわ」

------コーヒーじゃなくて? 私にはいつもコーヒーをいれてくれたわ。

「私の前でコーヒーを飲むことはないわ」

------こどものときの話とかしたりする?

「むかしの話はあまりしないわね。ああ、そうだ。こどものころ、ぶらんこから落ちて、ひざをけがしたことがあると言ってたわ。ぶらんこからできるだけ遠くに飛び降りるやつ。それをしていて失敗したんだって」

------それ、聞いたことある。やっぱり夫なんだ。

「疑ってたの?」

彼女はパソコンの前でほほえむ。夫はやはり今もいるのだ。なぜ帰ってこないのかわからないけど。

「でも、あまりいろいろ話さないわ。自分は記憶力が悪くて、覚えていることがほんの少ししかない、もしくはエピソードをを引き出す能力に欠けているらしいと言ってる」

そうそう、そんなことも言ってた。彼女は何度もうなずく。

また別の女からメールが来た。

「あなたの夫は私のアパートの向かいの部屋にすんでいるひとだと思います。あなたが書いていた風貌とそっくり。住み始めたのが、たぶん4か月前くらいなの」

------夫はどんな生活をしてるみたい?

「ほとんど部屋に閉じこもってるみたいです。でも音が聞こえるのです」

------音が?

「ピアノを弾いてるんです。あなたと暮らしているときは弾いてなかったのですか?」

------ええ。音楽は好きでよく聴いていたけど。家にはキーボードもなかったし。

「そうなんですか。どうしてでしょうね。時々窓を開け放してることがあって部屋の中がよく見えるんですが、ピアノ以外に家具らしきものもないようです。よく弾いてる曲は、確か...ドビッシーの『月の光』」

------私の好きな曲だわ。

「ではきっと、あなたの夫にまちがいありません」


また別の女からメールが来る。第3の女というわけだ。

「近くの河原を毎日散歩しているひとが、あなたの探しているひとだと思います。あなたの書いておられる特徴と一致するので話しかけてみました。詩を書いているそうです」

------詩を? 

「いつか書いてみようと思っていたそうです」

本当に夫なのだろうか。

第1の女からメールが来る。

「あなたは彼と会いたいと思っている?」

 彼女は考えた末に返信する。

------会わなくていいと思う。

「そうよね。会えば結局、いっしょだし」

------ええ。そう思うわ。


第2の女からメールが来る。

「今日はピアノの音が聞こえませんでした。窓に映る姿は何やら難しいことを考え込んでいるようでした」


そして第一の女からメールが来る。

「私はいま悲しみの中にいます。彼が突然いなくなってしまいました。私が帰宅すると彼の姿はなく、室内は乱れ、彼のパソコンの前には血痕が飛び散っていました。私は思いつく限りの場所を探したけど見つからなかった。警察や病院にも問い合わせたけど」

------何が起こったの?

「わかりません。彼の姿がどこにもないのでわからない。本当にドラマの主人公だったのかも」

女は泣いている。メールでもそのことは伝わった。

------きっと戻ってくるわ。いいえ、きっとどこかにいるわ。

サスペンスドラマの主人公の夫は傷ついた身をどこに隠しているのだろう。廃墟となったビルの地下室、それとも異国のバザールの混沌の中。


第3の女から。

「私は彼と親しくなりつつあります。彼は魅力的なひとです。ユーモアもあります。ただし、話題が豊かとはいえません」

やっぱりね。彼女は笑う。

------最近聞いた話はどんな?

「紅葉を見ているうちに思い出した、とあるお話をしてくれました。自分は記憶力が悪くて同じ話ばかりしていると笑われるんだが、あなたにはまだ話していないと思うので、と」

------ええ。

「女の子にプレゼントをしたことがあったそうです。アメリカフウの実。ご存じですか。ハリネズミみたいにとげがいっぱいついた球形の。冬になると道ばたに落ちていたりする...」

------知っているわ。

「それを、仲の良かった女の子にプレゼントしたことがある、と。女の子はとても喜んでくれたそうです。女の子にプレゼントなんてめったにしないので記憶に残っているそうです」

------そうなんだ。

「ただし、それがだれだったかよく覚えていないそうです。小学校の同級生だったと思うが、違うかもしれない。ずいぶん昔のようだが、最近のことかもしれない。とにかく仲の良かった女の子だったんだよ、と」

------頼りないこと。

「今度、詩を読ませてくれることになっています」

------楽しみね。

彼女はパソコンの前を離れ、本棚の前に行った。中ほどの棚にアメリカフウの乾ききった実が置かれたままになっている。散歩から戻った夫がはにかみながらそれをくれた日が、昨日のようだ。


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親知らずを抜いた。化膿止めの薬と頓服を渡されたが、頓服はその晩に一度服用しただけだった。それほど痛まないし...と。ところが、風邪をひいたのか、のどがはれているみたい。唾液をのみこむだけでも痛い。

今日で5日になるが、ずっとそういう状態なので「?」と思ってネットで調べてみたら、親知らずを抜いたあとにそのようになることがよくあるらしい。それでまだ余っていた頓服をのんだらのどの痛みがたちまち消えた。なーんだ、そういうことなのか。