ショート・ストーリーのKUNI[158]大町典丈氏がメモを拾った話
── ヤマシタクニコ ──

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さわやかな秋の朝、駅に向かう一本道を歩いていた大町典丈氏は目の前の路上に一枚の紙片を見いだした。四つ折りにされたその紙片を拾い上げ、開いてみると、そこには次のような文字列が見て取れた。

リンス イワノリ

「たいへんなものを拾ってしまった」

一刻も早く、これを落とし主に返さなければいけない。これがないためにどんな悲劇が起こるか。経験者は知っている。大町氏の脳裏にもたちまち悪夢のようなシーンが浮かんだ。


「あれほど言ったのに」
「この役立たずっ」
「買い物くらいまともにできないの!」

想像しただけで恐ろしい。大町氏はあたりをぐるぐる見渡してむだな時間を費やした後、自分の前を歩いているのはたったひとりの男しかいないと気づいた。紙切れはあの男が落としたものに違いない。大町氏は早足で追いかけたが、相手の足も速く、あと少しというところで男は駅に着き、ICカードですばやく改札を抜け、電車に乗ってしまう。

なんということだ。ICカードも定職も持たないデザイナーで、もたもたと財布から小銭を取り出して切符を購入するしかなかった自分の無様さを大町氏は嘆いた。嘆いていると駅員がやってきた。

「何かお困りですか」

「実はこれこれでこのメモがあれなのです」

駅員はメモを一瞥すると青ざめた。

「これはたいへんだ」

「あなたもそう思われますか」

「思われるどころではない。私はかつて妻から『帰りにティッシュを買って来てね。本日限り、198円の特売のよ』と頼まれ、忘れぬようにメモしたにもかかわらず、そのメモをなくした経験があります。私はティッシュのことをすっかり忘れて手ぶらで帰宅、妻は激怒してあたりのものを投げ散らかしました。私はおでこに全治2週間の傷を負ったうえ、結局別居にいたりました」

「お気の毒です」

「こうしてはいられません。いっしょにそのひとを探しにいきましょう」

「いいんですか、お仕事は」

「かまうもんですか」

こうして大町氏と駅員はいっしょにメモの落とし主を探すことになった。電車に乗り込んだとき、大町氏はふと思い出した。今日は久しぶりで仕事をくれるというお得意さんに会う予定だったのだ。あわてて電話を入れる。

「もしもし。大町です。あのう、まことに申し訳ありませんが、実はこれこれのメモを拾ったものでいまこれこれで大変恐縮でご迷惑をおかけしてあれなんですが」

「なんだって!」お得意さんは大声を出した。

「すみません」

「すみませんも何もない! リンスにイワノリだと! 私も似たような経験がある。私の場合はスルメにトンカツソースだったが、細かいことはどうでもいい。メモをなくしたときにどんな事態が待ち受けているかは熟知している。ああ、いてもたってもいられない。いまどこにいるんだ。私もいっしょに探す!」

こうして大町氏と駅員とお得意さんはそろってメモの落とし主を捜すことになったが、はっと気づいた駅員が言った。

「ところで、そもそもその人はどんな人なんですか?」

「まったくだ。よくわかりもしない人間をどうやって探すんだ!」お得意さんが言った。

「ああ、言うのを忘れていました。その人はニワトリのとさかそっくりの髪型をしているんです」

「なんだ」

「早くそれを言え!」

3人はせかせかと歩くあまり、つい信号無視をしてしまった。近くの交番から警官が飛んで来た。

「いい年をした大人がなにをしているんだ!」

「申し訳ありません。実はわれわれはこれこれで、リンスとイワノリがメモで」

警官の表情がにわかに曇り、ゆがみ、その両眼から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「そんな事情があるならなんで早く言わないのだ! 私を見損なうな。私こそはかつて妻から頼まれたメモをなくし、必死でなんとか思い出してボストンバッグを買って帰ったが、妻のほしかったのはポストイットだったという過去をもつ男だ!」

こうして大町氏と駅員とお得意さんとまだ涙の止まらない警官は手を取り合い、協力してメモの落とし主を捜すことになった。さらに道中、ピザの配達人とティッシュ配りとハローワーク帰りの男、宗教団体の勧誘員、ただの学生、営業中のふりをしている営業マンその他大勢を巻き込み、一行はいつしか大集団と化していた。

これだけ多くの人間と同じ思いを共有できることに大町氏は感動を覚えていたが、それらしい男はなかなか見つからなかった。時間がむなしく過ぎていく。

「ああ、もうだめかもしれない」

「このままではまた悲劇がっ」

「買い物ができなかった場合にそなえ、われわれであらかじめ買っておきませんか」

「それはいい考えだ」

一行はリンスとイワノリを買い込んだ。

「どうしてもリンスでないといけないのか。トリートメントとかコンディショニングではだめなのかな」

「うーむ。わからんが、リンスにしたほうが無難だろ!」

「リンスとコンディショニングの違いもわからないの! と言われたら厄介ですから」

「まったくです!」

「余計なことは考えないことです!」

そのときティッシュ配りが言った。

「すいません、前方にニワトリのとさかそっくりの髪型をしたひとが3人いますが」

「ええっ!」

大町氏は答えた。

「言うのを忘れていました。その人はニワトリのとさかのような髪型をしているうえに、紫色のズボンをはいているんです」

「そうなんだ」

「早く言え!」

3人のうちひとりは黒いズボン、ひとりは茶色のチェックのズボン、ひとりはジーンズだった。

「該当者はいない」

「また探しなおしだ!」

一行はぞろぞろと移動を続けた。

やっとそれらしい人物が見つかったのはすっかり夜だった。集団の前方をニワトリのとさかそっくりの髪型に、紫色のズボンを身につけた男が歩いている。一同は興奮を隠しながら後をつけていった。やがてその男が自分の家に着き、ドアを開けて入っていった。大町氏はおどろいた。そこは大町氏の隣家、つまり男は大町氏の隣人であったから。

「そんなことがあるだろうか。私は隣人に何度も会ったことがあるが、いつもゆるゆるのパジャマで頭髪はほとんどなかったはずだ」

だが、一同の代表として大町氏のお得意さんがチャイムを鳴らし、ドアが開いて出て来たときは男はすでにゆるゆるのパジャマに着替え、おぼろこんぶのような髪がその頭部で微風にそよいでいた。

「夜分恐れ入ります。あなたを探していました! このメモはあなたのメモですね!」

お得意さんがメモを差し出すと隣人ははっとした。あわててお得意さんの指先からメモを奪い取り、どぎまぎした様子でそれをしばし見つめ、くしゃくしゃと丸めた。

「心配いりませんよ!」お得意さんは笑みを浮かべて言った。

「われわれがすっかり用意しました!」

「ほうら、リンス、それに極上のイワノリです!」

口々にいたわりとやさしさに満ちた言葉をかける男達を前に、男は極度に当惑した様子だった。玄関先に集まった集団を見回し、さっき丸めたメモをまた広げて見つめ、また集団に視線を戻し、逡巡の後に声を発した。静かでよく通る声だった。

「私はリンスやイワノリを欲していません」

えっ。

一瞬の静寂。そして

「でも、そのメモに…」

「これは『ハンス イワノバ』と書いてあるのです。端のほうが少し切れてま
すが」

「ハンス? イワノバ?」

ざわめきがひろがった。

「私は小説を書いています。次作の登場人物の名前を三日前から考えていました。ゆうべやっと思いつき、忘れぬように書き留めたのです」

なんともいえない沈黙がひろがった。あたかもイカの燻製とまちがえて輪ゴムをかんだときのような、少し違うような。

「そういうわけですからお引き取りください」

ドアがばたんと閉められた。

大町氏と駅員とお得意さんと警官、そしてピザの配達人とティッシュ配りとハローワーク帰りの男、宗教団体の勧誘員、ただの学生、営業中のふりをしている営業マンその他大勢はしばらくぼうぜんとその場にたたずんでいたが、やがて仕方なくまた来た道をぞろぞろと戻って行った。大町氏もすごすごと隣の自分の家に戻った。

さわやかな秋の日はそのように終わり、大町典丈氏は遅くまで明かりがともっている隣家の窓を見ながら、小説家などという人種とは今後関わるまいと心に決めたそうだ。

【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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先日、右上の親知らずが虫歯になっていたので、抜いた。その真下の親知らずは去年、ひと足先に抜いていた。だからかみあわせる相手もいなくて「これはどうせ何も仕事していない歯だし」という医者の説明を聞いて、そうだよなと思った。

そういえば左の上の親知らずは若い頃に早々と虫歯になったので抜いて、もう30年近くなる。ところがその真下の親知らずは虫歯にはなっているものの健在。親知らずの中で最後まで残っている。相手もいないのに、仕事もしてないのにひとり気ままに生きているこいつって、とふと思ったのだった。