みなさんの身近にもきっとボールペンの一本や二本はころがっていることでしょう。そう、透明のプラスチックでできていて、インクが減っていく様子がよく見える、あのてのボールペンです。
私の友達でこんなことを言った人がいます。
私の友達でこんなことを言った人がいます。
「ねえ、ぼくはいつも思うのだが、ボールペンを使っていくとどんどんインクが減っていき、かわりにからっぽの部分が伸びていくのがわかるだろう」
「うん。それはもちろんだとも」
「このからっぽの部分には、実はいろんなものがつまっていると思わないか?」
「というと?」
「書いた人の記憶だとか、その他いろいろさ…」
友達は無口な性質で、あまり多くを語りませんでしたが、私は妙にその考えにひかれました。そうしてあれこれ考えているうちにできたのが以下のお話です。
◆
小さな村役場に勤めている男がいました。仮に、エム氏と呼んでおきましょう。エム氏は30歳をいくつか過ぎた、これ以上はないというくらい地味な男で、これまた地味な村役場にはまさにぴったりの人物でした。
あまりにぴったりすぎて、時にはみんな、エム氏がいることを忘れてしまうほどでしたが、本人はそんなことは気にしませんでした。いえ、ひょっとしたら、エム氏にとってはそのほうがいごこちがよかったのかもしれません。
エム氏はいちおう戸籍係ということになっていましたが、そこは小さな役場のことですから、戸籍以外のいろいろな仕事もこなさなければなりませんでした。
役場にはさまざまな人がやってきました。遠い街から引っ越してきた人が、不安と期待の入り交じったおももちでやってきました。これからよその街へ引っ越していく人は、なごり惜しそうに役場の中を見まわしながら手続きをすませていきました。
新しい命が生まれたことを届けてくる人がいましたし、家族のだれかがなくなったことを、うちひしがれた様子で届けにくる人がいました。
「はい、この書類に書いて…そこにボールペンがありますからね。はい…それでけっこうです。次のかた?」
エム氏はだれに対しても同じように受け応えしました。時には困りごとをかかえた人が、何をどうしていいのかわからず相談することもありましたし、隣にある郵便局とまちがえて小包を持ってくる人もいました。
エム氏はどの人にも、特にやさしくもなく、かといってぶっきらぼうでもない調子で応じました。けっしてよけいなことは考えず、いつもそこらの机や椅子とおなじくらい無表情に見えました。
それはもちろん仕事なのですから、当然といえば当然なのですが、仕事以外でもやはりエム氏はそんな風でした。まわりの人間とたちいった話をすることもないかわり、もめごとを起こすこともありませんでした。
「あの人は人生というものにすっかり退屈しているようにみえるわね」
「いやいや。およそ退屈というものを知らない人間なのさ!」
そんな声が聞こえているのかいないのか、ともかくエム氏はこれまでずっとそのような生活を送ってきたのでした。
役場の仕事が5時きっかりに終わると、エム氏は歩いて10分あまりの下宿に帰ります。夕食を終えた後、エム氏は二階の自分の部屋にひきこもります。そうして、夜更けまでエム氏の部屋からはタイプライターのかたかたという音が聞こえてきます。
エム氏は記録していたのです。いえ、記録せずにはいられなかったというほう
が正確でしょう。
エム氏は、使い古しのボールペンの中身を読み取ることができたのです。
どうして、また、いつから自分にそんな能力がそなわるようになったのかはエム氏自身にもわかりません。ずいぶん前のあるとき、同僚のひとりが妙にうかない顔をしているときがありました。
「どうしたんだ」
「元気がないな」
みんなに聞かれても、その同僚はさびしく笑うばかりでした。エム氏も特にその原因を聞き出そうとはしませんでした。
ところが、なにげなくその同僚のボールペンを借りたとき、エム氏は知ってしまったのです。その人が昔愛した人が重い病気にかかっていること、そのために仕事も手につかないでいるのだということを。
エム氏は驚きました。なぜ自分にそんなことがわかったのか、さっぱり心当たりがなかったのですから。
「ぼくはどうかしているぞ」
首をかしげながら、もう一度そのボールペンで字を書こうとして、今度はエム氏も気がつきました。透明のプラスチックの軸を通して、芯の中につまっている同僚の悲しみが、それこそ手にとるように読みとれたからです。
それが、最初でした。──エム氏が自分の能力を意識しだしたのは。
ボールペンなどというものは、みんなたいして気にもとめず、そこいらにほうりだしているものです。エム氏は自分の経験したことが単なる偶然や錯覚というものかどうか試すため、職場の仲間たちのボールペンを機会があれば手にとって見ることにしました。
間違いありませんでした。それどころか、いっそうはっきりと、エム氏はボールペンの芯の──からっぽの部分を読み取れるようになっていったのです。
エム氏はいろんなことを知りました。
いつも元気いっぱいで、顔を見るたびに「やあ、エム君! どうだい、調子は!」と言ってぽーんと肩をたたく課長は、実は深い悩みをかかえており、ボールペンを見るのがつらいほどでした。
年がら年中深刻な顔をして、ときどきため息などついてみる出納係の心の中は意外におだやかでした。周期的に原因不明のヒステリーを起こす女性の年金係は、20年も前から右足にひどい水虫をわずらっていました…。
いったい、人の心の中が読み取れるようになった人間というものは、どういう生き方をするものでしょうか。エム氏の場合に限っていうと、彼は努めて何も考えないようにしました。
だれでも友だちをたくさん持ちたいと願うでしょうし、うわべだけでない本心からのつきあいをしてみたいと思うでしょう。でも、人間の本心というやつは、たいへんに人を疲れさせるものなのです。
役場の窓口にすわっていると、一日に何人もの人が訪れ、そなえつけのボールペンを使っていきます。夕方には、一本のボールペンの中にさまざまな人の心の断片がおさまることになります。
もうエム氏は、わざわざ手にとってみたり目をこらしたりしなくともそれらを読み取れるようになっていました。でも、これはなかなかやっかいなことにちがいありません。
もちろん、中にはつい興味をそそられる内容もありましたし、思わず当人に声をかけ、力になってみたい気持ちが起こることもありました。でも、実際はそのたびにかかわっているわけにはいきません。
「おそらくぼくは、いつも心をまったいらにしておかねばならないのだ」
エム氏はそう考えました。
「もともとぼくはあまり大声で笑うこともないかわりに、かんしゃくを起こしたり人をののしることもない人間だった。だから、こういう不思議な役回りになったのかもしれないぞ」
エム氏はそんなふうに自分で自分を納得させると、その日からタイプライターを動かし始めました。ボールペンの中につまっていたもの、自分が読み取ったものをひとつひとつひろいあげては記録していったのです。
時がたち、エム氏はいつしか思うようになっていました。自分はもともとこんな作業をするように生まれついていたのだ。これが一番自分らしい生き方なのだと。
原稿はどんどんたまって、今では部屋の中のひきだしというひきだしからあふれんばかりになっていました…。
ある日のことです。エム氏がうつむいて仕事をしていると、すぐそばで声がしました。
「あのう」
エム氏は「おや、あたたかいミルクのような声だ」と思いながら顔を上げました。すると、まさにあたたかいミルクのような娘が目の前に立っていました。
「転入届を出すのはここでいいのですか」
娘はエム氏の目をまっすぐに見ながら言いました。
「え、ええ。この窓口でけっこうです。はい、この用紙に記入してください。そこにボールペンがありますから」
このとき、エム氏は生まれて初めて恋をしたのです。
娘が転入届を出して帰っていった後、エム氏はそっとボールペンを手にとってみました。なんと、エム氏は何も読み取ることができなかったのです。
村の景色がすっかり変わって見えました。十何年間というもの、この村から一歩も出ることなく毎日を過ごしてきたはずなのに、何もかもが初めて出会ったかのようでした。草の葉のかがやき、郵便ポストの赤色、鳥の声から自転車のベルの音までがエム氏をうちょうてんにさせました。
「ああ、ぼくは今まで何をしていたんだろう! 眠っていたのか、それとも時がとまっていたとしか思えないじゃないか」
エム氏と娘は小川のほとりを散歩したり、喫茶店の小さなテーブルをはさんでお茶を飲んだりしながら、いろいろな話をしました。
娘は、自分がもともとこの村で生まれたこと、11歳のときに両親と遠くの街に引っ越したこと、そして事故で両親がなくなったためにおばあさんの家で暮らすことになり、たったひとりでもどってきたことを話しました。
エム氏は…エム氏は何も話すことがありませんでした。ボールペンのからっぽの芯からなんでも読み取れるだとか、夜になるとかたかたとタイプを打っているだとか言ったら気味悪がるだろうと思ったのです。
そして、それ以外となると、確かに何も話すことはありませんでした。でも、ただ娘の笑顔を見たり、声を聞いているだけでエム氏は満足でした。
またたく間にひと月がたち、ふた月がたちました。エム氏は、娘に限らずだれの使ったボールペンでも、中身が見えにくくなっていることに気がつきました。
まるで映画でも見るようにあざやかだったものが少しずつ色あせ、古びた雑誌の切れ端のようになっていきました。そしてとうとう、いくらボールペンを透かしてみても何も見ることができなくなりました。
そこにはただのボールペンがあるだけでした。
エム氏はほんの少しさびしさを感じましたが、それも娘の深く澄んだ瞳やあどけないしぐさを思うと、たちまちどこかへ消えてしまうようでした。
もうそれより先に、エム氏のタイプライターが音をたてることはなくなっていました。なんだか急につまらなくなったのです。十何年もの間、こつこつとタイプを打ち続けて来た自分に、もううんざりでした。
エム氏はタイプライターにも引き出しにも覆いをかけました。そして、覆いの上にゆっくりとほこりが積もっていきました。
「転出届を出さないといけないわ。わたし、遠くの街に引っ越すの」
突然、娘がそんなことを言い出しました。エム氏はびっくりして、ただ娘の顔を見るばかりでした。
「おばあさんの具合が悪くなって、遠くの街の大きな病院に入院することになったの。わたしはおばあさんについていく。わたしとおばあさんは、この世でふたりっきりの身内なんですもの」
「もう、ずっと…もどってこないのかい」
エム氏は泣きたい気持ちをこらえて聞きました。娘はかすかにほほえんで答えました。
「わたしはあなたが好きだし、この村も好きよ。もどってくるわ。いつかはわからないけど」
エム氏はまったくおろおろして、何をどう言えばいいのかわかりませんでした。娘のいない毎日なんて、考えただけで頭がくらくらするようでした。
「そ、それで、いつ出発するんだい」
「明日の朝早く」
その日の夜、エム氏ははじめて娘を自分の下宿に招きました。
「こんばんは!」
娘が入ってきたとたん、部屋の中はどんな明るい電灯をともしたより明るくなったように感じられました。
「想像していたとおり、すてきなお部屋だこと。何より余分なものがないのがいいわ。でも、その覆いは何かしら?」
タイプライターやひきだしにかけられていた覆いを指して、娘が言いました。エム氏はゆっくりと覆いを取りのぞきながらこたえました。
「今夜、君を招待したのはこれを見てもらうためだったんだよ。ぼくは君に会うまで十何年間というもの、毎晩この部屋で、タイプを打ち続けてきたんだ」
覆いの下から旧式のタイプライターが出てきました。ひきだしの中には紙がいっぱいにつまっており、それがびっしりと文字で埋められているのが見てとれました。
そして、エム氏は打ち明けたのです。自分にはボールペンにつめこまれた人々の喜びや悲しみや悩みが見えたこと、それを記録していくのが自分の義務であるかのような気がしていたこと。
「け、けいべつしたかい。それとも気持ち悪いかい。いいんだよ、はっきり言ってくれて…別に人の心を盗み見て、それでおもしろがっていたわけじゃないけど、そう思われても無理はないと思う。だから君にも言えなかった。でも…これがほんとうのぼくなんだ。隠したままでいるのはいやだったんだ」
「わたしの心も読み取れるの?」
「読み取れたらどんなにいいだろう。でも、なんにも見えなかった。そして、今ではどのボールペンを見てもただのボールペンにしか見えないんだ」
娘は気味悪がる様子もなく、春のようなほほえみを浮かべたまま、言いました。
「あなたがそんなふうに記録するようになったのはいつごろからなの?」
「今から…16年くらい前からだろうか。それがどうかしたかい?」
「それはわたしが生まれたころだわ。では、この部屋にはわたしやわたしの両親がいるようなものね!」
娘は目をきらきらと輝かせながら、部屋を見わたしました。
「わたしが生まれたとき、今はもういない両親が役場に行って届けを出したわ。きっとボールペンを使って。わたしが学校に入学したときも、引っ越したときも、両親はボールペンにその時々の思いを残していったにちがいないわ。
いいえ両親だけでなく、おばあさんは年金の手続きに行ったでしょうし、税金のことで出向いて行ったかもしれないわ。わたしをかわいがってくれたとなりのおじさんは脚が不自由で、時々役場に相談に行ってたし、親友のひとりはもう結婚したし──そうだわ。この村に住む人たちのすべてが、この部屋にあるのだわ。なんてすばらしいことかしら!」
「ほんとにそう思うかい? ぼくはもう、こんな原稿は焼き捨てようかとさえ思った」
「そんなことをしてはいけないわ。そんなことをしたら──わたしの帰ってくる場所がなくなるような気がするわ」
「下手な文章の寄せ集めだよ」
「ねえ」
娘はエム氏の手をとって言いました。
「おばあさんにもしものことがあれば、わたしはこの世でひとりぼっちになるわ。正直いって先のことを考えるととても不安なの。でも、ここにわたしやわたしを愛してくれた人たちの思い出が集められているとしたら、それだけで勇気づけられるわ」
「聞いておくれ、ぼくは…」
「わたしはきっと帰ってくるわ、きっと」
◆
それ以来、いまも、エム氏は待ち続けています。
娘からは二度、手紙が来ました。とても元気なのでご心配なく、というような内容でしたが、その後ぷっつりと消息は絶えました。エム氏が出した手紙は返送されてきました。娘とおばあさんの身に何があったのか、気にはなっても確かめるすべはありません。
エム氏は長いこと力が抜けたようになり、食事をするのもおっくうな日が続きました。あの夜、エム氏は娘に「君が帰ってきたら結婚式をあげよう」と言うつもりだったのですが、言いそびれたことをいつまでも悔やんでいました。
さらに年月がたち、エム氏はふたたびタイプライターを使い始めました。ボールペンの中身が以前のように読み取れるようになったのです。
ですから、今夜も、もしあなたがエム氏の下宿の下を通り過ぎることがあれば、かたかたかたかたというタイプライターの音を耳にするにちがいありません。そして、時おりぱったり音が絶えたとしたら、それはエム氏が娘のことを思い出しているときなのです。
これで私のお話はおしまいです。
【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
< http://midtan.net/
>
< http://koo-yamashita.main.jp/wp/
>
今回は新作ではなく、ずいぶんむかしむかしの作品を掲載させてもらいました。ちょっと長いですね。すいません。当時、友人が出していた手作りの個人誌に載せてもらったものです。
ところでデジクリに初めて掲載していただいたのが2004年の11月24日でした。(GrowHairさんと同時デビュー)。今月でまる10年になりました。あまり進歩してないのがとほほですが、これからもよろしくです。
「うん。それはもちろんだとも」
「このからっぽの部分には、実はいろんなものがつまっていると思わないか?」
「というと?」
「書いた人の記憶だとか、その他いろいろさ…」
友達は無口な性質で、あまり多くを語りませんでしたが、私は妙にその考えにひかれました。そうしてあれこれ考えているうちにできたのが以下のお話です。
◆
小さな村役場に勤めている男がいました。仮に、エム氏と呼んでおきましょう。エム氏は30歳をいくつか過ぎた、これ以上はないというくらい地味な男で、これまた地味な村役場にはまさにぴったりの人物でした。
あまりにぴったりすぎて、時にはみんな、エム氏がいることを忘れてしまうほどでしたが、本人はそんなことは気にしませんでした。いえ、ひょっとしたら、エム氏にとってはそのほうがいごこちがよかったのかもしれません。
エム氏はいちおう戸籍係ということになっていましたが、そこは小さな役場のことですから、戸籍以外のいろいろな仕事もこなさなければなりませんでした。
役場にはさまざまな人がやってきました。遠い街から引っ越してきた人が、不安と期待の入り交じったおももちでやってきました。これからよその街へ引っ越していく人は、なごり惜しそうに役場の中を見まわしながら手続きをすませていきました。
新しい命が生まれたことを届けてくる人がいましたし、家族のだれかがなくなったことを、うちひしがれた様子で届けにくる人がいました。
「はい、この書類に書いて…そこにボールペンがありますからね。はい…それでけっこうです。次のかた?」
エム氏はだれに対しても同じように受け応えしました。時には困りごとをかかえた人が、何をどうしていいのかわからず相談することもありましたし、隣にある郵便局とまちがえて小包を持ってくる人もいました。
エム氏はどの人にも、特にやさしくもなく、かといってぶっきらぼうでもない調子で応じました。けっしてよけいなことは考えず、いつもそこらの机や椅子とおなじくらい無表情に見えました。
それはもちろん仕事なのですから、当然といえば当然なのですが、仕事以外でもやはりエム氏はそんな風でした。まわりの人間とたちいった話をすることもないかわり、もめごとを起こすこともありませんでした。
「あの人は人生というものにすっかり退屈しているようにみえるわね」
「いやいや。およそ退屈というものを知らない人間なのさ!」
そんな声が聞こえているのかいないのか、ともかくエム氏はこれまでずっとそのような生活を送ってきたのでした。
役場の仕事が5時きっかりに終わると、エム氏は歩いて10分あまりの下宿に帰ります。夕食を終えた後、エム氏は二階の自分の部屋にひきこもります。そうして、夜更けまでエム氏の部屋からはタイプライターのかたかたという音が聞こえてきます。
エム氏は記録していたのです。いえ、記録せずにはいられなかったというほう
が正確でしょう。
エム氏は、使い古しのボールペンの中身を読み取ることができたのです。
どうして、また、いつから自分にそんな能力がそなわるようになったのかはエム氏自身にもわかりません。ずいぶん前のあるとき、同僚のひとりが妙にうかない顔をしているときがありました。
「どうしたんだ」
「元気がないな」
みんなに聞かれても、その同僚はさびしく笑うばかりでした。エム氏も特にその原因を聞き出そうとはしませんでした。
ところが、なにげなくその同僚のボールペンを借りたとき、エム氏は知ってしまったのです。その人が昔愛した人が重い病気にかかっていること、そのために仕事も手につかないでいるのだということを。
エム氏は驚きました。なぜ自分にそんなことがわかったのか、さっぱり心当たりがなかったのですから。
「ぼくはどうかしているぞ」
首をかしげながら、もう一度そのボールペンで字を書こうとして、今度はエム氏も気がつきました。透明のプラスチックの軸を通して、芯の中につまっている同僚の悲しみが、それこそ手にとるように読みとれたからです。
それが、最初でした。──エム氏が自分の能力を意識しだしたのは。
ボールペンなどというものは、みんなたいして気にもとめず、そこいらにほうりだしているものです。エム氏は自分の経験したことが単なる偶然や錯覚というものかどうか試すため、職場の仲間たちのボールペンを機会があれば手にとって見ることにしました。
間違いありませんでした。それどころか、いっそうはっきりと、エム氏はボールペンの芯の──からっぽの部分を読み取れるようになっていったのです。
エム氏はいろんなことを知りました。
いつも元気いっぱいで、顔を見るたびに「やあ、エム君! どうだい、調子は!」と言ってぽーんと肩をたたく課長は、実は深い悩みをかかえており、ボールペンを見るのがつらいほどでした。
年がら年中深刻な顔をして、ときどきため息などついてみる出納係の心の中は意外におだやかでした。周期的に原因不明のヒステリーを起こす女性の年金係は、20年も前から右足にひどい水虫をわずらっていました…。
いったい、人の心の中が読み取れるようになった人間というものは、どういう生き方をするものでしょうか。エム氏の場合に限っていうと、彼は努めて何も考えないようにしました。
だれでも友だちをたくさん持ちたいと願うでしょうし、うわべだけでない本心からのつきあいをしてみたいと思うでしょう。でも、人間の本心というやつは、たいへんに人を疲れさせるものなのです。
役場の窓口にすわっていると、一日に何人もの人が訪れ、そなえつけのボールペンを使っていきます。夕方には、一本のボールペンの中にさまざまな人の心の断片がおさまることになります。
もうエム氏は、わざわざ手にとってみたり目をこらしたりしなくともそれらを読み取れるようになっていました。でも、これはなかなかやっかいなことにちがいありません。
もちろん、中にはつい興味をそそられる内容もありましたし、思わず当人に声をかけ、力になってみたい気持ちが起こることもありました。でも、実際はそのたびにかかわっているわけにはいきません。
「おそらくぼくは、いつも心をまったいらにしておかねばならないのだ」
エム氏はそう考えました。
「もともとぼくはあまり大声で笑うこともないかわりに、かんしゃくを起こしたり人をののしることもない人間だった。だから、こういう不思議な役回りになったのかもしれないぞ」
エム氏はそんなふうに自分で自分を納得させると、その日からタイプライターを動かし始めました。ボールペンの中につまっていたもの、自分が読み取ったものをひとつひとつひろいあげては記録していったのです。
時がたち、エム氏はいつしか思うようになっていました。自分はもともとこんな作業をするように生まれついていたのだ。これが一番自分らしい生き方なのだと。
原稿はどんどんたまって、今では部屋の中のひきだしというひきだしからあふれんばかりになっていました…。
ある日のことです。エム氏がうつむいて仕事をしていると、すぐそばで声がしました。
「あのう」
エム氏は「おや、あたたかいミルクのような声だ」と思いながら顔を上げました。すると、まさにあたたかいミルクのような娘が目の前に立っていました。
「転入届を出すのはここでいいのですか」
娘はエム氏の目をまっすぐに見ながら言いました。
「え、ええ。この窓口でけっこうです。はい、この用紙に記入してください。そこにボールペンがありますから」
このとき、エム氏は生まれて初めて恋をしたのです。
娘が転入届を出して帰っていった後、エム氏はそっとボールペンを手にとってみました。なんと、エム氏は何も読み取ることができなかったのです。
村の景色がすっかり変わって見えました。十何年間というもの、この村から一歩も出ることなく毎日を過ごしてきたはずなのに、何もかもが初めて出会ったかのようでした。草の葉のかがやき、郵便ポストの赤色、鳥の声から自転車のベルの音までがエム氏をうちょうてんにさせました。
「ああ、ぼくは今まで何をしていたんだろう! 眠っていたのか、それとも時がとまっていたとしか思えないじゃないか」
エム氏と娘は小川のほとりを散歩したり、喫茶店の小さなテーブルをはさんでお茶を飲んだりしながら、いろいろな話をしました。
娘は、自分がもともとこの村で生まれたこと、11歳のときに両親と遠くの街に引っ越したこと、そして事故で両親がなくなったためにおばあさんの家で暮らすことになり、たったひとりでもどってきたことを話しました。
エム氏は…エム氏は何も話すことがありませんでした。ボールペンのからっぽの芯からなんでも読み取れるだとか、夜になるとかたかたとタイプを打っているだとか言ったら気味悪がるだろうと思ったのです。
そして、それ以外となると、確かに何も話すことはありませんでした。でも、ただ娘の笑顔を見たり、声を聞いているだけでエム氏は満足でした。
またたく間にひと月がたち、ふた月がたちました。エム氏は、娘に限らずだれの使ったボールペンでも、中身が見えにくくなっていることに気がつきました。
まるで映画でも見るようにあざやかだったものが少しずつ色あせ、古びた雑誌の切れ端のようになっていきました。そしてとうとう、いくらボールペンを透かしてみても何も見ることができなくなりました。
そこにはただのボールペンがあるだけでした。
エム氏はほんの少しさびしさを感じましたが、それも娘の深く澄んだ瞳やあどけないしぐさを思うと、たちまちどこかへ消えてしまうようでした。
もうそれより先に、エム氏のタイプライターが音をたてることはなくなっていました。なんだか急につまらなくなったのです。十何年もの間、こつこつとタイプを打ち続けて来た自分に、もううんざりでした。
エム氏はタイプライターにも引き出しにも覆いをかけました。そして、覆いの上にゆっくりとほこりが積もっていきました。
「転出届を出さないといけないわ。わたし、遠くの街に引っ越すの」
突然、娘がそんなことを言い出しました。エム氏はびっくりして、ただ娘の顔を見るばかりでした。
「おばあさんの具合が悪くなって、遠くの街の大きな病院に入院することになったの。わたしはおばあさんについていく。わたしとおばあさんは、この世でふたりっきりの身内なんですもの」
「もう、ずっと…もどってこないのかい」
エム氏は泣きたい気持ちをこらえて聞きました。娘はかすかにほほえんで答えました。
「わたしはあなたが好きだし、この村も好きよ。もどってくるわ。いつかはわからないけど」
エム氏はまったくおろおろして、何をどう言えばいいのかわかりませんでした。娘のいない毎日なんて、考えただけで頭がくらくらするようでした。
「そ、それで、いつ出発するんだい」
「明日の朝早く」
その日の夜、エム氏ははじめて娘を自分の下宿に招きました。
「こんばんは!」
娘が入ってきたとたん、部屋の中はどんな明るい電灯をともしたより明るくなったように感じられました。
「想像していたとおり、すてきなお部屋だこと。何より余分なものがないのがいいわ。でも、その覆いは何かしら?」
タイプライターやひきだしにかけられていた覆いを指して、娘が言いました。エム氏はゆっくりと覆いを取りのぞきながらこたえました。
「今夜、君を招待したのはこれを見てもらうためだったんだよ。ぼくは君に会うまで十何年間というもの、毎晩この部屋で、タイプを打ち続けてきたんだ」
覆いの下から旧式のタイプライターが出てきました。ひきだしの中には紙がいっぱいにつまっており、それがびっしりと文字で埋められているのが見てとれました。
そして、エム氏は打ち明けたのです。自分にはボールペンにつめこまれた人々の喜びや悲しみや悩みが見えたこと、それを記録していくのが自分の義務であるかのような気がしていたこと。
「け、けいべつしたかい。それとも気持ち悪いかい。いいんだよ、はっきり言ってくれて…別に人の心を盗み見て、それでおもしろがっていたわけじゃないけど、そう思われても無理はないと思う。だから君にも言えなかった。でも…これがほんとうのぼくなんだ。隠したままでいるのはいやだったんだ」
「わたしの心も読み取れるの?」
「読み取れたらどんなにいいだろう。でも、なんにも見えなかった。そして、今ではどのボールペンを見てもただのボールペンにしか見えないんだ」
娘は気味悪がる様子もなく、春のようなほほえみを浮かべたまま、言いました。
「あなたがそんなふうに記録するようになったのはいつごろからなの?」
「今から…16年くらい前からだろうか。それがどうかしたかい?」
「それはわたしが生まれたころだわ。では、この部屋にはわたしやわたしの両親がいるようなものね!」
娘は目をきらきらと輝かせながら、部屋を見わたしました。
「わたしが生まれたとき、今はもういない両親が役場に行って届けを出したわ。きっとボールペンを使って。わたしが学校に入学したときも、引っ越したときも、両親はボールペンにその時々の思いを残していったにちがいないわ。
いいえ両親だけでなく、おばあさんは年金の手続きに行ったでしょうし、税金のことで出向いて行ったかもしれないわ。わたしをかわいがってくれたとなりのおじさんは脚が不自由で、時々役場に相談に行ってたし、親友のひとりはもう結婚したし──そうだわ。この村に住む人たちのすべてが、この部屋にあるのだわ。なんてすばらしいことかしら!」
「ほんとにそう思うかい? ぼくはもう、こんな原稿は焼き捨てようかとさえ思った」
「そんなことをしてはいけないわ。そんなことをしたら──わたしの帰ってくる場所がなくなるような気がするわ」
「下手な文章の寄せ集めだよ」
「ねえ」
娘はエム氏の手をとって言いました。
「おばあさんにもしものことがあれば、わたしはこの世でひとりぼっちになるわ。正直いって先のことを考えるととても不安なの。でも、ここにわたしやわたしを愛してくれた人たちの思い出が集められているとしたら、それだけで勇気づけられるわ」
「聞いておくれ、ぼくは…」
「わたしはきっと帰ってくるわ、きっと」
◆
それ以来、いまも、エム氏は待ち続けています。
娘からは二度、手紙が来ました。とても元気なのでご心配なく、というような内容でしたが、その後ぷっつりと消息は絶えました。エム氏が出した手紙は返送されてきました。娘とおばあさんの身に何があったのか、気にはなっても確かめるすべはありません。
エム氏は長いこと力が抜けたようになり、食事をするのもおっくうな日が続きました。あの夜、エム氏は娘に「君が帰ってきたら結婚式をあげよう」と言うつもりだったのですが、言いそびれたことをいつまでも悔やんでいました。
さらに年月がたち、エム氏はふたたびタイプライターを使い始めました。ボールペンの中身が以前のように読み取れるようになったのです。
ですから、今夜も、もしあなたがエム氏の下宿の下を通り過ぎることがあれば、かたかたかたかたというタイプライターの音を耳にするにちがいありません。そして、時おりぱったり音が絶えたとしたら、それはエム氏が娘のことを思い出しているときなのです。
これで私のお話はおしまいです。
【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
< http://midtan.net/
>
< http://koo-yamashita.main.jp/wp/
>
今回は新作ではなく、ずいぶんむかしむかしの作品を掲載させてもらいました。ちょっと長いですね。すいません。当時、友人が出していた手作りの個人誌に載せてもらったものです。
ところでデジクリに初めて掲載していただいたのが2004年の11月24日でした。(GrowHairさんと同時デビュー)。今月でまる10年になりました。あまり進歩してないのがとほほですが、これからもよろしくです。