ある日、夫が彼女に言った。
「私は木になろうと思うんだ。人間には飽きたんでね」
「どうやってなるのよ。木に」
彼女がそう言うと、待ってましたとばかりに夫は説明を始めた。図書館で、あるいはネットで調べた結果、人間が木になる方法はほぼ確立されていてそれなりの歴史があること、そのための道場も何か所かあること。すでに説明書も取り寄せてみたこと。
「道場ですって。木になるためには何か修業が必要なの」
「まあそうだ」
そこで夫は軽く咳払いする。そして
「問題は道場に入門して所定のコースを修了するにはけっこうな費用がかかることだ。それで独学でできるかどうかさらに調べて検討を重ねてみたところ、どうやらできそうだとわかった。困難ではあるが不可能ではない。私はどうやら独学で人間から木になった最初の人間になれそうなのだ」
「あなたらしいわ。要するにけちなのよ」
「既成のコースに乗るのをよしとしないだけだ」
「それで」
「それで。君には悪いが、すでに少しずつ準備を進め、もうすぐ木になれそうなんだ。君は聡明な女性だから私の決断を理解してくれるよね」
「私は聡明じゃないからまったく理解できないわ。でも、理解できないと言ったり反対してもどうせ無視するんでしょ」
夫はくすっと笑い、そしてうなずいた。
「君は本当に理解してくれてるよ」
そういうわけで、夫は木になった。場所は近くの公園の、あまり人が通らない片隅を選んだ。二人の住居は古い賃貸のアパートだったので、そこで木になるわけにはいかなかったのだ。
公園のその場所で、夫は落ち葉を足でどけたりそこらをとんとんと踏みしめたりして慎重に場所定めしたあと、「ここにする」と言った。彼女はそれで「じゃあ」と言って家に帰った。
次にその場所に行くと夫は一応木になっていた。
「どうだい」
「どうだいと言われても」
「率直に感想を述べてくれたらいいんだ」
「なんか変」
「どう変なんだ」
「これは木じゃないというか……いったいどういう木をイメージしたわけ」
「私がめざしているのはふつうにある木じゃないんだ。そんなものに私がわざわざなる必要がない」
いかにも夫らしい応えだ。だが、木肌が部分的に古壁のようであったり木綿地のようであったり、かと思うとつるんとして光沢を帯びていたり、色も紫から緑までいやにカラフルで、おまけに枝はというとジャガイモの芽のようなものがあちこちに出ているだけ。
唐突にてっぺんから細い茎が伸びて、バナナのような形の果実がぶら下がっているし。そんな木──というのかどうか──は当然ながら公園では特殊すぎた。
「君は、私がケヤキとかニレとか、あるいはクスノキとかクロガネモチとか、そういう木になることを夢みてると思ったのかい。がっかりだね」
「私はケヤキやニレの木は好きよ。クスノキもヌマスギも。くさくさしてるときに大きな木が天に向かって思い切り枝を広げているのを見ると気分が良くなるわ。そばにいると守られているような気がする。私のイメージする木はそういうものよ」
「なんて月並みな。君がそんなに凡庸な発想の持ち主とは。私は自分なりの木を追求する」
「もっともらしく聞こえるけど、ほんとはそもそも木というものを知らないんじゃないの」
「知っているさ」
「チューリップとひまわりの区別もつかないくせに」
「つくさ、そんな区別。だいたい知識が何になる」
「知識や技術をばかにするのがあなたの良くないところだわ。人間は謙虚であるべきよ」
「とにかく結論として君はこの木が気に入らないと」
「これは木じゃないわ」
彼女は夫を公園の片隅に残して家に帰る。食事をする。夫の分はもういらないのだから楽になった、と思う。「ああ、さばさばした」と声に出し、浴室で歌を歌い、口笛も吹き、ベッドのスペースを存分に使って、寝る。
それから何日か後、回覧板が回って来た。
「○○公園に待望の駐車場ができることになりました。工事は○月○日から始まります。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いいたします。」
別紙の地図を見ると予定地がアミをかけた楕円形で示され、夫が木になっているところが含まれていた。日付は三日後だった。
「ここ、駐車場になるらしいわよ」
彼女がさっそく報告すると夫はびっくりしたようだった。
「というと」
「予定地に生えている木は全部伐採されるらしいわ」
「暴挙だ」
「とにかくそういうことなのよ」
夫は黙り込んだ。そのとき気づいたが、夫の枝はかなり伸びていて、やはり変ではあるが前よりは木らしくなっていた。
「どうするの」
「なんとか……なると思う」
「なんとかって」
「幸か不幸か、私はまだ完全に木ではない」
「確かにそうね。木なのか何なのかよくわからないものだわ」
「私は、誰にも頼らず独学で必要な手順を見いだし、それをひとつひとつ実行することでここまで木になったわけだが、その手順を、いわば逆まわしすることによって、元に戻ることが可能かも知れないと考える」
「なんだ。できるのね」
「やってみたことがないので自信はないが、うまくいけば私は独学で人間から木になり、木からまた人間に戻った最初の人間になるだろう。これは私の」
彼女は最後まで聞くのがめんどうになり、途中で帰った。
三日後の朝、公園に行くと、夫はまだそこに生えていた。
「何してんの。もうすぐ工事の人たちが来るわよ」
「あと少しなんだよ」
「見た目、そのままだけど」
「いや、着実に変化は起こっているんだ。もう少しだ」
「いつかパンを独学で初めて焼こうとしたときもそんなふうに言ってたけど、
結局失敗したじゃない」
「あれはあれだ」
「間に合わないんじゃない」
「いま一生懸命集中してるんだ。余計なことを言わないでくれ」
「そんなこと言っても」
「だいじょうぶだったら」
「あ、作業車が公園の入り口に来たみたい。もう無理よ」
「集中させてくれと言ってるじゃないか」
彼女は思い切って夫を──木なのか何なのかよくわからないものを抱きかかえ、うっ、と力を込めて持ち上げた。そのままずるずると引きずり始めた。
「あああっ、待てと言ってるのに。もう少しなのに」
彼女は無視した。木をかついだまま歩いた。横断歩道を渡り、開店前のスーパーの前を通り、あと一歩でアパートの玄関というところで、転んだ。すねを思い切り階段にぶつけ、声も出せずにうずくまった。
「だから待てと言ってるのに」
ふと見上げると、半分くらい人間に戻った夫がさっさと歩き出すところだった。
それ以来、夫はふたたび木になろうとは言わなくなった。ただし、完全に人間に戻れていない。顔の半分は樹皮で覆われているし、衣服で隠してはいるもののあちこちに枝になりそこねたこぶがある。右足の裏には根がしょぼしょぼと生えたまま引っ込む気配もない。
「あれほどだいじょうぶだと言ってたのに、君はまったく私を信用していない。別にかまわないけどね。次は鳥になるつもりだから」
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何十年ぶりかでハローワークに行った。白髪まじりの男性がにこやかに応対してくれたが、パソコンを操作するときの手元を見てると完璧に右手だけでキーボードを操っている。「?」と思ったら、時たま左手で、マウスを使っていた。あ、そうか。そういう方法もあるんだ。