ショート・ストーリーのKUNI[174]私は変わる
── ヤマシタクニコ ──

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ある朝、マキノ氏の脳内に天啓のごとくひとつの思いが浮かんだ。それは、個人の人間性というもののかなりの部分は日々の生活習慣の集積によるのではないかということだ。

日々をどのように暮らし、振る舞うかということは表面上のことのように思われるが、表面が内面に浸食し、身となり骨となり、やがてそれはひょっとしてその人そのものになるのではないだろうか。いや、なる。きっと、なる。

ということは、その生活習慣を変えれば、自分は別の自分になるのではないか。そうだ。それにちがいない。

そう思ったのはマキノ氏が仕事をやめ、妻とも別居してそろそろ半年になるころで、その日も独り身の気楽さでだらだらと目覚め、だらだらと朝刊を手にしたときであった。

そこで朝刊を読もうとしたとき、ふと、友人のオオタの言葉が虚空にぽっかりと浮かんだ。

──ぼく、朝刊はいつもトイレで読むんですよね...。




「よし、自分もそうしてみよう。今までそんなことはしたことがないが、やってみようじゃないか」

さっそく朝刊を持ってトイレに入ると、なんだか集中できていい感じだ。窓から朝日が程よく差し込む。ひとりなのでだれに気兼ねすることもない。

なるほど、このような習慣がオオタという人間をかたちづくっている要素のひとつであり、私はそれを導入したというわけだ。うむ。

マキノ氏はなんとなくわくわくしてきた。よし、この調子で「いつもの自分らしくないこと」をしてみよう。と思いながらいつものようにコーヒーをいれようとしてはっとした。

「あぶないところだった。いつものようなことはやめようと決めたのに。習慣とはおそろしいものだ。コーヒーを飲むのはやめよう。といってもどうしたらいいんだろう」

そのとき、前の会社にいたとき隣の席に座っていたナカムラ嬢の言葉が、天井の蛍光灯のあたりにきらりと浮かんで見えた。

──私、朝は健康のために野菜ジュースをつくって飲むひとだったりするんですよ。うふふ...うふふ...。

「そうか。なら私も野菜ジュースにしよう。まったく私らしくないところがいいというもんだ」

しかし冷蔵庫を開けてみるとナスビとじゃがいもしかなかった。よく考えるとジューサーもミキサーもない。それでナスビとじゃがいもをすり鉢ですってみた。なんだかわけのわからない汚らしいものができたが、目をつぶって飲んでみた。

「おえっ」

しかし、新鮮な気持ちではある。口の中とお腹が気持ち悪いだけだ。そのくらいはがまんしよう。使った食器や調理器具を片付けようとしてふと、学生時代の先輩、コウダの言葉が耳元に聞こえた。

──おれは料理するのはきらいじゃないんだが、片付けるのがきらいでね。だいたい三日分くらいの食器が流しに山積みだよ。まとめて洗えばいいんだからな。はははは...はははは...。

「よし、では私もそうしてみよう。今日も明日も食器は洗わないぞ」

マキノ氏は、流しにどろどろのナスビやじゃがいもが付着しまくったコップやすり鉢やまな板やその他を放り込んでそのままにした。

そのとき、ブイーンと大きな音がした。外で草刈りをしているのだ。昔の上司、トノヤマ部長の言葉が浮かんだ。

──草刈り機ってうるさいだろ。おれはいつも「じゃかやしわい!」と怒鳴るんで、女房がはらはらするんだがね、黙ってられないんだよ。わはは...わはは...。

「私は一度もそんなことをしたことがない。よし、やってみよう」

マキノ氏はがらりと窓を開けた。ブイーン、ブイーン、とやかましい音を立てながら作業員が二人、ひたすら仕事をしている。まだ若くて腕力も強そうだ。どきどきしてきた。

「...こら...そこの草刈りしてるひと」
ブイーン、ブイーン。
「...あの...うるさいのですが...」
ブイーン!

声はまったく届かなかったようだ。なぜかほっとしながら、わなわな震える手でマキノ氏は窓を閉めた。

「わ、われながらすごい。若いあんちゃんに堂々と文句を言ってしまった。私という人間は、もはやかなりの部分私ではなくなっているようだ。少なくともオオタとナカムラ嬢とコウダ先輩とトノヤマ部長という要素が、すでに私の中に入って来たのだ。無理もない」

ようやく心拍数も落ち着いたところで、テレビでも見ようとリモコンを手にして、またマキノ氏ははっとした。

「危ない危ない。またいつものようにテレビを見ようとしたが、ということはテレビを見てはいけないのだ。そうだ。出かけよう」

出かける前にいつものように顔を洗おうとして、それもやめた。いつもと違うかっこうで出かけようと思ったが、当然いつもの服しかない。

それで手持ちのポロシャツを裏返しに着て、ズボンのすそは片方だけまくり、靴下ははくのをやめた。財布を手にしたとき、死んだ父親の言葉が畳の上にぽわわわんと浮かんだ。

──ふっ。男が財布なんぞ持つもんじゃねえ。ポケットに裸で突っ込むのが男というもんだぜ...もんだぜ...。

マキノ氏は財布を投げ捨て、現金を全部ポケットに入れた。そして家を出て歩き出した。めちゃくちゃ気持ち悪い。

靴の中で脚がぺたぺたするし、ズボンのポケットの中の現金が重い上にこぼれそうで気になるので、ポケットに片手を突っ込んだまま歩く。しかもお腹の具合が非常によくないが、全部まとめて気にしないことにする。

マキノ氏は買い物、それも「衝動買い」をするつもりだった。会社に勤めていたころライバルだった、ムラモトの言葉が耳元によみがえる。

──いやー、昨日も衝動買いしてしまったよ、カメラの交換レンズと三脚と。合計20万円ほどだけどね。その前はおしゃれなブーツが目について、これも衝動買いだよ。ほんの7万円ちょっとの安物だけどね。気に入ったからそれまではいていた靴はその場で捨てて、そのブーツをはいて帰ってきたんだよ。ははは...その前は...いやー、衝動買いはよくないなあ...はははは。

近所のスーパー以外ほとんど買い物をしたことがなく、なんでも妻にまかせていたマキノ氏であったが、とりあえず駅前を抜け、まっすぐ歩いたところにある昔ながらの洋品店に入った。

「すすすいません、服を買いにきました」

だれにともなく宣言してしまった。で、どうしたらいいのだろう。すると会社で斜め前に座っていたコタニ嬢の言葉が浮かんだ。

──私が着るべきお洋服って、なんていうのかな、向こうから呼びかけてくるんですよね...うふ...。

店内を見渡したが、どれも呼びかけてこなかった。そのかわり店員か店主かわからないが推定年齢73歳の女が奥から現れ「これなんかどうやろね」と、オレンジ色のド派手なポロシャツを出して来た。なぜか茶瓶の模様入り。

マキノ氏はほとんど顔をそむけようとしたが、耐えた。値段も自分で買ったことがないので、安いのか高いのかわからない。

「私にはようわからんのやけどね。なんでこんな模様がはやるのか。三年ほど前に仕入れたんやけど」

すすめているのかいないのか理解できない。しかし、こんな服はいままでの自分なら絶対買わないだろう。だから買うべきなのだ。

マキノ氏はそのポロシャツを買い、来ていたポロシャツを惜しげもなく脱ぎ捨て、その場で着替えた。そして毅然とした面持ちで店を出た。

歩きながらマキノ氏はなんとなく悲しくなった。自分以外の人間になることはこんなにもつらいことなのか。

どう考えても自分にそのポロシャツは似合ってなかったし、依然として靴がぺたぺたするし、ナスビとじゃがいものジュースでお腹がごろごろしている。ポロシャツが思ったより安かったのがせめてもの救いだ。

「だいじょうぶだ。すぐに慣れるに決まってる。着慣れない服もだんだんなじんできて、皮膚の一部みたいになるように。そして、やがて私はかつての私でなくなるのだ。ああ、そのときはどんな気持ちがするのだろう」

と思いながら歩いていると、向こうから妻のマリコがやってきた。別居とはいえ、マリコは徒歩圏内のアパートに住んでいるのだ。

マリコはためらいもせずずんずんと近づいてきて、ついにふたりは向き合った。茶瓶模様のポロシャツを身にまとい、素足に革靴をはき、顔も洗わずぼさぼさ頭のマキノ氏を、マリコは上から下までまじまじと見た。そしてすべてを見透かしたように言った。

「あんたの考えそうなことだわ」

それから歩き出し、ふと思いついて回れ右をしてマキノ氏に言った。

「右のほほにぺちゃんこになった蚊がくっついてるんだけど」

マキノ氏はほほから蚊をはずしかけたが、羽を一枚残したところでまた思い直してほほに戻し、すたすたと歩いて帰った。

私はもっともっと変わるのだ。そう思いながら。

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「デジタルフォト&デザインセミナー」(IMPホール)に行ってきた。フリーになったし、平日のこうしたセミナーにも参加できるのだからと思って。参加者がほとんど男性だったのでびっくりした。見渡したところ女性は一割くらい。そして、年齢の割にドしろうとの私には、どの人も経験豊かなデザイナーさんやフォトグラファーさんのようにみえて、小さくなっていたのであった。