ショート・ストーリーのKUNI[187]あなたと映画を
── ヤマシタクニコ ──

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いつ頃から私はひとりごとを言うようになったのだろう。歩いているとき、流しでフォークやコップを洗っているとき、洗濯ものを干しているとき。そして、夫がいる部屋で夫がそばにいるときでも。

そのときも私はひとりごとを言いながら歩いていた。よく散歩する公園から遊歩道へ、そしていつしか道をそれ、来たこともない山道に迷い込みながら。

私の周囲には野生のままのようなさまざまな種類の木々が枝を広げ、そこに蔓性の植物がからまっていて、しかしもう半分枯れてかさかさになっていた。足元にも乾いた落ち葉が散乱している。

私はそれを踏み砕きながら、今日は曇ってるわねだとか、あそこに実をつけているのは何の木だろう? とかひとりごとを言い続けていた。

すると、返事があった。




──センダンだよ。

私はおどろいてあたりを見渡した。誰もいなかったが、きょろきょろする私に向かって合図するものがいた。一匹の蜘蛛だった。ゆらゆらと巣を揺らして。

「おどろいたわ。あなたなのね?」

──ああ。

「りっぱな巣ね」

巣は直径60センチくらいありそうだった。

──そうでもない。

「体に模様があるのね。私、蜘蛛を間近で見るの初めてかもしれない」

──気味が悪いだろ。正直に言ってくれていいよ。

「まあね」

私はすっかり足を止め、蜘蛛の前にしゃがみこんだ。

──あんたはまるで、そばに誰かがいるように大きな声でひとりごとを言ってた。おかしなやつがいるもんだと思った。


「はは、そうね!」

──ひとりでいるのが好きなのか。

「まさか」

──でも、楽しそうにみえた。

「誤解だわ。ほんとは誰かと一緒に並んで歩きたい。誰かと一緒にどこかに行きたいわ」

──ふうん。

「あなたはおもしろい蜘蛛ね。またね」

そして私は来た道を戻り、晩ご飯の材料を買って帰り、野菜をまな板いっぱいに切り、炒め、ことことと煮込んだ。

夫は仕事から帰ると何も言わずに食卓につき、何も言わずに私が煮込んだ料理を食べた。私はその間もずっとしゃべっていた。

今日は曇っていたけど、それが夕方になると急に晴れて、雲間から太陽の黄金色の光が射して、それはそれは感動的だったとか、最近ブロッコリが高いわね、と急に見知らぬ人から話しかけられたのよ、とか。

返事はないから、私はやはりひとりごとを言ってるだけだ。

「私、ひどい方向音痴だから、二度とここに来れないんじゃないかと思った。でも来れたわ」

私はあの蜘蛛の巣の前にいた。今日も曇っている。

──ひさしぶりだな。

声は少し元気がないように思えた。

「あなたの巣、少し破れているわ」

──知ってるさ。いいんだ。借りものだし。

「そうなの? 全体としてはきれいよ。楽譜みたい」

──今日はだめだけど、天気のいい日にはきらきら輝く。たぶん。

「ふうん」

──質問していいかな。

「どうぞ」

──あんたの髪、左耳の後ろあたりにケチャップがついてるんだけど、それは?

私ははっとした。その日の朝、夫が癇癪を起こして投げたハムエッグの皿は、もう少しで私の顔に命中するところだったが、なんとかかわせた。

だけど、私の左肩から胸にかけては半熟の卵の黄身やケチャップがぶちまけられることになった。すっかり着替えて、髪もチェックしたつもりだったのに。

「ああ、はずかしい! 私、おっちょこちょいだから。ケチャップがあと少ししかなくてなかなか出てこないから、容器をぎゅうぎゅうしぼってたら、急にぷしゅっと勢いよく出て、あっちこっちに飛び散ったの。ティッシュで拭いたつもりだったんだけど。ああ、やだ。かっこ悪いとこ見られちゃった」

口から出まかせを言って、なんとかにこっと笑うところまではやってのけたが、その後、ふうっとため息が出た。台無しだ。

私たちはちょっと黙り込んだ。

「映画に行きたいな」

なんとなくそんなことを口にしてしまった。

──行けばいいじゃないか。

「ひとりじゃなく、誰かと行きたいの」

──結婚してるんだろ?

「夫はもう一緒に行ってくれないの。なぜだか知らないけど。どんなに頼んで
も行ってくれない」

──ふうん。

「一緒に行ってくれなくなってもう何年になるかなあ。映画を観て、その後お茶して、あの場面がよかったねとか、怖かったとか、おしゃべりしたい」

──誰かを誘えば。

「いないわ、そんな人」

──おれでよければ、つきあってやろうか。

「あなたが?」

──そうだよ。あんたは、映画に一緒に行ってくれる相手に、何を求めている?

「何も。ただ一緒に映画館に行って、切符を買って、キャラメルポップコーンを買って、並んで座って、それから、映画を観る」

──それだけでいいのかい? そんなことで、あんたは満足するのかい?

「そばに誰かがいて、同じものを見ているだけでいいのよ」

──それならおれでもできそうだ。

「そうなの? あなたは蜘蛛だけど? 私、蜘蛛と一緒に映画を観たことないわ」

──おれだって人間と一緒に映画を観たことないさ。でも、何とかなると思う。ただし…

「ただし?」

──あんたとおれは並んで歩く。並んで映画を観る。決しておれのほうを見ないでほしい。足元も見てはいけない。鏡も見ないでほしい。

私はちょっと考えた。想像してみた。

私は蜘蛛と映画に行く。私は蜘蛛と映画に行く。私は…

私はおほん、と咳払いをしてから言った。

「あなたは、その、とても小さいでしょ…蜘蛛だから…だから、一緒にいるという実感が持てるかしら。というのは、その…そばに夫とか恋人とかがいると、なんだか安心できる、ていうか守ってくれそうな気持ちになれるじゃない」

──ああ、そういうものをあんたは求めているんだ。

「そうね」

──わかった。だいじょうぶだ。だいじょうぶだと思う。心配するな。おれも蜘蛛でいるのにたいがい飽きた。一度変わったことをしてみたいと思ってた。ただし、さっきも言ったようにおれのほうを見ないでほしい。

「わかったわ」


私たち──私と蜘蛛──はその翌日、映画館に向かった。

待ち合わせの場所に行き、私が立っていると、そばに誰かがやってくる気配があった。私より少し背が高い。

「あなたね」

──そうだ。

私たちは人気のない道を選んで歩いた。それでも、途中、向こうからやってきた中年の男とすれ違った。男はぎょっとした。思いっきり眼を見開き、自分の見たものが信じられないという顔をした。私はどきどきした。私の横にはとんでもない姿をしたものがいるようだ。

でも、約束通り、自分と並んで歩いているひと──人間の姿をしているかどうかはわからないが──のほうは決して見なかった。私はただ、気配を感じた。

私と並んで歩き、一緒に映画を楽しもうとしているひとの気配。それだけで私の心はとてもあたたかくなるのだ。

「これから観るのは数年前に公開されたけど見逃したの。題名が『お嬢さんお手やわらかにシャンゼリゼ』というの」

──なんだその題名は。

「ね、変でしょ」

他愛ない会話。だが、そんな会話さえ何年もしたことがなかった。かたくなった私の心がほどけてゆく。今日私が話すのは、とりあえずひとりごとではないのだ。

私たちはあまり人が来ない映画館に行った。いまどき少なくなった昔風の、シネコンではない映画館。がくがく音を立てる古びたエレベーターで二階に行くと、カウンターに年取った女がいる。

私たちを見るとやはりぎょっとした顔をする。口をぱくぱくさせながら、ものすごく混乱した様子でなんとか私の差し出したお金を受け取り、代わりに二枚のチケットを押し付ける。そして分厚くて重そうな扉を自ら開け、「も、もうすぐ始まるから」と言う。

場内にはだれもいなかった。そのまま照明が落とされ、私たちは貸し切り状態で映画を観る。

映画は平凡な女の子がハンサムだけどお金がなさそうな男と出会う恋愛ドラマで、しかも男は実は富豪の御曹司だったという甘い物語だった。だけど私は甘いお話が好きだ。

ポップコーンを買い忘れ、というよりポップコーンも売ってない映画館だったので私たちはただ画面に見入るしかなかった。

「この女優さん、きれいね」

──おれはあまり目が良くないのでよくわからないがね。

「そうなの?」

──おれたち蜘蛛は視力が弱いんだよ。

「じゃあ私の顔もあまり見えてないの?」

──いや、見えるさ。あんたはとてもすてきだ。

「はは。うそばっかり」

暗がりで聞く蜘蛛の声はなかなかすてきだった。私はひとりじゃない。やさしいひと、私を気遣ってくれるひとと一緒にいる。一緒に映画を観ている。私はほとんどうっとりして目頭がじんとしてくる。ばかみたいだ。こんなことで。隣にいるのは蜘蛛なのに。黒と黄色のまだらの、硬い毛の生えた脚をくねくねと動かす蜘蛛なのに。

私はふと、隣に座っているものを見たくてたまらなくなった。決しておれのほうを見ないでほしい。足元も見てはいけない。そう言われたけれど、見たくてたまらない。私は耐えられず卒倒するだろうか。それとも恐怖で縮み上がるだろうか。そしたら、蜘蛛はグロテスクなその顎で私を頭からかみ砕くのだろうか。奇妙なことにそう思えば思うほど、私は見たくてたまらなかった。

私はそっと、試すように左手をのばした。手が触れたのは硬い毛の生えた脚ではなく、やわらかで厚みのあるあたたかな手だった。私は思いきって体をねじ曲げ、隣の席を見た。

折からスクリーンが明るくなり、座っているものを照らし出した。そこにいたのは、いままで見たこともないくらい美しい男だった。つややかな黒髪が精悍な浅黒い額にかかり、その先には理想的なカーブを描く鼻梁。濃い睫が陰影をつくり、表情に深みを添える。身を覆うのは上質なスーツ。そのスーツの上からでも厚い胸板が感じられる。

私は頭がくらくらしてきた。すると、男のほうから腕をさしのべてきた。私たちはそこで──椅子の肘掛けがじゃまだったけど──抱き合った。ああなんてこと。誰がこんなことを予想しただろう。私は思わず腕に力を入れた。

くしゃっ

はかない感触に我に返ると、隣の席にはだれもいなかった。私はあたりを見回した。男は私の手の中にいた。無残につぶれた一匹の蜘蛛となって。

私はカウンターの女の不審な視線を浴びつつひとりで映画館を出た。いつものように晩ご飯の買い物をして家に帰り、料理をつくった。夫はいつものように何も言わず、私はまたひとりごとの夜を過ごした。ハンカチに包んだ蜘蛛を、明日、あの山道に埋葬しようと思いながら。


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iPhoneの料金プランは「データ低額パック・小容量2GB」というやつにしている。それでずっと問題なかったのに、数日前、ソフトバンクから「残り200MBで通信速度を低速にします」という連絡が来てびっくり。追加料金払えばだいじょうぶですよ〜みたいなことが書かれていて、1GB追加で1000円だとか。そんなこと言われたのは初めてだ。

思い当たるのが、最近facebookの動画が勝手に再生されること。ははーんと思って動画を自動再生しない設定に変えた。これでだいじょうぶだと思うが、なんか不愉快。