吹く風がすっかりやさしくなり、窓から見える空も春の色になった。
それで彼女は部屋の片付けをすることにした。というと変だ。部屋の片付けなどというものはお天気に関係なくできるものだ。だけど、何かにつけ大切なものは「気分」である。
彼女の夫なる人が天国に行ってからもう3年になろうとしているが、残されたものの片付けは全然進んでいない。
そもそも夫なる人は整理整頓とか片付けなどをまったくしない人だった。子供のころの工作や高校生の時の参考書も捨てずに持っていた。
つまり、家には夫が生きた50数年分のなんだかんだがほぼそのまま残っているわけで、それを整理するとしたら図書館司書や博物館学芸員が何人も必要であろう。
実際には潔く処分するかほっておくしかなく、目下のところは後者に傾いているのだが、時折そんなふうに気まぐれで、ごそごそと片付けのようなことをしてはふうっとため息が出て、またそのままほったらかしになるのだ。
さて、何本かある本棚のうちのひとつを探っていると、小さなガラス瓶を見つけた。本棚には手前と奥との二層に本が詰め込まれ、その奥のほうにあったので気がつかなかったのだ。
ラベルは剥がしてあるものの、風邪薬の空き瓶のようだ。そこにねじが入っている。蓋を外し、紙の上に中身をあけてみると、ねじは全部で7本あった。
何のねじかはわからない。ただ、夫であった人はパソコンでもなんでもよく分解していた。ねじが残っているのは不思議でもなんでもない。山ほど溜めていたケーブル類に比べたら、少なすぎるのが不思議なくらいだ。
ぼんやり見ていると、ねじといっても形も色合いもさまざまである。赤みを帯びてずんぐりしたのがあるかと思えば、真っ黒ですらりとしたもの、金色がいい具合に古びたもの、ぎらぎらしているもの。
「ふうん。ねじもよく見たらかわいいかもしれないね」
彼女はふわあっとあくびをした。それから仰向けに寝転んで、しばらくそのままでいたら、なんだか眠くなった。
──花見に行きましょう。
という声で、彼女は目覚めた。
目を開けると見たこともない男が自分を見下ろしている。普通なら驚いて腰を抜かすところだが、不思議とそんな気持ちにはならなかった。
「花見に?」
──そうです。みんな待ってます。
男はにっこりと笑い、先に立って歩き出した。男が行く先は彼女もよく知っている公園のようだ。いつもは散歩する人達がそこここに見られるが、今日はなぜかだれもいない。
公園の一角、池を見下ろすところに行った。大きな桜の木の下にはすでに美しい花茣蓙が敷かれ、何人かの男たちが座っている。男と彼女がちかづいていくと、やあ、というようにみんな会釈する。
彼女は男達を見渡した。赤ら顔の小太りの男。色黒でやせた男。帽子をかぶって、ちょっとすかした男。眼鏡をかけた教師風の男。丸顔で見るからに愛想の良さそうな男。
そして彼女を連れてきた男は首に薄いチーフを巻き、穏やかな笑みを浮かべている。全部で7人。あ、と彼女は思った。
「みなさんは、ねじなのね」
そう言うと男達はうん、うんとうなずいた。別に男達はねじのような顔をしていたわけでも、首に溝が彫れていたわけでもなかったが。
──私たちを見つけてくださってありがとうございます。
──今日は楽しくやりましょう。
──さあ遠慮なく。
そうしてよく見ると男達の前にはもう杯と酒肴が並んでいる。彼女の前の小さなグラスにも、透き通った薄青い酒らしき液体が満たされている。
──乾杯!
青い酒は思いのほか強く、ひとくち、またひとくちと飲むにつれ彼女はどんどん酔っ払った。
「ああいい気持ち。私、酔っ払いたいと思ってた。前から」
またみんなうなずき、ほほえむ。彼女が酔うのは喜ばしいことであるようだ。
桜のつぼみがひとつ、またひとつと開いていく。あっという間に三分咲きから五分咲き、七分咲きになった。グラスの水面に花が映る。その花を飲む。
「すごくばかばかしい話をしたい気分だけど、思いつかないわ」
──思いつかないなら。
──無理することはありません。
またみんなうなずき、酒を飲む。花がまた開く。
──あなたのご主人は変わった人でした。
だれかが言うと
──まったくです。しかし、私たちをしまっておくような人だったから、あなたとこのようなひとときが持てた。
別のだれかが言う。
──よく机に向かったままで眠っておられました。
──ひとりごともよく言ってた。
──ひとりで笑ったり、かんかんになって怒ったりしてた。
みんな笑い、彼女も笑った。
──そうそう。私たちが置かれていた棚の本たちも、機会があればあなたにお会いしたいと言っておりました。
「そうなの?」
──そう言ったのは『偏微分方程式論』かね?
──その隣の『台数函数論 増補版』さ。『位相解析の基礎』や『最適過程の数学的理論』も前からそう言ってる。
──それを言うと『スミルノフ高等数学教程』も行きたいと言うはずだ。ご主人について話したいことがいっぱいあるらしい。
──なんと。それは大人数になる。
──君たち、それを言うと隣の棚のActionScriptの本達も黙っていませんぞ。
──まさしく。
──これは楽しいことになりそうだ。他にも誘ってみようか。
──おお、これはどうだ。いま思ったのだがね。われわれはねじじゃないか。ねじといえば何かと何かを結びつけたりくっつけたりするものだ。こういうことをするのは元々われわれの役目なのかもしれないね。つまり、だれかとだれかを……
──それはあまりにも理に落ちた説明ですな。
──まったくです。簡単に説明できることほどつまらないものはありません。
──なにごとにも意味を見いだそうとすることを無意味というのです。
言い出した小太りの男はしゅんとした。
「なんでもいいわよ。楽しいことなら」
彼女はほほえんだ。
──花を愛で、友と語り合い、酒を飲む。これ以上何が必要でしょう。
──良き日ですな。
みんなうなずきあう。酒は、男達がいくら飲んでも杯にあとからあとから湧いてくるらしい。彼女のグラスにも常になみなみと酒が満たされている。ほんのりと甘く、強く、体が芯からほぐれていく。もうどれほど飲んだだろう。
桜はほぼ満開だ。あるかなしかの風が吹く。
もう散りそうだ……。
そう思っていると少し離れたところで誰かがこちらを見ているのに気がついた。
「あれは……」
彼女の声にみんながそのほうを見た。小柄で華奢な体格の少年が池にかかった橋の上にいる。
──ああ。
──そうだ。あの子を早くあなたの元へと思っていたのです。
「私の?」
──おおい、こっちだ。早く来い。
丸顔の男がそう言い、少年に向かって手招きをした。少年は、困ったようにその場に立ちつくした。
──ああ、やっぱりそうなんだ。
──そうなんです。
──あなたが見つけてくれないとだめなのです。
みんながうなずいて、彼女を見た。
そこで目が覚めた。
目が覚めてからも彼女はしばらくぼんやりしていた。それからゆっくりと起き上がると、本棚の、ねじの入った瓶が見つかったあたりを探した。
本を何冊かずつ棚から取り出してはその奥をのぞきこんだ。その段にないと別の段を探した。そして、彼女はついに見つけた。一番下の段の奥に入り込み、忘れられた小さな銀色のねじを。
彼女は机の引き出しを開けた。そこには夫の使っていた眼鏡が入っている。ねじがゆるんでどこかにいってしまったとかで、右のつるがはずれたままだ。それをそのまま器用にかけていた姿を思い出す。
「眼鏡屋に行って修理してもらえばいいのに」と言っても「いいんだ」と言ってたっけ。
──あなたのご主人は変わった人でした。
ほんとに、と彼女は思った。
【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
http://midtan.net/
http://koo-yamashita.main.jp/wp/
最近Facebookでツクシの話題が出ていたので、「そういえば以前は近くにツクシがいっぱい生えてるところがあったんだけど……」と思った。子供のころは大阪市内のごちゃごちゃしたところに住んでいてツクシとは縁がなく、今住んでいるニュータウン(オールドタウンと言われるが)に越してきて、あちこちでツクシの群落を発見したときは感動した。
しかし、それから約20年。ニュータウン内でも引っ越したし、今の団地の付近では見かけないよな……ごく近くに数十本程度生えていたりはするが……と思いながら歩いていると、ぎっしり生えた法面発見! しかも図書館のそばの、しょっちゅう通るところじゃないか。またしても「見ようと思わなければ見えない」という例だ。ほんとに、もー。