ショート・ストーリーのKUNI[195]私は象だった
── ヤマシタクニコ ──

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あの日まで私は象だった。

今にも雨が降りそうな曇り日で、動物園は人がまばらだった。アカシアの白い花があるかなしかの風に揺れ、どこからか屋台の油のにおいがした。

私は5歳で、まだ子どもだった。体高は2メートルもなかっただろう。両親と私との象3頭にあてがわれた、コンクリートの空間の狭さもまだわかっていなかった。

誰かに見つめられていると感じ、私は目で探した。すると小さな女の子がフェンスの向こうから私をじっと見ていた。さらに小さな男の子がそばにいたのを覚えている。

私は女の子のほうに近づいた。私たちはフェンス越しに見つめあった。

──私、つまらないの。

女の子は無言でそう語った。私も無言で答えた。

──どうして? 何がつまらないの?

──すべてよ。学校も家も。つまらない授業、つまらない食事。つまらないママ、つまらないパパ、つまらない先生、つまらないテレビ。

離れたところできいっ! と、鋭い声がした。熱帯の極彩色の鳥たちだろう。私は首をめぐらし、それから女の子を見つめなおした。私は彼女の目にどんなふうに映っていたのだろう。女の子は言った。

──あんたになってみたい。

──私に? どうして?

──人間であることがつまらないから。あんただって、象でいることがつまら
  ないと思うでしょ。

──よくわからない。

──あたしは象になる。あんたは人間になるの。おもしろいじゃない。

──わからない。でも。

──でも?

──どっちでもいい。

女の子は笑った。次の瞬間、目の前がものすごく明るくなった。アカシアの花が、枝ごと大きく、ぐわんぐわんと揺れた。周りで何人もの人が声をあげた。





気がつくと私はベッドに寝かせられていた。私は意識を失っていたらしい。目を開けると周りの人間たちが安堵の笑みを浮かべた。私はすでに人間の女の子になっていた。5歳。同い年だった。


あの日まで私は人間の女の子だった。いまは象だ。

私は象の両親とともに、動物園の園舎で暮らしている。私は毎日、ただ食べて、排泄して、そして眠る。日増しに体が大きくなっていくのを実感しながら。分厚い、しわの寄った灰色の皮膚を飽くこともなく見つめながら。

私が人々の前に姿を表すたび、歓声があがる。

「かわいい!」

「まだ小さいわね!」

「でも、鼻は長い」

「さくらちゃーん!」

私はさくらという名前だ。

私は人気者だ。

両親は時折私を疑うような素振りを見せる。本当に自分の子供かどうか確かめようとでもするように、体をすりつける。そのことを除けば、私はまずまずの日々を送っている。


私は人間の女の子、よし子になった。両親と2つ下の弟とともに暮らしている。私は彼女の言っていたつまらない学校に通ってつまらない授業を受け、つまらない家に帰ってつまらないママやパパにその日あったことを話す。

でも、これがつまらない日々なのかどうか、私にはよくわからない。

「お姉ちゃん、楽しい?」

弟がある日、私に聞いた。私は何気ない風を装って答えた。

「まあまあね」

「つまらなくないの?」

「うん」

私が答えると弟は言った。

「象だから?」

私は答えなかった。


毎日はあっという間だ。私は学校に通い、一年生から二年生になり、三年生になり、やがて中学生になり、高校生になり、大人になった。弟は私が20歳のとき、交通事故で死んだ。私はほっとした。

象は人間とほぼ同じ寿命だといわれる。だとすると、私たちは同じころに大人になり、その後同じように老いていったのだろうか。

私が大学の同級生から結婚を申し込まれ、断ったとき、彼女──象のさくら──はどうだったろうか。

私がその後平凡な男と同居してまた別居し、親を亡くし、一人で人生を歩んでいたとき、彼女はどうしていただろう。

彼女はフェンスに囲まれた狭い象舎で来る日も来る日も大勢の人に見られながら過ごしていたはずだ。それは「つまらない日々」ではないのか。


私たちは中年と呼ばれる年齢になった。ある日、私は新聞記事に象のさくらを見いだす。それは「読書好きの象」という見出しだった。

──◯◯動物園の象、さくらは飼育員の本田さんに本を読んでもらうのが大好きだ。さくらは今年、推定年齢48歳だが、10年ほど前に父親と母親が相次いで亡くなり、現在は「一人暮らし」である。

本田さんはそんなさくらが寂しいのではないかと考え、さくらのそばで本を読むことを始めた。さくらはおとなしく聞いていて、気のせいか表情が穏やかになったようだった。

本田さんは次から次へとさくらの喜びそうな本を象舎に持ち込んだ。今では、読書タイムは本田さんとさくらの大事な時間になっている。さくらが最もリラックスするのは心理学や哲学の本を読んでやるときだそうだ──


私はひさしぶりに動物園に行ってみた。たった一頭の象のためには屋外運動場は広すぎるように見えた。

彼女はすぐ私を見つけた。私は声をかけた。あの日のように。違うのは、子象だったさくらが見上げるような堂々たる象になっていることだ。その足で踏まれたら、鼻で打たれたら、私はひとたまりもないだろう。

──ひさしぶりね。

彼女は軽くうなずいた。

──いま、時間というものについて考えていたところよ。

──時間?

──そう。時間とは何かということについて。

──そんなことを考えてどうなるの。

──どうにもならないわ。あなたにとっては。

私は不愉快になった。

──48歳の象であることはどんな気分?

──年齢にたいした意味があるとは思えないけどここでの暮らしは悪くないわ。

──うそばかり。

──何より自由に思索を楽しむ時間があるもの。あなたはどうなの。

──私は人生を楽しんでいるわ。人間になってよかった。あなたには感謝しているわ。

──それはよかった。私もあなたに感謝しているわ。こうして象になったこと。

──こんな狭いところに閉じ込められていても?

──閉じ込められてなんかいないわ。もし私が閉じ込められているとしたら、あなただって同じよ。


さらに10年が過ぎた。私たちはそれぞれ年をとった。さくらに本を読んでやっていた本田さんが死んだことは新聞記事で知った。後任の飼育員が後を継いだが、慣れないので本田さんほど多くは読めないでいる、とあった。

私は一人暮らしのまま年をとった。長年勤めた会社はもうすぐ定年になるが、働かなくては生きていけないから、どこか働き口を探すことになるだろう。

子どもはついに持たないままだったが、それでよかったと思っている。一人でも生きていくのが精一杯なのだ。

私は時折想像する。象であった私が生まれた土地はどんなところであったか。インドシナ半島の奥地がどのようなところなのか。

私は、一体なにものなのか。

10年ぶりに動物園に行った。さくらはすっかり「おばあさん象」として知られている。肌はつやを失い、動きは緩慢になっている。だが、私を見つけると巨体を揺らしながら近づいてきた。私は話しかけた。

──元気そうね。

──まあね。

──相変わらず思索を楽しんでいるの?

──ええ。あなたはなんだか顔色が悪いわ。

──気のせいよ。特に悪いところはないわ。

──ならいいけど。

象はふと目を伏せ、それから言った。

──最近、私はあなたに悪いことをしたような気がしてるの。


──何ですって?

──あなたはあまり幸福そうじゃないから。

──大きなお世話だわ。これは私が選び取った生き方よ。

──そうよね。あの日、あなたはどっちでもいいと言ったのよね。

象はかすかに笑い、言った。

──でも大変だったでしょ。人間のふりをするのは。

私は胸の内がざわざわするのを感じた。

──あなただって象のふりをするのは大変でしょ。

象はうなずいた。私の口から、堰を切ったように言葉があふれた。

──私はいろんなことを経験したわ。短い期間だったけど教職にも就いた。工場で働いたこともある。スーパーでお客に罵倒されたこともある。髪をつかんで引きずり回されたこともある。

でも、何人かの男は私に「君はかわいい」と言ってくれた。いとしくてたまら
ないというように、震える手で私の体をなでてくれたわ。私を抱きしめてくれたわ。

それから私は学校の成績だってよかった。絵をほめられたこともあるわ。友達だって、たくさんいるわ。

──すばらしいことね。あなたがそれで満足しているなら。

私は唇をかんだ。

象は深いしわの中に埋もれそうな瞳で私を見つめたまま言った。

──私たちって、とても不思議な関係ね。私の中にはあなたが人間になる前の記憶が残っているの。あなたはとても美しい土地で生まれた。

インドシナ半島の濃密な湿度を保った空気の中で。森の中で見上げた空は真っ青に輝いていた。黄色い水を満たした大きな川が、それはそれは悠然と流れては海に注いでいくの。

──私の中にもあるわ。あなたが象になる前の記憶。工場の音が聞こえる長屋の一角で過ごした日々。薄い壁を通して聞こえてきた隣家の母親の四国なまり。焼きとうもろこしの味。私は経験していないのに。

──私たち、仲良くしなくちゃいけないわね。

象は微笑んだ。

私は、バッグから包みを取り出した。表面をおおったラップを広げ、その中の
ケーキを手に持った。前の夜、自分で作ったものだ。

──あなたのために作ってきたの。

フェンスの隙間からケーキを差し出すと、象は一瞬考え込むような表情になった。それから、了解したとでもいうようにうなずき、長い鼻でケーキを受け取り、口に持っていった。そして、ゆっくりと咀嚼し、飲み込んだ。

数分後、象はその場に崩折れた。

私は飼育員が血相を変えて象のもとへ走っていくのをぼんやりと見ていた。象舎の周りは騒然となった。誰かが私の腕をつかんだ。この女だ! この女が何かを象に与えるところを俺は見た! この女が、象を殺した! 

パトカーのサイレンが聞こえた。私はただじっと立っていた。

そのとき、水がしみるように私の脳裏に広がっていったのはインドシナ半島の奥地の青空であった。その青空のなんと美しいこと。私は人間であり、私は象であった。私は閉じ込められているし、私は閉じ込められていない。私はとても幸福で、とても不幸であった……。


【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
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最近朝ドラを見ては文句ばかり言ってる困ったおばさんの私だが、ここ数日で耐えられなかったのは主人公が白いブラウスにベストという服装で、周りの人たちの服装をみても冬とは思えない季節……なのに「首に分厚い手編みのマフラー」を巻いていたこと。

暑がりの私は想像しただけで汗がにじんできそう。暑っ。あり得ない。いくら大事なマフラーでも、いや、大事なマフラーならなおさら、しまっておくじゃないですか、汗まみれになったらいやだから。

ま、暑がりで寝るときもついつい薄着したせいで(たぶん)風邪をひいてしまい、前回休載した私も、あれですけど……。