ショート・ストーリーのKUNI[208]そしてまた春が来る
── ヤマシタクニコ ──

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毎年春になると区役所から書類が届く。それは春にふさわしく品のいい薄紫の封筒に入っているのだが、それを見ると彼女はいつも、ほっとするような落ち着かないような、なんともいえない矛盾する気持ちになった。

いや、そんな気持ちになるのは彼女だけではなかったろう。それは年に一度、一定年齢以上の人々に決断を迫るためのものであったから。

今年はどうする。更新するのか。それとも。

55歳になったすべての住民の脳に、チップが埋め込まれるようになったのは何代か前の政権のときだったが、以後の政権もそれを継承している。

高齢者が増えることによる福祉予算の増大を食い止めると同時に、労働人口の減少を補うための施策として導入された。

チップは脳の老化を防ぐものであり、毎年更新される。最寄りの保健所で受けられる程度のほんの簡単な処置で、身体的苦痛はほとんどないといっていい。

ただし、更新費用がかかり、それは働いている人間は給与から、年金生活者は年金から天引きされる。平均的な所得の場合で10〜20%。健康保険料や税金もあわせるとけっこうな負担だが、65歳までは強制的に更新される。でも、それ以降は任意だ。





「どういうことなの? あたしたちコンピューターじゃないわ」

「だいたい本当に効果はあるの?」

「老化防止だなんて言って、ほんとは私たちを自分たちの都合のいいように操ろうっていうんじゃないの?」

「いやいや、実際は何も処置しなくて金だけ取るんだよ、きっと」

賛否両論が渦巻いたのも当初だけで、だれもよくわからないまますでに制度は「普通のこと」となりつつある。更新を続けていればとりあえず脳の老化はストップできる。進歩はなくとも。

新しい技術や変化への対応もスムースにでき、増え続ける事故を減らすこともできる、といわれる。だが、そういったことがどのように公正な手続きで検証され、そして結果が公開されているかは疑問だ。

彼女と夫は現在68歳だ。今年69歳になる。「任意」となった最初の年──66歳になった年は、ほぼ迷わず更新を選んだ。翌年は少し迷ったが、更新した。その翌年──去年──はかなり迷って、結局更新した。

「この間、学生時代の友だちに会ったの。『更新しない』を選んだ人がけっこう多くて驚いたわ」

「更新費用もばかにならないから、それもありだな」

「まだ現役で教師をしている人がいて、彼女はもちろん更新したらしいけど」

去年の春の、そんな会話を思い出す。

「更新しなかったらどうなるのかしら? 急にばかになるのかしら、私たち? 急に老け込むの?」

「そんなこともないと思うが…わからない」

更新をやめた友人のうちのひとりと、最近スーパーでばったり会った。別に変化はないと思った。だが、会話の途中で彼女がふと考え込むような仕草をしたり、何かが思い出せずほんの短い間いらいらしていると、それはもしやと考えてしまう。

考えすぎだ、きっと。でも、考えずにはいられない。急に体調を崩して以来ずっと寝込んでいる友もいたが、更新しなかったことと関係あるのかどうかわからない。

彼女は春の初めが一年のうちで一番好きだ。風景から冬の緊張感がなくなり、木々は葉を落としたままなのにどこかもやのような柔らかさをまとう。ささやかだけど新しいことがいくつも起こりそうな予感に満ちて。

そんな季節がいつの間にか更新の季節になってしまったことが、なんだかくやしい。

去年の秋、夫がいつになく真剣な表情で「更新のことだけど」と切り出したとき彼女は少し身構え、続く言葉を待った。

「更新だけど、来年は辞めておこうか」

彼女は小さくうなずいた。

「ぼくももう仕事はしていない。町内会の役員はしてるけど、たいしたことない。たぶん…だいじょうぶじゃないかと思うんだ」

「ええ、きっと」

「それより、更新のために天引きされるはずだったお金で旅行でもしないか。そんなに遠出でなくてもいい。ふたりでいまのうちに楽しむのもいいんじゃないかと思う。ああ、もちろん、旅行とは限らない。

しゃれた店に入っておいしいものを食べるのもいい。歩きやすい靴を新調してもいい。そうだ、君はミュージカルが好きだった。一緒に観に行こうか。今まで先延ばしにしていたことを全部、しよう」

彼女はええ、ええ、とうなずいた。

「年を取ると衰えるのは自然なことだ。そのことを受け入れるのはつらいことだが…もういいかなと思うんだ。君さえよければ」

「いいに決まってるわ。ふたりで年を取るのは理想だもの」

彼女はうれしくてすでに涙ぐんでいた。不安がないわけではないが、ふたりなら心強い。友人達もきっと祝福してくれるだろう。「仲が良いのねえ」とうらやましがられるだろう。

来年からは自然のままに生きるのだ。無理して脳だけ──それも所詮一部の機能だけだ──若く保っていてもそれが何だろう。どこかで受け入れるしかないのだ。

そして春になり、薄紫の封筒が届いた。封筒の中には例年と同じくシステムについての説明と、「更新停止申請書」が入っている。申請書を出せば直ちに停止手続きが進められる。もう保健所に行かなくていい。

何もしなければ更新希望とみなされ、更新案内が別便で来る。彼女は封書が届いたことを夫に告げ、とりあえず引き出しにしまった。

2週間後、書類のことをすっかり忘れていたことに気づいた。

「ねえ」

声をかけると夫はうん? と顔を向けた。

「申請書をそろそろ書かないといけないわ」

夫は黙って手元の本に熱中しているふりをした。聞こえてないのかと思って、彼女はもう一度、遠慮がちに声をかけた。

「申請書…書かないの?」

夫は、ごく小さな咳払いをした。それから言った。

「あれは、ふたり一緒じゃなきゃだめなのかな」

「え?」

何を言ってるのだと思った。少し時間をかけてようやく、夫が更新したいと思っていることがわかったが、彼女はきっとぽかんとした顔をしていたろう。

数日後、たまたま図書館に寄った彼女はそこで夫を見つけた。閲覧コーナーで見知らぬ女と並んで座り、談笑する夫。

手に持った雑誌はほとんど忘れられ、視線は女の顔に釘付けになっていた。女が笑うと夫も笑った。彼女が見たこともない顔で。

女は彼女よりたぶん20歳以上若かった。何の説明もなくともわかった。夫がその女のために「更新」を決めたのだと。

急に彼女はその女をしばしば目にすることになる。事実はそうではなく、それまで見えていなかっただけなのだ。夫はいつもその女と一緒にいた。どうして気づかなかったのかと自分の間抜けさにあきれるほどだ。

そういえば、わざわざ外に出て電話をしているときがあったが、別に何も思わなかった。デパートのスカーフ売り場で珍しく足を止めたときは自分のためのプレゼントを考えているのかと思ってうれしかったが、その後スカーフをプレゼントされたことはなかった。

「ごめん、外で食べてきたんだ」と遅くに帰ってきて、夕食を食べなかった夫を疑うこともしなかった。自分はどんなに滑稽にみえていたことだろう…。

「豪華寝台車で行くふたり旅。窓外に広がる大パノラマ!」「昔ながらの温泉町。小さくとも旅情豊かな旅。たいせつな人と」「こんな世界は知らなかった! さあ発見と体験の旅へ! シニアの方でも安心のアウトドアライフ7つのコース」

旅行代理店でもらってきたパンフレットを広げるのはそれだけで楽しい。すべての旅がいますぐに実現しそうな気がする。スーツケースを買わなくちゃ。しわになりにくいワンピースも一着ほしい。それらのものについて調べる作業も苦にならなかった。

「楽しかったね」「また行こうよ」旅を終えたあとの言葉まで想像していた。でも、もういい。彼女はパンフレットを古新聞のラックに移した。

春の初めのもやのかかったような風景が次第に明瞭になり、あちこちに木の芽が芽吹いて彩りを添え始めたころだ。

駅前に買い物に出た彼女の耳に「いい加減にしてください」という強い調子の女の声が聞こえ、はっとする。

それは駅前ロータリーの上にかかる歩道橋から、下に向かう階段を下りようとしていたときで、声は階段の下から聞こえた。銀行やカフェが並ぶ一角で多くの人が行き交うあたりだ。

思わず足を止めると階段の下から女が飛び出し、後を追う男の姿が目に入った。

「そうじゃないんだよ」

男はそう言いながら、なおも追おうとして足がもつれ、転んだ。かぶっていた帽子が脱げて、ころころと転がる。それは夫だった。

彼女は階段の上で凍り付いたようにそれを見下ろしていた。何人もの人が夫を見ていた。夫が膝をさすりながらゆっくりと立ち上がったとき、女はもうどこにもいなかった。


それから何日かして、夫が言った。

「申請書は…どこだっけ」

「申請書?」

「そうだよ。あの申請書…もう間に合わないか?」

「間に合わないことはないけど…」

期限までまだ一週間ほどあった。

「申請する気になったの?」

「うん。元々そうしようと言ってたしね」

夫は彼女を見ずに言った。年寄り臭い声、と彼女は思った。図書館で女と並んでいたときの夫はとても元気で、肌さえ輝いてみえたのに。

「そうだったわね。でも私、なんだか申請する気がなくなっちゃった」

彼女は、はははと笑った。

「今年はとりあえずそのままにしない? また来年考えればいいじゃない」

「それでいいかなあ」

「ええ。だいじょうぶ。旅行はいつでも行けるし。旅行に行かなくても、毎日楽しいことはたくさんあるわ」

「そうか。そうだな。それも選択だ」

彼女は女の顔を思い出そうとするがよく覚えていない。走り去った後ろ姿だけが目に焼き付いている。


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先日、用があって、私にとって超早起きの6時40分起き。外はまだ薄暗くて、それがみるみる明るくなる様に「おおっ」。窓ガラスの結露は少しだけで「今日はたいしたことないな」と思ってたが、8時頃にもう一度見るといつもくらいびっしょりついていた。なんと、結露は夜が明けてからつくものだったんだ(発見1)。

その用が昼頃に終わり、帰宅前にパン屋さんでパンを買う。喫茶コーナーもあるが、いつも夕方に買いにいくと誰もいなくて「この店、こんなのでだいじょうぶなんだろうか」と思っていた。ところがお昼頃は満席、奥様方で大にぎわい。パンの棚もいろんなパンが山盛りで「え、こんなに種類があったんだ」とびっくり(発見2)。私の知らない世界がここにっ。