ショート・ストーリーのKUNI[219]私たちには過去が多すぎて
── ヤマシタクニコ ──

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100歳の男性がインタビューを受ける場面に居合わせたことがある。

男性は次々に繰り出される質問に眉をひそめ、苦しそうに顔をゆがめた。高齢だが頑健な体を持ち、耳が少し遠いくらいでふだんは会話もふつうにできる。

その日は体調があまりよくなかったようだ。質問の意味は当然わかっている。その答が自分の脳内にあることも。だが、探せない。確かにあるのにそこにたどりつけない。

そのことが悔しくて、男性は何度も「あー」と、言いかけてはやめることを繰り返した。

人間の記憶はどうなっているのだろう。





脳内には過去の記憶がちゃんと保存されている。なくなるわけではない。でも、年をとったり病気になったりすると、それらが収納されている部屋の扉が見えなくなるようなものだと、どこかで読んだことがある。

私はたまらなくなり、ああ今すぐ自分が「ミクロの決死圏」みたいに極小の存在になってこの人の脳内に入れたら! と想像した。

そうしたら私は、あまりにたくさん詰め込みすぎて、倒れたり重なったり中身が散らばったりしている記憶の引き出しや収納ケースを片っ端から直していく。

想像の中の私は、きっと運動神経抜群で腕力もある、ワンダーウーマンのような存在。だから、だいじょうぶ。たちまち私は、目当ての記憶を探し出す。あった。

「ほら、ここよ!」私が脳内で呼びかけると、しわに包まれた男性の眠たげな目はぱちんと見開かれ、自分の頭の中が久しぶりにすっきりと、避暑地の空のように晴れ渡っていることを感じるだろう。

ああ、さっきはどうも失礼しました。ちょっと気分が悪かったのですが、もう治りました。さて、ご質問にお答えしましょう……男性はすらすらと答え、インタビュアーは満足するだろう。

だが、実際はもちろん、そんなことは起こらなかった。きょうは……わかりません。100歳の男性は悲しそうにつぶやき、付き添いの女性が申し訳なさそうにごめんなさいねと言う。インタビューは中断された。


私はまた、最近記憶力を保つための薬が発売されたというニュースを知る。説明を読めばそれはおよそ画期的とはいえない、気休め程度のものに思える。だが、私の妄想はふくらむ。

将来は、どんなにため込んだ記憶もきちんと脳内に整理・保存され、必要に応じて瞬時にファイルが展開される。そんな薬が普及するかもしれない。


空想の中の私は駅に向かう道を歩いている。セミが鳴いている。三日前に道ばたのセミの死体を踏みそうになったことを思い出す。一昨年、初めてこの街でクマゼミではない、ミンミンゼミの声を聞いたことも。

もっと前のある日は、セミがベランダで死んでいるのを見つけて、突然、それを描きたくなった。私はそれを紙にそっと載せ、目の前に置いて鉛筆で詳細にスケッチした。

微動だにしないセミの死体から、死体特有の気がひたひたとしみ出て、押し寄せる。私の指先はぶるぶると震え、でも描くことをやめられなかった。

それより前、うんと昔の記憶も鮮やかによみがえる。同級生の女の子のカバンにセミがとまっていた。すでに弱っていたセミは、ついにカバンの中にぽとりと落ちた。女の子は家に帰ってカバンの中のセミを見つけて驚くだろうと思いながら、私は黙っていた。

それよりさらに前、まだ学校にも行ってなかったころ。近所に住んでいた同い年の男の子がセミを捕って私にくれた。おもちゃだと思った私は、それが急に動き出したので驚いて泣き出した。

男の子も驚いて困ったような顔をした。祖母が私を抱きしめ、背中をぽんぽんとたたいて言った。こわくない、こわくない。セミはすぐに死んでしまうおとなしい生き物なの……。

そんなことはほとんど忘れていた。今は、私はいくらでも記憶をさかのぼることができる。薬の効果で。すっかり忘れたわけではないがおぼろになっていた記憶も、驚くほど鮮明に浮かび上がってくる。


「最近、すごい薬ができたそうね。でも私は使う気がしないわ」
友だちが言う。
「そうなの?」
私が言うと友だちは、当然じゃないのと言わんばかりに

「この年になればどんどん忘れるのが当たり前よ。自然に逆らってどうするの。若い人──現役世代なら仕事上の必要もあるでしょうけど、私達には不要よ」

「そうかしら。過去がきちんと整理されたら、新しいことにもチャレンジしやすくなるんじゃない」

「新しいこと? まじで言ってるの? あなたはいつも前向きなのね」

友だちはばかにしたように言う。

「私はもういいわ。新しいことなんて」

そして、こうも付け加える。

「あなたは自分が常に進歩的な側に立っているつもりなのね。いい気なもんだわ」


薬を飲んでいることは周りに知らせていない。その友だちに限らず、冷ややかにみる人は多いだろう。その気持ちはわからないわけではない。

いま、私の頭の中には美しい画像つきの膨大な量のデータが保存されていることがリアルに感じられ、薬を飲み始める前より頭がずっしりと重くなったような気がする。

元々あった記憶なら量的に変わらないはずなのに。ものを整理すると闇雲に詰
め込んでいたときより広いスペースを取ってしまうことがある。それにに似た
ようなものだろうか。それとも単純に、私の年齢ではこの薬に耐えられないと
いうことか。過去が多すぎて。

ターミナル駅そばのビルに入る。そのビルで最も広い面積を占める書店に入る。

本はネットで購入できるし図書館もネットで予約できるが、リアルの本、それもぴかぴかの新しい本がずらりと並んでいる様子は何よりも美しくてうっとりする。そして、いくつもの記憶のファイルがどんどん展開される。

去年たまたま来たときは、リニューアル工事で閉店していた。その前に来たときは文庫本を一冊買った。若い時に読んだ好きな作家の本が文庫化されたのだ。レジの店員は無愛想だった。その前に来たときは何も買わなかった。何も買わなくてもふらりと立ち寄るときがある。

そう思うと、30年ほど前のシーンが浮かんだ。それほど好きでもなかった男と「6時に雑誌コーナーで」と約束したのに急にいやになって、すっぽかした。

翌日「2時間待ったのに」と電話がかかってきたけど、その電話も途中で切ってしまった。携帯なんかない時代だとはいえ、よくあんなことをしたものだ。

ついこの間のことのように立ち上がる記憶に、がくぜんとする。男はその後も何回か電話してきたあげく「覚えていろよ」と言った。その声音がなまなましく耳元に響く。

その男のことはすっかり忘れていた。自分がそんなことを忘れていたこと自体、信じられない思いだ。胸元がぞくりと冷える。

苦い記憶を遠ざけたくて、私は書店を離れ、同じフロアのカフェに入る。半分くらい席が埋まった店内を見渡し、隅の席に座る。

なんとなく古風な店の雰囲気に押され、夏だというのにホットココアを注文してみると、やがて運ばれてきたココアは予想通りたっぷりとクリームがのせられたもので、私は少し気分が良くなる。

そして、スプーンでクリームをすくっていると、ふと斜め前方のテーブルの、こちらを向いて座っている男性に惹かれた。

どうってことのない男だ。白髪交じりの頭髪から私と同じくらいの年代と思える、カーキ色の綿のシャツの袖をまくり上げて、コーヒーカップを右手に持ちながら視線はテーブルの上に置いた何かの雑誌に向けられている男。

特にハンサムでもなく、特に目立つ服装をしているわけでもないのに、なんだか好ましく思えた。そう思っていると、その男が顔を上げた。目が合った。

私は、その目から、相手もまた私のことを好ましく思うだろうと確信した。思わず軽くほほえみかけ、するとそのとき頭の中でぱらぱらと記憶のファイルがめくれる音がする。

「ねえ、あんたとあの人、どういう関係? ほら、あの暗い人」

バイト先の友だちが私に聞く。私は大学生で、役所の退屈なアルバイトをしている。偶然、彼が同じ役所でバイトをしていると知ってびっくりした、その後のことだ。

「全然。どういう関係でもないよ」

「そうなの? なんだかすごく親しそうだったよ」

「まさか。私のタイプじゃないもん。『こここれでいいですか』なんて言う人」

彼はほんの少し、会話のはじめにどもるくせがあった。私はそれをちょっと誇張してまねた。友だちは一瞬笑いかけて、その笑いを止めた。短い間が空いた後、友だちは言った。

「そういうまね、するんだ」

そう言われて私ははっとした。だが、もう遅い。

さらにその何年か前、私は高校生で彼も同じ高校だった。

ある日、人数が足りなくて困ってるからとクラスの子に誘われ、私は校内で放課後に行われた「差別を考える」という集会に参加した。もう忘れたけど、政治社会研究会とかいうサークルの主催だ。

座っているだけでいいのかと思っていたら、途中から一人一人順番に意見を述べるという展開になり、焦った。順番がまわってきたときはほとんどパニック状態だったが、落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせ、とても意見とはいえないようなものを途中何度もつっかえながら、ともかく言い終えた。

すると私の隣に座っていた男子が冷ややかに
「もっとしっかりしてるかと思ったら、ただのお嬢さんなんだ」
私が顔を向けると、さらに付け加えた。

「君みたいなお嬢さんばかりだから、世の中から差別がなくならないんだ」

私はそれまで、そんなふうに人前であからさまにけなされたことはなかった。ショックでぼう然とした。それから、悔しさで涙がこみあげてくるのを感じた。

泣けばさらに状況は悪くなると知りつつ、抑えられない。涙がどんどんあふれた。唇をふるわせ、目と鼻を真っ赤にしながら泣いている自分はさぞかし醜いだろう。いますぐ逃げて帰りたい気分だった。

「しし、失礼だと思います、それは」

立ち上がり、どもりながら声を発したのは彼だった。

「彼女は、一生懸命自分の意見を言ったんです。それに、『ただのお嬢さん』という言い方こそ差別的では、ないでしょうか」

私はうれしかったはずだが、自分をみじめに思う気持ちのほうがはるかに強かった。

私の脳内には次々と過去のファイルが展開され、めまぐるしいほどだ。幼なじみの私達には、共有できる記憶はそれだけ多いのだ。

私は何度も彼を傷つけていた。彼に助けられていたのに感謝することもせず、何十年も会うこともなかった。その何十年の間、彼を傷つけたと同じようなことを他の人に、私は繰り返ししてきただろう。

私は最低だ。最低なまま年を取って、まだ自分をわかろうとしない女。それが私だ。

気がつくといつの間にか彼は自分の席を離れ、私の前にいる。すっかり年を取って、でも確かに彼だ。幼い私にセミをくれた、あの男の子。

「君に再び会えるとは思っていなかった」

彼の口調は穏やかで、どもってもいなかった。

「ぼくは薬をのんでいる。君も多分のんでいる、あの薬を」

私ははっとして目を上げる。

「だれだって思い出したくないことはたくさんある。でも、きっと乗り越えられるし、それを良いものに変えていくことができるはずだ。長く生きてきたわれわれだから」

空想の中の彼が言い、空想の中の私はためらいながら、やがてうなずくだろう。いつもそうであるように、希望的観測と楽観に満ちた空想の。


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うちのような郊外の住宅街でもレイドバトルはあるし、ルギアやフリーザーやファイアーも出現するが(ポケモンgoの話です)、人が集まらない。ソロで大物は無理なので、たまにこれならいけそうと思われる小物を倒して「ふしぎなアメ」を手に入れるのみ。都会はいいなあ。