◎虫二題子
「はじまりは大阪、上本町のバー」の記事で、柴田友美さんが紹介していたVOGAの公演、わたしもみてきました。
https://bn.dgcr.com/archives/20171017110100.html
舞台をみるのは好きで、ジャンルを問わずいろいろと行きます。そのなかで、友人を誘っても「いやー、ちょっと」と断られるのが能楽です。実際にみると、いろいろと面白いんですけれど。
能楽関係者はよく、「昔は、謡は社交のための必須教養だったから、旦那衆はみんな一通り習っていたものだ」といったことをおっしゃいます。
そうなんでしょう。ある程度以上の年代の方は、能楽のことをよくご存じです。たとえば星新一。
SF作家としてあまりにも有名な方ですが、そのショートショートのなかにも謡曲に材を取ったものがあります。作品を書くために調べたというのではなく、すっかり身についているものを自然に使った、という感じです。
たとえば、『宇宙のあいさつ』に収録されている「羽衣」は、最初と最後に同名の謡曲が引用されていて、インスパイアされたものであることは明らかです。それから、『ボンボンと悪夢』に収められている「夜の道で」。
──死期の迫った友人を見舞った男が、友人を励ますために「おまえは長生きの手相だ」という。友人が死んでちょうど一年、彼のことを思い出しながら虫の鳴く道を歩いていると「やい、うそつき」と友人の声がする。ふりむいてみても、そこには闇があるばかり──
この「うそつき」という声にはどんな響きがあったか。
想像する声音がどれだけ複雑であるかが、読んだ人の大人度を測るバロメーターになるのではないでしょうか。
そして、わたしは、これは謡曲「松虫」の換骨奪胎だと思っています。
──阿倍野の市に、友と連れ立ってきては酒宴をする不思議な男がいた。ある日、酒売りが彼を引き留めて話をするうちに、男は、昔ここであったことを語り出す。二人の仲の良い友人が歩いていると美しい虫の声がした。一人がそれに惹かれ聴きにいったが、そのまま死んでしまった。残されたもう一人は嘆き悲しんだが、もう、どうしようもない──
その男も幽霊で、酒売りの供養に感謝し、友を偲び酒を讃え、謡い舞って、消えてゆきます。あとには虫の音が残るばかり。
死ぬ時は一緒と思い定めていた相手の死を嘆き、実際にあとを追って死んでしまった男の話を、「友情の物語」としれっと書いてある解説書もあります。わたしなどは、なんとしらじらしい、と思ってしまいます。
関係は友達だったかもしれないが、気持ちは友情なわけないだろ、という確信の強さは、その人の腐女子度を測るバロメーターになるかもしれません。
「松虫」と同じく、虫の名前がタイトルになっている曲に「胡蝶」があります。
──梅の花を眺めている僧に、女が声を掛けてくる。実は彼女は蝶の精で、自分が生まれる前に咲き、散ってしまう梅に逢ってみたくて来た。回向を頼んだ蝶は、その夜の僧の夢のなかで美しく舞う──
この蝶は女性です。
衣装や舞の種類を考えれば、女性でなければならないということはわかります。ただ、この恋のしかたは女らしくない気がします。満ち足りた現在の関係を捨てて、まだ見ぬものを求める、というのはあまり女らしくない。
少女マンガなどによくあるように、女が他のものを捨てるのは、「忘れ得ぬ想い出の人」か「一目で運命だとわかった相手」の場合です。未知のために今手にしているものを捨てるというのは女の恋のしかたではない。
ということで、胡蝶をモチーフにわたしが書いた超短編はほんのりBL風味です。これまでにそれを指摘した人はいません。
◎早春賦
目覚めると世界は花盛り。
花に戯れ、梢に遊ぶ。わたくしはすべての花に望まれる奢りのなかに生きておりました。けれどある日、教えられたのです。
──この世にはわたくしが見たことのない花がある──
完璧な六角形の姿をしながらひとつとして同じ形のものがないというこの花に、わたくしは決して逢うことがないのだ。皆が美しいと褒めそやすこの身のことも、この花は知らぬ。千の花と遊び、万の花と契りを交わしても、ただ、この花だけは見ることもない。いっそ百花とともにすべてを捨てて魂だけになってしまえば。
そうしてここに参ったのです。
──それ、能の「胡蝶」だろ。六花じゃなくて梅だし。
──うん。でも、さすがに梅もまだ咲いていないからね。
茶碗から音を立てて甘酒をすすると、縁側につづく腰高障子のほうを見ながらそう言った。視界の隅にひらひら羽ばたく薄い影が見えるのには、ぼくも気づいていた。数えるほどしか雪の降らないこの地方でたぶん最後の、雪が降っている。
落ちてくる雪とは明らかに動きの違うその影は、暮れていく風景の中でかえって明るさを増していくようだった。
ぼくは立っていって障子をあけた。座敷に入ってこないかなと、入ってくればいいなと思ったのだが、淡い光は空気に紛れるように溶けて消えた。
【松岡永子】
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