最近、新聞の夕刊に載ってた柴崎友香さんのエッセイを読んでて、かなり親近感を持ってしまった。
──乾燥きざみ揚げ、というのを買ってみた。味もついていて、みそ汁や煮物にそのまま入れるだけ。常温保存可能。めちゃめちゃ便利。作った人にありがとう。わたしは菜っ葉類に揚げを入れてたいたのさえあればごはんはそれでいいので、思い立ったときに少しだけでも作れるのはほんとうに助かる。……(朝日新聞6月18日)
ああ、よさそう。その乾燥きざみ揚げというやつ、私もほしいなと思った。まだ探してないけど。菜っ葉という言葉もなんだかなつかしい。
子どものころは、お菜っ葉(たいてい「お」をつけたような気がする)の炊いたんはそれほど好きでなかったけど、大人の今はかなり好き。炊きたてのごはんにあうのは間違いない。
同じエッセイの中には「一つの鍋に順番に入れていけばできるもの、レシピが覚えられる範囲のものしか作らない。」ともあるので、柴崎さん、あんまり料理しない人なのかなと思って、ますますうれしい。
それは私が最近になって、いい年をしてやっと、自分が料理下手で、それどころか料理に向いてない人間だということを自覚して、何だか楽になったからだ。
もっとはっきりいえば、そもそも自分は料理に興味がなかったな。食べることにもあまり興味がなかったなーと思うのだ。でも、人間はだれでも食べるし、食べないわけにはいかないし、自分だっておおいに興味があるんだ、と思おうとしていたのだ、長年。
──ふふ、少し前の愚かな私よ。そうじゃないんだよ。食べることが好きだとか料理が好きだとかいう人種の、その「好き」はお前の「私だって興味がある」とはレベルが全然違う。
話にも比較にも例示にもならない、プロとアマ、自転車に乗れるようになったばかりのがきんちょと競輪選手、鍵盤にドレミをカタカナで書いたピアノで練習してる人と辻井伸行くらいの差があるんだぜ……。ちょっと言い過ぎかもしれんがな。……
お、大きなお世話だ。いいのだ。自由に生きるためには、まずおのれを知る必要がある。私はここから出発するのだ。料理下手。食べることにそんなに興味ないもーん。悪いか。
そういえば、それより何か月か前には、同じ朝日新聞の同じ欄(女性作家が交替でエッセイを書いているコーナーなのだ)で津村記久子さんが書いていた。
──よく食べるくせに、毎晩の食事を決めるのがすごく苦痛だ。お昼はコロッケかにゅうめんと割り切っているのでまったく平気だけれども、夕食はある程度手をかけられて楽しみな分、自分のわくわく感が自分で重い。
夕方、散歩ついでの買い物の道中で、スーパーマーケットまでえんえんと『何が食べたい?』とぶつぶつ言っていることさえある。そのくせ、まったく何も食べたくないという日もある。
それで一食抜いたら夜中に空腹でひどい目を見ることは自分でもわかっているので、無理に何かを買いに出て食べる。この、無理やり食べるものを考えなければならない状況もきつい。……
ああ、ものすごく親しみ感じる。自分が書いたような気さえする。津村さんは別の日にも
──料理はするけれども、食器を洗うのが嫌いな方だと思う。週に四日ぐらいは自炊しつつ、どうしても今日は食器を洗いたくないという日は、外食をしたりお弁当を買いに出たりする。……
と書いているので、やっぱり近いものを感じる。いいなあ。この、どうでもいいことをだらだら書いてる情けなーい感といい、まったく私だ。いやされる。
しかし、食べることにはけっこう興味ある人みたいだ。でないと外食なんかしないよね、わざわざ。
この人は「だれかかわりに料理してほしい」と思ってるだけかもしれない。まあそれでもいいか。私だってだれかが作ってくれるのなら毎晩わくわくして食べたいもの考えるよね。
一方で、最近「波」(新潮社のいわゆるPR誌の)では阿川佐和子さんの「やっぱり残るは食欲」というタイトルのエッセイが連載中なのだが、食べることに超貪欲でかつわがまま、怒ると超コワイお父さん(阿川弘之)のもとで育ったせいで(遺伝もありそうだが)、さすがに食生活の充実っぷりがすごい。
食材に関する知識も、料理のレパートリーもむちゃくちゃ豊かであることがわかって毎回、「格差」を痛感させられるのだ。
「作りおいた牛すね肉のポトフにココナッツミルクを入れて」とか「母がよく作ってくれたクリームコロッケが」とか「オックステイルシチューが」とか、父が満足できる「かつお節弁当」を持たせるために日本橋のにんべんに鰹節を買いに行くとか、それらのひとつひとつは今の時代、真似できないこともないのだろうけど、バックグラウンドの奥行きや広さが垣間見え隠れするようで、読んでいてくらくらしてくるのである。
時には謙虚に「私はなんといっても『簡単!』に敏感である。どんなにおいしい料理でも『けっこう面倒くさいの』と言われるとたちまち萎える。」なんて書いてたりするが、ここで油断してはならない。「簡単」のレベルが違うんだから。
刺身こんにゃくを切って酢味噌をかけるだけとか、水茄子を切っただけという居酒屋のお通しみたいなものを連想していたら、えらい目にあう。だいたいこのときに取り上げていたメニューは、レンズ豆の煮込みだ。レンズ豆。レンズ豆って……そこでもうどぎまぎする私なんかお呼びじゃないのだ。
何せ、学生時代には父親に夜、突然マルティニとオードブルのサンドイッチを用意させられることがちょくちょくあったそうで、すると佐和子さんは早く自分の部屋に戻りたいと思っていてもがまんして「パンを薄ーく切って、キュウリを薄ーく切って、ハムを薄ーく切って、パンを軽くトーストしてバターを塗って、からしも塗って」マルティニは「シェイカーとか道具を全部揃えて、グラスをギンギンに冷やして、水っぽくならないように注意しながら氷も」用意するのだとか。
パンを切るところから、なんですよ。「薄ーく」なんですよ。信じられますか。でも、たぶん、それらの一連の作業を佐和子さんは、ぱぱっと手際よくこなすのだ。
私みたいにいちいちレシピを見ながら「えーっと……あ、パンごつすぎた」「焦げた」とかやってるような娘だったら、どつかれて放り出されただろう。それとも、私でもそういう環境に育ったら、もうちょっとましになってただろうか。
そうそう。私もこれでもね、むかしむかし若いときはね、パンやケーキをせっせと作っていた時期もあったのだよ。クロワッサンとかブリオッシュとか、シュークリームにアップルパイ、ブッシュドノエルなんてのも作ったんだぜ、えっへん。
──ふふ、愚か者よ。おまえの場合、本を見ながらやっとこさ作ってただけ。本を見なくては不安で、クッキーさえできなかったではないか。
料理の才のある者はさっさとマスターしては「そらで」作れるようになり、さらに自己流のアレンジを加えてバリエーションを楽しんだり、ゼロからの「創作」なんてこともするんだぜ……するんだぜ……。
わわ悪かったな。
──おお、そういえば! これってマニュアル本と首っ引きでコピペを駆使して、なんとかWEBサイトを作り上げても基本わかってないから、ちょっとトラブるとお手上げ状態のど素人とプロとの差に似ているよのう。誰のことかは言わんがな……言わんがな…。
うるさいー!
しかし、別の回では佐和子さんは、キュウリの苦手な友人のことを書いていて「……それは日本人としてどうなのか。いや、……トマトを嫌いなイタリア人、ニンニクの嫌いな韓国人か、カレーが嫌いなインド人のように残念なことだと思う。」と書いて、私をどっとひかせる。
これだ。好き嫌いのない人、食べることに積極的な人は無邪気にこういうことを言う。私もこれまで何回、同じように言われてきたことか(キュウリは食べられますが)。
何せ好き嫌いが服着て歩いてるみたいな人間、見かけがちょっとあれな食べものは、見ただけで固まってしまう人間なんで。
このように言う人が、まったく悪気はないということは承知している。「嫌い」は克服できるものと思いこんでるらしいのはどうかと思うが、そんなふうに言われたからといって、その人を恨むつもりはない。佐和子さんもきっといい人。
だけど、その瞬間、私とその人の間には揚子江だかナイルだか知らないが大河が、ごうごうとおそろしい音を立てて流れているのは確かだ。
ごらん、向こう岸の人が豆粒のようじゃないか。おーーーーーい。声を枯らして呼んでも届かない。ごうごうだもん。
でね。
まあ別に料理の才なんてなくても、世の中に食べられないものがいっぱいあっても、別にいいじゃないかと思ってしまうわけです。お菜っ葉と揚げさんの炊いたん。じょーとーじゃないですか。
「マニュアル本と首っ引きでコピペを駆使してなんとかサイトを作り上げても」のくだりは忘れてください。ええもう、ほっといてください。どーせ。
【ヤマシタクニコ】koo@midtan.net
http://midtan.net/
http://koo-yamashita.main.jp/wp/
と、いったん締めたが。
柴崎友香さんが上記に引用したように「一つの鍋に順番に入れていけばできるもの、レシピが覚えられる範囲のものしか作らない。」とエッセイに書いたら「女のくせに臆面もなく手抜きを語り」との感想があったそうだ。
阿川家の美食生活は、妻や娘の犠牲の上に成り立っていたのではないか。
等々、話は別の方向に発展する可能性をはらんでいるわけだが、それはほかの人にまかせる。
でも、本来料理なんか興味もないしやりたくもなかったけど、主婦業を続ける上でやむなく腕を上げてしまった女も多いと思われるので、結婚しない人が増える一方の時代、今後は料理下手の女が増えるはずだ。ああ楽しみ。みなさん、仲良くしましょう。