ショート・ストーリーのKUNI[243]私をあたためて
── ヤマシタクニコ ──

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さりなという女がいて、たいへん寒がりだった。
冬の夜は、特に足が冷えてよく眠れない。

頭は眠りたがっているのに足先は水のように冷たいのでいつまでたっても覚醒している。その冷たさが足下から肩先までのぼってくるように思う。両足を重ねたりあわせたり、少しでも温かい部分を探してはその熱をひろげられないかとさすってみるがあまり効果がなく、泣きたい気分で夜が明けたこともたびたびあった。

それで、人にすすめられるまま電気あんかや湯たんぽを使い、まあまあなんとかしのいできた。湯たんぽを夏の間にうっかり、何かと間違って捨ててしまった年の秋はパニックになった。電気あんかが夜中に突然壊れて、足先であれよあれよという間に冷たくなっていったときも激しく動揺した。もうこんなことはごめんだと思った。

ある年の秋、さりなは新しいふとんを買った。そのころは勤め先でいやなことがたくさんあった。彼女は電話受付の部署に長い間勤めていた。

「なんだよその口の聞き方は」
「上司を出せよ」そう言われて
「上司より私のほうがよくわかっています」と答えてみせたが、声が震えていた。

しんとした室内でまわりの人間が聞き耳を立てているのがわかった。あんなふうにきつい言い方するからだめなのよね、あの人は、と陰で言われているのも前から知っていた。

時々うわーっと叫びたい気持ちになった。叫ぶかわりにふとんを買った。ネットで注文すると翌々日には届いた。





特に高級品でもなんでもない。気分転換だから。古いふとんは捨てた。同時に買った派手な模様のカバーを新しい布団につけて広げると、部屋が急に華やかになった。さりなは微笑んだ。

その夜はまだ秋なのに真冬のように冷えたが、さりなは朝までぐっすり寝ることができた。仕事が詰まってて、昼間忙しく働いたからだろうかと思った。

翌日、夜になってさまざまな片付けも終わり、灯りを消した部屋でふとんにもぐり込むと、さりなは不思議な感覚を覚えた。

ふとんに包み込まれる。というより、ふとんがさりなを包み込んでくる。それはこの上なくやさしい感触で、さりなのからだをおおい、すきまを埋め、遠慮がちになでてきた。錯覚かと思ったがそうではなかった。それは肩先から胸元へ、そしてもっと下の方に移り、腿からひざへ、ひざからふくらはぎ、くるぶしへとさりなのからだをいとおしみながら移動する。さりなのからだはそれにつれてゆっくりと、でも確実にあたたまっていった。

なんだか体の芯からほぐれていく。気持ちいい。

次に気づいたときはもう朝だった。めったにないほどよく寝た、と思った。

翌日。また夜になり、さりなはふとんにもぐりこんだ。
それはすぐにやってきた。さりなを待っていたようにさりなの全身をすっぽり包みこみ、冷え切った足先もたちまち芯からぽかぽかとあたたまった。どんどんあたたまって。

暑いくらいだ。
さりなは着ていたものを次々脱ぎ捨てた。それがないと冬を越せないはずの厚手のパジャマから下着も、すべて。

はだかになってふとんの中にもぐりこむ。ふとんはいっそうさりなをやさしく、いとおしそうに包み込んだ。さりなはますます深くふとんの中にもぐりこむ。全身をふとんに預ける。白くてきゃしゃな耳殻から首筋へとふとんが、人間の指先よりはるかに器用でやさしく、這い回る。そして、胸からおなかへ、へそへ、腿から下って、ぴったりとじ合わせた足と足の間をまさぐり、さすり、足先まで何度も往復しながらなでる。さりなは自分の呼吸が荒くなっているのを感じる。夢の中にいるようで、もはや上下左右もなくなり、さっきと今の区別もなくなる。際限もなく上っていくような、下っていくような。かろうじて問いかける。

誰なの?
返事はなかった。あるはずがない。あっても聞こえたかどうかわからない。さりなの薄桃色にほてった耳には。

さりなは毎日、急いで帰宅するようになった。夕食を食べ、メールの返信などすませてしまうと、急いでふとんにもぐりこむ。ふとんの中が彼女の世界だ。

「え? なんかついてる? 私の顔」
さりなは目の前の女に聞いた。会社の湯沸かし室で、隣の課の女がさりなをまじまじと見たから。
「あ、ううん。何もついてないわよ」
さりながふうんと言うと女はあわてて付け足した。
「最近、なんだか感じが変わったように思って」

さりなはひとりになったときに鏡を見るがよくわからない。でも、毎日ぐっすり眠れるので化粧ののりはいいかもしれない。思い当たるのはそれくらいだ。自分は変わっていない。相変わらず気が強くて無愛想で、ずけずけものを言うと思われているに違いない女。

ある晩、ゆっくりゆっくりなでながらさりなをあたためていたふとんは、さりなの左腕のある個所で止まった。そして軽くたたいた。疑問符を送るように。それは一時期いっしょに暮らしていた男が投げた皿の破片が刺さったときの傷跡だった。たまたま食事をしていたときに口げんかになったのだ。男は腹を立て、うまく反論できないことにいらいらして、パスタの入った皿ごと床に投げつけるという行動に出た。皿は割れてパスタソースは飛び散り、そしてさりなの腕から血が流れ出て、ひどい夜になった。いまも小さなひきつれとなって残る傷跡を、ふとんは何度も何度もさすっていた。

傷跡はその後、少しずつ薄れ、やがてほとんどわからなくなった。

寒い日が続いた。夕暮れだった。かさかさに丸まった枯れ葉が道ばたに落ちて転がり、それに気を取られていたさりなは向こうからやってきた男と至近距離になるまで気づかなかった。また会ってしまうなんて。パスタを皿ごと投げつけた男に。

「なんか感じ変わったな」と男は言った。
「そう?」
男はうなずいた。
当然のように、さりなと並んで歩き出し、ぼそっと言う。
「ちょっとわけありで」
「わけあり?」
「今日、泊めてくれないかな」
「無理」
「そうか」

たちまち半歩引き下がる感じがある。かまわず歩き出そうとして、でも少し気になる。いつもこの人は口べただったなと思う。そのことをもっと思いやるべきだったかもしれないと、心の中でずっと思ってはいたのだ。すると自然、さりなの歩みは遅くなって、それに気づいた男が調子に乗る。

結局男を家に入れてしまう。どんなわけありなのか、知りたくもなかったので聞かなかった。一応ありあわせで食事をして、男は冷蔵庫にあった缶ビールを何本も飲み、酔っ払って先に寝てしまった。もちろん、別のふとんだ。さりなも遅れて寝る。

明け方、男がさりなのふとんにやってくる。そしてまだ眠っているさりなの体を乱暴にまさぐる。反射的に手ではねのける。
「いいじゃないか」
「よくない」

あっという間にいやな思い出が押し寄せてきた。ゆうべ一瞬でも「もっと思いやるべきだったかもしれない」なんて思った自分はなんとばかだったんだろう。皿が床にぶつかって割れて、ああもう何もかもいやだ! と思った日のことが映画のワンシーンみたいに、スローモーションで再現される。しつこく迫ってくる腕から逃れようと力をこめていると、不意にするりと抜けられ、ふとんの外に出る。

驚いて背後を見ると、全身をふとんにからめとられ、もがき苦しんでいる男の姿が窓から斜めに差してくる外灯の薄あかりの中に見えた。うめき声のような声がふとんの中からもれてくる。密着するふとんから抜け出ようと七転八倒する男。それはまるで、ふとんのおばけがひとりで踊り狂っているようだった。やがて動きが止まり、男はふとんごとどさりと倒れると静かになった。さりながあわててふとんをのけてみると、すでに男は呼吸をしていなかった。

あわてて救急車を呼び、到着するまでの間、さりなが隊員の指示に従ってマッサージをしたのがよかったのか、男は一命をとりとめた。でもふたたび意識を取り戻すことはなく、結局ひと月もしないうちに病院で死んでしまった。はっきりした死因はわからなかった。

さりなは相変わらず電話で毎日たくさんの苦情処理に追われ、疲れている。ふとんは相変わらずやさしく、毎晩、はだかの彼女をすみずみまでゆっくり、時間をかけてあたため、満足させてくれる。

「やっぱりあなた、最近変わったわよ」
またそんなふうに言われたが、なぜだろうと思う。今も昔も、やりきれないこと、耐えられないことがいっぱいあり、自分は自分がきらいなのに。

自分を受け止めてくれるのはあのふとんだけだ。話しかけても何も答えてはくれず、ただ極上の快楽をもたらしてくれるだけの、あのふとん。


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外国の式典などで見られる、膝を曲げずに行進するあれを「ガチョウ足行進」ということは知らなかった。呼称はともかく、なんであんなことをするのかと昔から不思議だったが、Wikipediaでも「プロイセン陸軍が発祥と考えられるが、明確な発生の事情は不明」となっている。なんだ。そこが知りたいのに。それに、ガチョウもあんな歩き方しないと思うぞ。

ガチョウ足行進がどうしたんだと思われそうだが、別にどうもしない。単に、なんであの人は二日間もかけて鉄道で行ったんだろうかと気になってあちこちぐぐった流れである。謎が多い国だ。まあ私の住んでる国のひとも、理解に苦しむことだらけだけど。