◎作品タイトル
ハウス・ジャック・ビルト
◎作品情報
原題:The House That Jack Built
公開年度:2018年
制作国・地域:デンマーク・フランス・ドイツ・スウェーデン
上映時間:152分
監督:ラース・フォン・トリアー
出演:マット・ディロン、ブルーノ・ガンツ、ユマ・サーマン、
シオバン・ファロン、ライリー・キーオ
◎だいたいこんな話(作品概要)
1970年代のアメリカ、ワシントン州。エンジニアであるジャックの夢は、建築家になること。それを叶えるために、所有する土地に自ら設計した家を建てようとしていた。ある時、山道で車が故障し立ち往生していた女性との出会いから、殺人に没頭するようになる。
彼が5つのエピソードを通して案内人ヴァージに明かした、シリアルキラーとしての12年間の軌跡を辿る。
煉瓦造りでも木造でも、納得が出来ずに途中で取り壊したジャックの家は、はたして完成するのか。
◎わたくし的見解/トリアー的シリアルキラー研究発表
主人公のジャックが、ヴァージなる人物の質問に答える形で、5つの殺人について回想していく。そのやりとりは、まるで死刑判決が確定した囚人に対して行われるセラピーや、精神分析の権威が論文ために凶悪犯をインタビューしているようでもある。
何故なら、ヴァージはジャックの犯したおぞましい殺人の数々について、さほど断罪する様子もなく淡々と「それで君はどういう人間なの」と問い続けていくからだ。声を荒らげたのは、その残忍性に対してではなく、ヴァージにとって最も崇高である「芸術」を、ジャックが引き合いに出してきた時だけだった。
5つのチャプターの間ヴァージの存在は声のみで、エピローグで初めて観客はその姿を目にすることとなる。語り草から想像したとおりの老紳士は、精神科医というよりは(宗教の特定が出来ない)聖職者のような佇まいで、初対面であるはずのジャックも、不思議と言われるがままに暗がりを進む他なかった。
ヴァージは地獄の案内人だった。「神曲」の中で、ダンテを地獄と煉獄に案内する詩人ウェルギリウスがモチーフになっている。ジャックはダンテのように天国を見ることはない。一通り地獄を案内され、行く先は最下層から二つ上の場所だと教えられる。
劇中でヴァージも口にしているが、殺人者は「意外にも」最下層ではないのだ。しかしジャックは些細な好奇心から、生前の罪で決まった場所とは別のところに行くことになる。なかなか興味深い展開だ。
アメリカでカットされた部分は子供が殺された場面で、(すべての殺害シーンがそもそも残忍すぎるので)他のシーンと比べて格別グロテスクな訳ではない。アメリカでは、大人がそのように殺される映像に規制はかからないが(年齢制限がされてもカットはされない)、子供の場合は途端にタブー視される。
このタブーへの意識が強い人たちが、おそらくカンヌ映画祭でも途中退場した人たちと同じなのだと思われる。彼らにとっては、いくら表現の自由を認めても受け容れ難いのが本作なのだろう。
皮肉なもので、ラース・フォン・トリアー監督はタブーも含めた既成のものを、ひたすら壊していきたい人なので、認められないという反応も彼の思惑に収まるものだ。
私としては、度肝を抜かれるという点においては監督のこれまでの作品の方が圧倒的だったように思われた。この人の映画には、今まで散々な目に遭ってきた。嫌な気分に陥らなかったことなどない。しかし、それだけでは終われないのだ。
つまり、鑑賞後かなりの時間それについて考えを巡らせることになってしまうからだ。自分が不快に感じた理由も含めて、この物語は一体何なのだ、と。その上、どれほどの胸糞悪さも超越(帳消し?に)する程、必ず映像作品としての圧倒的なパワーがある。
本作でも、そのパワーは健在だ。ただ、物語については案外シンプルで頭から離れなくなるほど考えることはない。(衝撃映像が頭から離れなかった人は多いかも知れないが)。とは言え、監督の力量には相変わらず感心させられた。
二つ目のエピソードで、ジャックがターゲットの女性から信用を得て家に入るために、初めは警察だと名乗る。女性は不審に思い手帳の提示を求めるが、当然そんなものを持っていないジャックの返しが素晴らしい。「手帳はない。私も見てみたい」たった、この一言で精神的な破綻が垣間見え不気味さは一気に加速する。
女性はさらに訝るが、その後も苦しい言い訳を繰り返し、年金額が増える手続きをしてやるからという口実で、やっと家の中に入る。とにかく会話の支離滅裂さがジャックの異常性を際立たせていた。突如、態度が豹変し女性との力関係が逆転するくだりは傑作と言ってよい。
また、殺人を始めた頃のジャックは強迫性障害(例えば鍵をかけたか不安で何度も家に戻って確かめなければ気が済まず、それを繰り返すうちに、深刻化すると家から出られなくなるようなもの)が強く、かなり犯罪の足枷になる。
そのような障害を抱えながらも殺人衝動も抑えきれない葛藤などを観ていると、監督がいかにシリアルキラーについて調べ尽くしたかが窺える。強迫性障害については監督自身にも覚えがあるものなので、まるで「ドリフ大爆笑」のコント、もしもシリーズのように「この問題を抱えて殺人を犯すと、こんな風になるのでは」という経験者ゆえの茶化しが効いている。
ジャックの犯罪は常にスマートさに欠け、不謹慎ながら実に滑稽だった。幸運だけで12年間捕まることなく、それゆえに犯行はより大胆に大雑把になっていく。カウンセラーのごときヴァージによれば、ジャックが早く自分の罪を見つけて欲しい、誰か捕まえて欲しいと無意識に願っていたからではないかと分析する。
他にも様々なシリアルキラーへの考察が披露される。しかし、その再現性の高さが、監督らしい既成概念の破壊を緩めてしまったのではと感じられた。シリアルキラーもののジャンル映画としては、いくらか型破りかも知れない。エッジの効いた音楽とスタイリッシュな映像、反感を買うほどのグロテスクな殺害シーン。ところが連続殺人鬼の人物像は学術的なものと、ほぼ一致している。
決して新鮮味に欠けた訳ではない。もしかしたら、トリアーの作品に少し耐性が出来てしまったのかも知れない。残忍な部分だけでなく、息をのむ程美しい場面も含めて映像は衝撃的だった。それと比べると内容が弱く思えたのだが、では何が違ったのかなと結局考える羽目になっている。したがって、今後もこの人の映画から目が離せないと言う結論に至ってしまった。
【カンクロー】info@eigaxavier.com
映画ザビエル
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映画については好みが固定化されてきており、こういったコラムを書く者としては年間の鑑賞本数は少ないと思います。その分、だいぶ鼻が利くようになっていて、劇場まで足を運んでハズレにあたることは、まずありません。
時間とお金を費やした以上は、元を取るまで楽しまないと、というケチな思考からくる結果かも知れませんが。
私の文章と比べれば、必ず時間を費やす価値のある映画をご紹介します。読んで下さった方が「映画を楽しむ」時に、ほんの少しでもお役に立てれば嬉しく思います。