映画ザビエル[109]再生までの定点観測
── カンクロー ──

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◎作品タイトル
私というパズル

◎作品情報
原題:Pieces of a Woman
公開年度:2020年
制作国・地域:カナダ、ハンガリー
上映時間:126分
監督:コーネル・ムンドルッツォ
出演:ヴァネッサ・カービー、シャイア・ラブーフ、モリー・パーカー、エレン・バースティン

◎だいたいこんな話(作品概要)

マーサはオフィスで華々しくベビーシャワー(出産前祝い)のパーティーまでしてもらい、円満に産休に入った。パートナーのショーンは、河口近くに架ける大きな橋の現場監督を務めていて、いかにも肉体労働者という風情だったが愛情豊かで出産にも協力的。マーサの実家の協力も得ながら、二人は理想的な形でその時を迎えようとしていた。

自宅での出産を望んでいたマーサには、妊娠期間中に信頼関係を深めてきた助産師がいたが、いざ陣痛が始まり連絡を入れてみると、他の妊婦の出産に立ち会っているため来られないことが分かり、一時は混乱に陥る。

急遽、代理で駆けつけた助産師イヴと共に、痛みを伴う出産を乗り切ったのも束の間、マーサとショーンの赤ちゃんは息を引き取ってしまう。

その後、喪失感から心を閉ざしてしまったマーサは、ショーンとの関係も悪化していく。さらにマーサの母エリザベスが、子供の死の責任は助産師にあるとして強引に民事訴訟を進め、ますますマーサは傷を深めていくのだが。





◎わたくし的見解/あした世界が終わっても

序盤で、何故これほどまでに出産シーンをリアルタイムに近い形で見せ続けるのだろうか、との疑問はすぐに解消される。陣痛が始まり破水して、助産師の手を借りて、苦しみながらもどうにか我が子の産声を耳にすることができた。その出来事が、この作品にとって何よりも重要な情報であるからだ。

その後、パートナーとの関係性が壊れていく段階も、マーサに対する荒療治とも言える助産師への責任追及に躍起になる母親との溝の深まりも、すべてが丁寧にすくい上げられるせいで、かえって鑑賞者にとっては、噛み砕くことも飲み込むことも困難な、苦しい時間が過ぎてゆく。

まるで、ジョン・カサヴェテス映画のように、ヒリヒリと痛い内容だ。マーサのパートナーのショーンは、我が子を亡くした悲しみを放出して何度も涙を流して嗚咽する。マーサの母エリザベスは、理不尽なその死に怒りをあらわにして喚く。

しかしマーサ自身は、あまりにも大き過ぎる痛みから感情の起伏をほとんど見せなくなる。ときに周囲の言葉が地雷となって、過剰に反応し取り乱すことがあっても、ある時まで悲しみを心のどこかにぎゅうぎゅうに押し込めて、堅く閉ざしてしまっていた。

喪失と再生というテーマそのものも、その見せ方としても新しさは少しもない作品だが、だからと言って古さも感じない。なぜなら、根源的なもの、普遍的なものを真摯に描き出せているからだと思う。

ラストシーンはあまりにも象徴的で、現実のマーサのその後と捉えてよいのか迷いが生じるものだった。けれども、りんごの木が大地に根をはり、立派に育ち、赤い果実を輝かせているのを見ると「世界が終わってもリンゴの木を植える」という名言の放つ、希望への信頼を失いたくないと切に感じた。


【カンクロー】info@eigaxavier.com
映画ザビエル
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