はぐれDEATH[35]はぐれはハザードマップと古地図を照合して歴史を遡る/藤原ヨウコウ

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正直言ってボクは、近畿地方の地理にそれほど詳しいわけではない。むしろ、知らなすぎるくらいだ。さすがに京都市内はある程度把握しているが、伏見近辺となるとここ一年の知識しかない。

こんなボクが、唐突に近畿地方の古地図に興味を抱いたのは「津波ハザードマップ」を見てからだ。パッと見た瞬間「?」となった。

大阪市内で妙な場所が、オレンジ表記(安全な場所)になっているのだ。後で知ったのだが、これは上町台地である。これがキッカケでそれまで「なんか変やな?」と思っていた疑問が、雪崩のあとように表面化した。

今回はちょっとした古代史を古地図から推測してみる。

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ボクが上町台地の存在を知識として知ったのは、石山本願寺跡である。今の大阪城がほぼ同じ位置にある。

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戦国時代の一向一揆の総本山として、難攻不落を誇った石山本願寺は上町台地の北端に位置し、北は淀川水系、東西は低湿地帯、陸続きの備えは南に集中すればいいだけの地の利を生かしている。

信長は石山本願寺を攻略するのに足掛け10年近くかかっている(元亀元年9月12日(1570年10月11日)〜天正8年8月2日(1580年9月10日)にかけて)。しかも最終的には和睦という、信長にとっては屈辱的な、勝利とも言えないような勝利である。

和睦が成立し、顕如の長男である教如が退去した直後に、堂舎・寺内町が炎上して灰燼に帰し、二日一夜炎上し続けたと伝わっている。石山本願寺は、織田軍の長期の攻撃にも関わらず、武力で開城される事はなかった。ともかくも、信長のプライドはズタズタにされただろう。

合理主義の塊のような信長にとって、宗教や論理性に乏しい常識や慣行は憎むべき対象でしかないような気がする。

そもそも、ルイス・フロイスとの対話は当時の仏教界なり既存の日本の宗教に対するアンチテーゼであり、それと共にヨーロッパの合理主義的な考え方に好奇心を抱いたのが動機であるように思う。

想像の域を出ないが、信長がフロイスとの友好関係を重視したのは、種子島伝来の鉄砲を通して垣間見た、ヨーロッパへの憧憬もあったのではないか?

そうして考えると、一向一揆が持つ熱狂的な信仰心は、信長には憎悪の対象としてしか映らなかったのではないだろうか? 残忍なまでの一向宗門徒に対する徹底的な殲滅戦は、その一端に過ぎなかったのではないだろうか。

また、伊賀攻めの際は(そもそも攻撃を仕掛けてきたのは伊賀の郷士衆だったようだが)、夜討ち、攪乱戦を主体とする奇襲を得意とする、伊賀忍者への警戒心が元だったとも言われるし、叡山焼き討ちに至っては「浅井・朝倉討伐を前に補給をせず浅井・朝倉勢に味方しないように」という書簡を前もって送っているに関わらず、浅井・朝倉勢に味方した報復だったとも言われている。

いずれにしても、巷間で言われているような非合理極まりないこれらの信長の所業も、信長にとっては明確な意思もあれば、合理的な判断力もあったと考えるべきだろう。ただ、常軌を逸していると言われても仕方がないとは思うが。

話は少し戻るが、イエズス会も本来は宗教組織だし、熱狂さにかけては一向宗に劣らないとも思うのだが、どうもこの辺は割り引いて考えていたような気がする。

そもそも当時の日本にとっては、既存の宗教とは一線を画すし、ヨーロッパ発という当時最先端のあらゆるものを内包していたのがキリスト教だったとすれば、信長が警戒心を緩めたのも無理はないだろう。

信長の死後、この地に城を築いたのが豊臣秀吉である。石山本願寺の要衝を踏まえつつ堅固な城を築き、城下町も造成した。町普請に関する戦国武将の能力は、ほとんど我々の想像を絶するスケールと設計力である。

秀吉はもちろん、豊臣恩顧の武将達はことごとく町普請の名人と言ってもよかろう。この系譜はもちろん、織田信長にまで遡るのは言うまでもなかろう。

そもそも石山本願寺跡地に目をつけたのは、信長ではないかと思っている。勘ですが。秀吉は信長の構想を引き継ぎ、秀吉なりの工夫を施したのが大阪城だと思っている。

この地形は大坂冬の陣、夏の陣の時も同様で、有名な真田丸は大阪城の南東に作られ徳川方に大損害を与えたことは今更言うまでもなかろう。

そもそも、真田丸を攻撃すること自体が大間違いなのだ。ボクは家康の命令で真田丸攻略にかかったのではなく、秀忠の命だと勘ぐっている。信長の石山本願寺攻略の困難さを知っているはずの家康が、そうそう簡単に手を出すはずがないのだ。

実際、冬の陣では持久戦に持ち込んで和睦に持ち込み、その後すぐに大阪城の防御施設を徹底的に破却して、夏の陣で短期決戦に持ち込み見事攻略した。「東海一の弓取り」と称された家康の本領が発揮されたと見るべきだろう。

少し話は逸れるが、家康自身は豊臣家の滅亡を望んでいなかった節があると思っている。詳細は省くが、家康の名前の陰で秀忠が相当陰湿なことをしていたような気がして仕方がない。あくまでも私見というか勘です。真に受けないように(笑)

話を戻す。上町台地を拠点に時代を遡っていくと、ボクの古墳時代の知識は素直に落ちるべきところに落ちる。

実はハザードマップの存在で「?」となったのが初めてではないのだ。

20〜30年前に、何かの機会に四天王寺の前を車で通過したのだが「なんでこんな海から離れた場所に?」と思ったのだ。

四天王寺は聖徳太子創建の日本最古の仏教寺院であり、日本書紀によると「是歳、始めて四天王寺を難波の荒陵に造る」とあり、ここでいう「難波」の解釈をボクは「波打際(海辺)」としていたからだ(実はこの解釈が正しかったのを確認できたのはつい最近だ)。

西にどっさり平地が広がる今の風景を見て、「?」となったのはそう不思議ではなかろう。

この疑問はそのままほったらかしにされていたのだが、今回のハザードマップの存在で急浮上してきた。

ここに至るまで、それほど注意をはらっていなかったのは、素直に大阪の地形について興味がなかっただけの話である。ボクにとって重要な古地図は瀬戸内海沿岸であり、他の地域はそれほど重要ではなかったのだ。理由は簡単で、ボクが生まれ育ったのが福山市だからだ。

ところが、好奇心を刺激されると、アホほど簡単に引っかかるのがボクの性である。古墳時代の近畿地方の原風景を知りたくて仕方なくなる。

『古事記』や『日本書紀』ほど鵜呑みに出来ない文献も珍しいので(!)ハザードマップと古地図を照らし合わせることにした。もちろん、専門家による多くの研究成果を踏まえた上でだ。

今回は下記の地図を参考にしていただきたい。色々興味深い地名が載っている。

http://blog-imgs-70.fc2.com/a/t/a/atamatote/kofungun.jpg

瀬戸内海沿岸もそうなのだが、干拓による造成で沿岸線は古の時代とは縁遠いものになっている。特に瀬戸内海沿岸、しかも本州側は平地が極端に少ないのだ。分かりやすいのは尾道の地形だろう。

崖→国道2号線→海(かなり盛ってるけど)で、海側に関しては平地は国道2号線だけと言っても過言ではない。本当は違うんだけど、ボクの印象だけだと上記の如き状態になる。

瀬戸内海はそれでも別に構わないのだ。何しろ大昔から大陸や半島と近畿を結ぶ水運の大動脈であり、この地理的な条件だけでそれなりに成り立ってしまうのだ。

瀬戸内海の水軍などはその顕著な例で、もうほとんど利権商売と言ってもいいくらい勝手なことをしている。今のスエズ運河やマラッカ海峡みたいなもんだと思っていただいて構わないと思う。もちろんもれなく海賊もついてる。今も昔も、こうした行動原理そのものは大して進歩していない。

瀬戸内海の水運についての詳細は別の項に譲る。というか、去年の秋から書いている未完の作文のための調査で、厄介なぐらいごろごろネタが出てきてまだまとまりきってないのだ。

大陸や半島からのルートは幾つかあるが、比較的安全で素直なルートが瀬戸内海経由であろう。大阪湾から淀川を遡れば伏見まで行けてしまうし、江戸時代に入ると高瀬川まで通過するので、京都市内まで直結である。

ついでだが、古墳時代まで遡ると巨椋池の存在がクローズアップされてくる。しかも池の南側である。今でいう京田辺の辺り。これ以上は止めておく。話がマニアック過ぎるし(笑)

もちろん、日本海側のルートも重要である。山陰から東北に至る海岸線は半島から見れば直結であり、極めてシンプルなルートだろう。

瀬戸内海ルートの強みは、古墳時代の奈良への安全確実な航路としての役割である。いきなり奈良が出てきて驚く方もいるかとは思うが、古墳時代の奈良地方は記録だけでも大盛りである。

というか、記録をつけて残す技術が、奈良では普通であったと考えるべきかもしれない。奈良文化圏と仮に呼称することにする。

とにかく、渡来人のコミュニティだらけなのだ。むしろ現地人(!)はどこへ行ったと言いたくなるぐらい渡来人が多い。一族郎党で集団移住してきた例もあるようだ。

別の言い方をすれば、渡来人だから記録を残せたとも言える。当時は先端技術だったと見るのが自然だろう。もちろん、記録に残るのは権力者や有力者に関わるものばかりで、市井の民に関する詳しい記録は皆無に等しいし、記録そのものも都合良く書き換えられているケースは枚挙にいとまがない。

この辺は専門家に任せよう。ボクの俄知識でどうこうなるレベルの話ではない。

高校レベルの日本史と地理の基礎知識が必要だが『敗者の古代史』(森浩一著、中経の文庫:KADOKAWA)が比較的分かりやすいだろう。

ともかく、彼らにとって半島や大陸との交流はかなり重要だったと考えるのが自然だろう。実際、日本にいる渡来人が、新たに技術者等を半島から派遣してもらっている例は枚挙に尽きない。

これは奈良文化圏に限らず、九州、瀬戸内海沿岸部に残る各地の風土記に多く残っているらしい。らしい、と書いたのはボクが原典を読んで確認していないからだ。さすがにそこまで調べるほど酔狂ではない。今の時点ではですが。

さらには、大陸や半島にもこの手の記録は多く残っているらしい。『魏志倭人伝』なんかは代表例だが、倭人に関する記録はかなりあるそうだ。

とにかく、古墳時代に関しては高校の日本史レベルでストップしているので、正直怪しい。上述した「難波」のボクの解釈もほとんど勘である。

古文、漢文の知識から解釈しただけで、確認をしたわけではない。日本史に関しては、江戸末期から明治時代がボクの専門領域であり、他の時代はそれほど詳しいワケではない。中世はちょっと調べましたが。

最近「日本サイコー」的なモノが流行っているらしいが、古墳時代まで遡ると日本文化そのものですら怪しげに見えてくる。しばらくは古墳時代から目が離せそうにない。

弥生時代から続く、何波にもおよぶ渡来人の大量移住だけを注視すると、渡来人の文化しか浮かび上がってこない。原住民の文化はどこへいったのかと、首を傾げざるを得なくなる。さすがに完全否定はしませんが。

渡来文化がこの島国で独特の発展の仕方をしたのは明らかだし、地政学的な影響だって大きい。ただこういう見方もあるというだけの話。

古地図に戻る。奈良文化圏を語る上で極めて重要なのが、生駒山地と大和川である。当時、河内湖(呼称多数あり)と呼ばれていた大半の場所は、上町台地と生駒山地に東西を挟まれ、南北は大和川、淀川に挟まれている。河内湖から大和川を遡れば奈良盆地に出る。これまた実に分かりやすく、素直なルートである。

要は不自然な所は大抵人間の手で何かしらされていて、その痕跡はハザードマップに見事に反映されてしまっている。「天網恢恢疎にして漏らさず」とは正にこのことなのかもしれない(笑)


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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最近、本業で口に糊できないエカキ。これでエカキと言ってイイのか正直不安になってきている気の弱いぼーず。お仕事させてください…m(_ _)m