はぐれDEATH[108]怪しい記憶と怪しい知識だけの九州めぐり vol.3 推測だらけな上にほとんど語れない大分
── 藤原ヨウコウ ──

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大分は父方の曾祖父の出身らしい。以上、お終い。

と、なるのが普通なのだ。とにかく親父も祖父も大分についてはほとんど口をつぐんでいる。なぜかはさっぱり分からないし、推測するのも面倒なので数少ない経験と、親父から半ば強引に聞き出した情報を元にしか大分は語れない。曾祖父は話の断片をつなぎ合わせると、どうやら現在の大分県中津市あたりの出身だったようだ。

父方の家系は遠く遡ると香川になるらしい。一体どこまで遡るのかさっぱり分からん。父ですらこの件については「本当か嘘かはよく分からん」らしい。上記したように、そもそも父方の方は異常に情報量が少ないのだ。ある程度、明確なところでは曾祖父からになる。

ところが、この曾祖父の記憶が親父にはない。曾祖父は60前後で亡くなったらしく、親父も曾祖父の記憶はないらしい。親父が2〜3歳ぐらいの頃に曾祖父に抱かれている写真を、かなり後に「見かけたことがある」程度なのでこれはもう仕方ないだろう。





親父の年齢から逆算すると、どうやら明治11年(1878年)前後の生まれになる。祖父も大分に関してはほとんど口にしなかったので、親父も知らないのは当然である。ましてや、四代後のボクとなるともうお手上げだ。普段あまり一族のことを喋らない親父なのだが、どうにかこうにか少し口を割らせた(笑)この先は、妄想と史実が本格的にぐちゃぐちゃに混じっているので要注意。

曾祖父の生年が明治11年前後ということから単純に計算すれば、曾祖父が官営八幡製鐵所に入ったのは明治30年代頃になる。実際、官営八幡製鐵所の操業(火入れ)が明治34年(1901年)であることから、創業時の一員として勤めていた可能性はある。

当初はコークス炉がなく、使用した鉄鉱石の性質も欧州とは異なるため、銑鉄の生産が予定の半分程度にとどまり、計画した操業成績をあげることができなかった。それに伴い赤字が膨れ上がり、遂に明治35年(1902年)7月に操業を停止している。

紆余曲折を経てコークス炉を建設し、原料も精選する方針が立てられたが、明治37年(1904年)2月に日露戦争が勃発し、鉄の需要が急激に増えた。政府は、コークス炉の完成を受けて製鐵所の操業再開を決め、同年4月6日に第2次火入れが行われたが、わずか17日間で操業停止に追い込まれた。どうやら技術的な問題だったようだ。

高炉が改造され、同年7月23日に第3次火入れが行われた。この改良は成功し、その後は順調に操業を進めて、多くの銑鉄を得ることができた。そして、翌年の2月25日には、以前から建設が進められていた東田第二高炉に火入れが行われ、銑鉄の生産量がほぼ2倍になっている。
 
ざっと見ただけで短期間にすさまじい展開を示しているが、日露戦争という国家の存亡がかかった事態を背景に、鬼のような勢いで(というかドタバタ劇である)稼働を成功させている。

もう想像でしかないのだが、曾祖父がこの現場を目の当たりにしていた可能性は高い。明治11年生まれとすると、明治34年に官営八幡製鐵所創業時に入社したなら、曾祖父は23歳(数えで24歳)。ボクとしては違和感を覚える。上記したように、官営八幡製鐵所そのものは最初から順調に稼働したわけでない。むしろ試行錯誤である。

貧乏・庶民の代表格のような曾祖父の家と、当時の状況を考えると(詳細は後述する)、創業時から技術者であったという可能性は極めて低い。上記したように、こけまくっているのである。それでも当時の高等教育を受けていた人達が、現場のトップにいたことは想像に難くない。

ここからは、当時の庶民生活と教育事情をあわせて考えてみたい。曾祖父が順当に教育課程を受けていたとしても、当時の庶民の生活からすると、めちゃめちゃ頑張っても尋常小学校止まりだろう。だが親父の話によると、曾祖父は尋常小学校すらまともに行けなかったようなのだ。

第一次小学校令が明治19年(1886年)でこの時の修業年限は4年、高等小学校の修業年限が4年となっている。高等小学校の修学規則が「尋常小学校修了までの4年間を義務教育期間とする」という一文からすると、曾祖父はここに引っ掛かるのだが、どう考えてもこの時点で高等小学校に行ったとは思えない(父の想像もある)。何しろ「The・貧乏な庶民」の典型なのだ。

この第一次小学校令では「貧民用」(!)の小学簡易科(3年程度)が用意されており、曾祖父はここに通っていた可能性の方が高い。尋常小学校は「裕福な家庭」用と記述されていることからも、この当時の庶民にとっての教育というのは負担が掛かるということだ。つまり9歳の時には卒業していた計算になる。

第二次小学校令は明治23年(1890年)に公布されているが、この時点で曾祖父は既に12歳となっている。だが、ここに補足事項が引っ付いてくるのでかなり厄介だ。「専修科・補習科を付設することが可能となり、徒弟学校と実業補習学校を小学校の種類とする」がそれだ。専修科というのは「高等小学校に併置されるもので、農科・工科・商科のうち1科もしくは数科を設置し、実業的教養を与える課程で、産業の発展に伴い設置された」というものらしい。

父の話によると「とにかく頭がいい人だった」らしいので、ここで専修科もしくは実業補修学校の工科に潜り込んでいる可能性が出てくる。修学期間が3年だが、どうも初期の簡易小学校卒業者で、既に就労していた子弟の教育を主眼としていたらしい。大分を出て官営八幡製鐵所に入社するには、最低でもこれぐらいの教育は必要だったのではないか?

それでも順調にいけば、卒業時(明治26年)には15歳。官営八幡製鐵所の本格稼働が明治35年だから、9年の空白が生まれる。この間の曾祖父の動向をうかがえる記録はもちろんない。順調に就学をしていたというよりも、仕事の傍ら思い出したように学校にいっていたのが実情に近そうな気がする。そうなると、官営八幡製鐵所に明治35年頃に就職した可能性はある。

紆余曲折の末にやっとまともに稼働した、日本にとって大事な製鉄所である。入社にあたっては、現在の地方公務員試験よりも厳しい選抜があったはずである。それも管理職レベルではなく現場レベルだ。今のようなオートメーション式ではないので、知識も経験も必要な職人気質のありそうな人材を求めていたとみるべきだろう。

もう一方の可能性は、八幡製鐵所建設時から従事していたケースである。官営八幡製鐵所建設の着工は明治30年(1987年)なので、この段階でもし従事していたとしたら(曾祖父は19歳)、上記した空白期間は4年に狭まる。もちろん着工前の事前調査やらなんやらまで含め出すと、更に縮まる可能性はある。

こうなってくると、中津から八幡に出てきた時期そのものも相当はやくなりそうだ。肝心要の中津との地域的な関係は、どんどん薄まっていくが。それはともかく、曾祖父が官営八幡製鐵所で何をしていたのかは分からない。

官営八幡製鐵所は日清戦争終結後、製鉄に重きをおいた当時の政府が、原材料入手の利便性と軍事上の防御点から、八幡村を選んだという説があるようだ。その原材料の調達地の一つが筑豊炭田である。筑豊炭田についてはもうパスする。

●古代史の境目には製鉄の法則

そもそもこの稿は、大分について語るはずなのだ。ここまで大分のネタがロクに出ていなかったが、ここから本格的に(?)出てくるのでご安心を。

親父ですらロクに知らない曾祖父のことを、ボクが知るはずもない。頼りは祖父だが、この人もまた普段からあんまり喋らない人だったのだ。それでも、ヒントらしきことだけはボクに残してくれていた。怪しいけど。宇佐神宮詣でである。

ボクが知る祖父は、朝晩神仏のお参りと散歩を欠かさず、たまに下手な囲碁と将棋をしてテレビを眺めているという印象しかない。可愛いがってもらったのは確かだが、それほど強烈な印象はないのだ。母方の一族が強烈過ぎたからなぁ。

一度、祖父に連れられて宇佐神宮を詣でたことがあった。小学校3〜4年の頃か。当時は「なんで太宰府ではなく宇佐神宮なんだろう?」と思っていたが、宇佐神宮の成り立ちを知ってからハタと気がついた。そもそも、宇佐神宮の位置が位置である。周防灘に面した国東半島の付け根にあり、北九州との間には沿岸沿いに中津がある。

祖父がどんな思いでボクを宇佐神宮に連れて行ってくれたのかは、さっぱり分からない。もしかしたら、遠祖の地の祭神が祭られているという、それだけの理由かもしれないし、大分の一族(?)の祖が宇佐に辿り着いてから、中津に北上したことを暗に語っていたのかもしれないが、とにかく何の理由も説明もなく「宇佐に一度お詣りにいっとかないといけん」と言われて、祖父には珍しく積極的にボクを連れ出したのだ。だから記憶に残っている。

とにかく表参道がビックリするくらい何もなく広くて、境内も規模がでか過ぎて本殿もイマイチよく分からなかった。ちなみに未だにあの規模で、あそこまで何もない神社仏閣は見たことがない。失礼極まりないのだが、とにかく規模がでか過ぎるのだ。宇佐神宮では人にも滅多に会わなかったしな。

本殿は小高い丘陵の小椋山(亀山)山頂に鎮座する上宮と、その山麓に鎮座する下宮とからなり、その周りに社殿が広がっているのだが、この広がっている方ばかりにボクは気を取られていたのだ。それでも上宮・下宮共に、お詣りはしっかりさせられた。とにかくやたらと歩いたのは記憶にあるのだが、それ以外となるとこれといった印象がなかった。

宇佐神宮は全国に約44,000社ある八幡宮の総本社である。石清水八幡宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに、日本三大八幡宮の一つ。古くは八幡宇佐宮、または八幡大菩薩宇佐宮などと呼ばれたようで、これだけの社格を持っていれば、今となってはあの規模は理解できるのだが、とにかく小学生だったのになんの前知識も与えられず、いきなり連れて行かれたのだ。「ありがたがれ」という方が無茶でなのだ(実際、祖父はそんなことを一言も言わなかったが)。

宇佐神宮の主祭神は「八幡大神」「比売大神」「神功皇后」の三柱である。ボクと無駄に関わりが強いのは(成り行きだが)、実は「神功皇后」だったりする。随分後になって気がついてこれには驚いた。ボクが手伝っている船鉾の御神体が「神功皇后」なのである。そもそもお手伝いに行くキッカケ自体が明後日の方向からで、縁もゆかりもなかったのだが、お手伝いを始めてなんじゃかんじゃで30年以上になる。

ちなみに御神体には巡行の時、腹巻きが巻かれ、安産祈願の御守りとして祭りが終わったあと配って下さる。もちろん本当は予約・有料なのだが、ボクは大工さん特権(?)で拝受した。もちろん、おねえちゃんが奧さんのお腹にいた時だ。ちなみにここの大工さんのお子さんは、お腹にいる時みんな同じことをしてもらっている。

というか、関係者のお子さんはみんなそうなんですがね。他の大工さんも、もちろんありがたく頂いているのだが、産まれてくる子はなぜか女の子ばかりというおまけが、大工さんの家に限ってもれなく付いてくる。これでは後継者もくそもない。高齢化が進むのは必然で、ボクが未だに大工さんをやめられないのもこれに起因する。

毎年一定期間を拘束される上に、作業を憶えるのに何年もかかるので、おいそれとよそから人を連れてくるわけにもいかない。本来なら子供の頃から現場に出入りして、おいおい作業を手伝うのが理想的なのだが、7月なので幼稚園なり小学校なり、中学校なりをその期間休まなければいけなくなる。ハードルは高くなる一方で、ボクのような例は異例中の異例なのだ。本職ですらないしね。

話を神功皇后に戻すが、伏見にいた時、珍しく初詣なるものに元旦に出かけた。ただの思いつきで行ったのが御香宮神社。ここの主祭神がやっぱり神功皇后なのだが、実を言うと詣でて初めて知った。神功皇后については別稿に譲りたい。ネタの宝庫なのだ。いま必死で調べてるところ。北九州から佐賀、大分、山口から当時の朝鮮半島まで絡んでくるので(三韓征伐の件だ)、ここだけでも十分過ぎる程スケールがでかい。

宇佐神宮は藤原広嗣の乱だの、宇佐八幡宮神託事件では皇位の継承まで関与するだの、伊勢神宮を凌ぐ程の皇室の宗廟として崇拝の対象となり繁栄し、信仰を集めたりだの、屋島で敗北した平家が宇佐神宮を頼ってきた(断ったらしい)だの、とにかく畿内側との接点がやたらと多いのも特徴の一つだろう。とにかく、瀬戸内海の水運と強烈な結びつきがあることだけは確かである。

怪しい親父情報に出てくる香川と言えば讃岐国。讃岐と言われて「うどん」と答える人の方が圧倒的に多いと思うのだが、個人的には弘法大師空海が一番最初に思いつく。空海の祖となる佐伯氏は、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波にかけて勢力をもった一族である。

驚くのはその祖は東国から送られてきたという点だ。細かいことは興味があれば調べていただきたい。資料によると「やかましい連中」が理由だったそうだが、どうやかましかったのかはよく分からん。現代風に言えば「ヤバい連中」っぽい。

想像だが、畿内政権の四国鎮守のための武力集団として異動させた可能性が高いように思う。東日本から古墳時代に、西日本に移動している集団は結構いたらしいのだが、それは主に陸上の武力集団としてのそれだったらしい。ちなみに九州の雄・島津氏も遠祖は東国だそうだ。

瀬戸内海を挟んで向かい側には吉備国がある。渡来人秦氏の勢力圏であり(正確には備前国)、讃岐との交流もあったようだ。ここでいきなり(?)製鉄業が出てくる。「古代史の境目には製鉄の法則」というのはボクが勝手に作った法則である。古代の製鉄に関しては、出雲を中心とした日本海側にも一大勢力がある。たたら製鉄というヤツだ。実はこれがボクの祖父と、後にちょっと関わってくるのだがそれはまた後の話。

三韓討征の後年になるが、秦氏の始祖と呼ばれる弓月君が、百済の120県の人民を率いて帰化したとある。この時に帰化を妨害していた新羅を牽制し、弓月君の帰化を成功させたのが時の天皇・応神天皇だが、この方は、神功皇后のご子息である。

さて佐伯氏が東国の出自である、というのは極めて興味深い。弥生系渡来人とはまた別の人種であった可能性が高い。北陸あるいは東日本の日本海側から来た末裔か、縄文人の末裔であろう。ちなみにボクの一族と佐伯氏は関係ない。あったとしても、せいぜい末端の末端の更に末端であたりで、チラッと交流らしきことがあった程度だろう。要するに原住民で庶民だ。

上記した秦氏は、八幡神社や稲荷神社等を創祀したことでも知られている。段々ややこしくなってきたので後はパスだ。庶民であるが故に土地に縛られていなかったから、どこかの時期に大分に移動したのであって、それが可能だったのは地縁が稀薄だったか、海を渡って移動するという行為そのものが日常的だったからではないだろうか。

素直に大分に移動したと推論するには、情報が少なすぎるのでほとんど妄想に近い考えだが、「香川起源説」をベースにするなら、四国の瀬戸内海側のどこかを起点に、西に向かって右往左往しながら大分に辿り着いたとボクは思っている。いつ、どう移動したかはもちろん分からないが、瀬戸内海という地理は大いに関係があっただろう。やはり水運である。

住んだことがある人ならよく分かると思うが、瀬戸内の気候というのは実に温暖である。さらに沿海部となると、漁業と農業の兼業が可能になる。これに物流が加われば怖いものなしだ。かなり豊かな地域に分類してもいいだろう。加えて「まったりだらだら」という緩い雰囲気があり、とりあえず食べるものには困らない。水軍に代表されるように、水運という面でも実に移動しやすく、ちんたら西に行ったのだろう。まさに「はぐれ全開」である。

それはともかく、嘘か本当かは別にして、先祖が香川から来たというのは初めて聞いた時びっくりした。ボクはてっきり九州の中で、うろちょろしていると思っていたからだ。それも南九州の西岸部。ボクは古いタイプの骨格を自覚していた上に、肌が地黒なので勝手にそう思い込んでいたのだ。どっちに転んでも庶民には違いないと思うけど。

どこの代かはさっぱり分からないが、どうやら大分に辿り着いた。両親や母方の親戚の会話の中で、父方のことでよく出てくる地名が「中津」だ。中津と言えば周防灘に面している。周防灘は瀬戸内海の西端に位置する。瀬戸内海べったりだ。

黒田如水が豊臣時代の九州征伐後に中津藩に入部し、息子の長政が筑前福岡藩に移封された話は前に触れたので詳細はパス。その後、中津藩に入ったのが細川忠興で、藩庁を小倉に移して小倉藩が生まれる。やっと八幡に近い地名が出てきた。これで瀬戸内海から周防灘を中継しながら、玄界灘への道が開けたわけだ。

中津と小倉の繋がりは、廃藩置県の時により明白になる。現在の中津市域は中津県となり、その後、小倉県から福岡県となったが、1876年に福岡県のうち宇佐郡と下毛郡が大分県に編入され、中津支庁が設置されたことで、大分県北の中心地になるという過程があったそうだ。想像以上に小倉との心理的な距離は近かったように思われる。

それはともかく、肝心要の中津の情報がこれ以上ない! 口数の少なさもさることながら、曾祖父の思い切った行動が中津と縁遠くさせているようなのだが、この情報量の少なさは異常である。

宇佐神宮詣りとは別の機会に、別府には行ったことがある。確か祖母も一緒だった記憶がある。地獄巡りをしながら、イチイチ「悪さするとこの地獄に落とすぞ」と脅されたことを憶えている。もっともこの妙な儀式(?)はボクに限った話ではなく、別府の地獄巡りをすると判で押したようにされるようだ。もし、おねえちゃんが小さい頃に別府の地獄巡りに連れて行ってたら、間違いなくボクもやってたと思う(笑)。で、実は別府の話はこれでお終いだ。

●鉄一族の歴史

とにかく曾祖父から始まる鉄屋の流れは、ボクの代でなぜか印刷へと切り替わるのだが、そこは不肖の子孫を自称するくらいなので何てことはない。ただボクの中にも技術屋の血ははっきりと残っている。じゃなきゃ、印刷会社で嬉々として生産現場を回ったりはしません。

技術畑の連中を除けば、恐らく会社の同期ではボクが一番あちこちの現場に顔を出していたろう。好きなのだから仕方がない。大体、印刷インクの希釈液の匂いがスゴイのだ。まともな人なら(!)頭が痛くなるので、現場に行くことそのものを嫌がるのが普通だ。ボクは平気だったし、現場がとにかく好きだったので入り浸りだったけど。

古いグラビア製版機がもたもたと金属筒を刻む風景や(晴れてる日は露天でやってた)、大型ポスター用の巨大製版カメラ、輪転機が轟音を上げて動いているところや、20〜30mはあろうかという筒状のグラビア版が、ヱヴァの如く運ばれていく様は実に壮大で楽しかった。なんとスペースの都合上、縦置きでですよ。レタッチの現場も足繁く通ったなぁ。まぁ、ボクのことはどうでもいい。

製鉄業というのは近代史を語る上で避けては通れない産業であり、それは極東のこの小さな島国でも同様である。伝統的なたたら製鉄という技術もあったわけだが、欧米との競争(特に軍備)をしていく上で、当時は近代製鉄技術が最先端の産業だったと言えよう。

そういう意味では、曾祖父はかなり珍しがりで、新しい物好き(いい意味で)だったのかもしれない。もっとも性格は、かなり厳格でマジメ・勤勉な人だったようだが、この相矛盾する要素を抱えていたが故に、製鉄業を選んだのかもしれない。この性格は父に隔世遺伝したようだ。ボクが受け継いだのは、面白がりなところだけだ。しかも無責任。

八幡に始まる鉄一族の歴史は、祖父が日立金属の前身となる戸畑鋳物への入社で決定的になる。祖父の人生は日立金属と共に歩むことになった。ところで、曾祖父・曾祖母の生誕年はある程度分かるのだが、実を言うと祖父母に関しては知らない。とにかく喋べらないのだ。

ボクの記憶にある祖父は、すでに引退して隠居。祖母は近所の子女にお茶とお花を教えていた。こっちの家には本がなかったので、自然とボクの興味は茶道具や花器にいく。量はあったので鑑賞には十分だった。

ちなみに、茶道にも華道にも興味はまったくない。もっぱら道具である。それでも何となくお茶の所作とかも眺めていたので、ボク自身がどうやらそれっぽい手つきをするらしい。もっとも、見て何となく憶えたのは女性の所作である。おかげで「おかまっぽい」とか言われて、いい迷惑である。我ながら見た記憶というのは恐ろしい。

祖父は日立金属戸畑工場の前身である、戸畑鋳物でキャリアをスタートした。その後、東京の深川工場、鳥取の安木工場と進むことになる。安木で病を患い、そのまま定年を迎え、八幡に戻ってきたらしい。祖父が安木にいた頃、ボクが生まれた。ボク自身も安木に行ったことがあるらしいのだが、乳児の頃の話である。憶えてるわけがない。

後から聞いた話で、びっくりすることがあった。曾祖母が川で洗濯をしているときに、祖父(赤ちゃんの時)が川に流されたらしい(桃太郎の逆やな)。海の末裔としては恥ずべき事件である。ここで終わればよかったのだが、何と叔父(父の兄)も船で海に流されたらしい。もっともこれは学生時代だったようだが(なお悪いわ!)、捜索に一昼夜ほどかかったらしい。叔父と友人は彦島まで流されていたようだ。親父曰く「二代続けて水難の相」らしい。

とか言いつつ、ボク自身は瀬戸内海で何度も溺死しかけているので、祖父と叔父を馬鹿にはできない。とにもかくも、水難に遭っても生き延びることが出来るかどうかが重要なのだ。

さて、祖父が最後に勤めたのが鳥取県の安来である。先述したように、安来というのはたたら製鉄という伝統製鉄技術がある。曾祖父と祖父は元々近代製鉄の歴史の中を歩んだのだが、最後が安木というのはなかなかに興味深い。

たたら製鉄は、古代から近世にかけて発展した製鉄法で、炉に空気を送り込むのに使われる鞴が「たたら」と呼ばれていたために付けられた名称である。砂鉄や鉄鉱石を粘土製の炉で木炭を用いて比較的低温で還元し、純度の高い鉄を生産できることを特徴とし、近代の初期まで日本の国内鉄生産のほぼすべてを担った。

毎度怪しい事この上ない「記紀」における内容や、「多多良」という姓氏、和名の発生時期などから、すでに5世紀前後には国内で製鉄が行われていた可能性も指摘されているらしいが、個人的には眉唾物と見ている。

考古学的に信頼できる確かな証拠としては、6世紀半ばの吉備地方に遡る。出た! ここでは、最初期には磁鉄鉱、6世紀後半からは砂鉄を原料として使用していたようだ。国内で調達が容易な砂鉄を原料とすることで、製鉄法は吉備地方から日本各地へ伝播したとみられる。

また、日本の製鉄法は、大陸や朝鮮半島、あるいは世界各地の製鉄法と比較して、炉の形状が特異なのだそうだ。大陸や朝鮮半島での製鉄では、円筒形で高さのある炉が用いられているのに対し、吉備地方から伝わった製鉄法では箱型で高さの低い炉が用いられた。なぜこのような独特の技法が編み出されたのかは、解明されていないらしい。

たたら製鉄は大量の木炭を燃料として用いるため、近世以前の中国山地では、樹木が伐採された禿げ山が珍しくなかったらしい。また原料となる砂鉄を採掘・選別するための「鉄穴流し」で、丘陵が掘り崩されたり、山間部の渓流などに流出した土砂が、下流の農業に大きな影響を与えたりしたそうな。この為、鉄山師は操業に先立って流域の農村と、環境破壊に対する補償内容を定める契約を交わし、冬のみに実施することとなったようだ。

たたら製鉄の中心地であった奥出雲においては、25年から30年のサイクルで木材の計画的な伐採が行われており、必ずしも森林が乱伐されていたわけではない。また鉄穴流しが終わった後の「残丘」では、棚田や段々畑としての利用も含めて植生が回復している。やりっ放しではないワケだ。このへんの気遣いは、現代人も見習うべきである。

安木は安来鋼を旧雲伯国境地域(現・島根県/鳥取県県境)で直接製鋼法で出来た鋼を生み出した地域で、祖父がそのキャリアを終えた地でもある。島根県は古代から良質な砂鉄の産出地であり、たたら製鉄が盛んであったことは前述した通り。ちなみに今でも古来の正統的和鋼として、同地方の奥出雲町では年に数回の古来のたたら吹き製法により玉鋼がつくられ、日本刀の原料として全国の刀匠に配布されているらしい。

父が製鉄の道を歩んだのは、実に単純な理由だったようだ。恐らく社会見学科なんだろうが、工場見学で真っ赤に焼けた鉄を炉で人でかき回していたのを見て「これが男の仕事だ」と思ったらしい。単純にも程があるが、本人は大まじめだったようだ。ボクも人の事は言えないが。

父は福岡県立小倉高校を経て、九州大学工学部冶金学科に入学している。卒業後は旧日本鋼管に就職。最初は川崎工場、それから福山に新工場を建設するプロジェクトが立ち上がって、福山市に転勤してきた。ちなみに親父と一緒に福山に大挙して本社から人材が投入されたのだが、この時期に大量投入された人材の中で、最後まで福山に残ったのは父だひとりだった。現場ではほとんどヌシである。

実際「冷延の神」と呼ばれ、本社にまでその名を轟かせていたらしい。これは、妹が系列会社に入社して、そこの専務から聞いた話だ。妹と二人で「家にいなかったけど偉い人やったんやなぁ」と、ぼそぼそ喋った記憶が鮮明にある。この話を聞いたのは、多分ボクが会社を辞めた後だったと思う。

父もあまり多くを語らないので、正直なところどのような会社生活だったのかはよく分からん。それなりの紆余曲折は当然あっただろう。ただ強烈な印象に残っているのは、何かの国家試験の猛勉強をしていた時の姿だ。

新しい合金を開発したのは良かったが、特許をとるにあたって資格が必要だったらしい(どうもこれが後に「冷延の神」と呼ばれるキッカケだったようだが)。帰宅して夜遅くまで勉強している父を見て、「試験勉強いうんはこうなんか」とボケっと眺めていた。

辞書のような分厚さのでかい専門書を、何冊も机に積んで勉強していたのだが「こんな量、習得できるんか?」と、小学生なりに疑問に思ったのだが、きっちり一発で合格した。このへんはさすがである。曾祖父譲りなのかもしれない。

ちなみに、この時の専門書もボクはきっちり眺めている。眺めるだけで終わったのは、内容が専門的すぎてさっぱり分からなかったからだ。ただ図版は面白かったなぁ。特に電子顕微鏡で写された金属の写真。カッコイイのだ。また話が逸れた……。

ボクが生まれ育ったのが福山市で、主な移動手段は国鉄だったが、船便の存在は知っていた。大分・別府フェリーのCM(今もあるのかは知らん)が流れていたので、「大分には船で行けるんや」という程度の知識はあったのだ。実を言うと一度乗ってみたかったのだが、未だにそのチャンスはない。

結果論でしかないが、ボクは大学に入学するまで、瀬戸内海沿岸を遠祖よろしくうろちょろしてたわけだ。本意かどうかは分からないが、親父が福山工場建設のため福山に転勤したのが一番大きいのだが(何しろボクの旧本籍は横浜市中区なのだ)、初期の官営八幡製鐵所のドタバタぶりを考えると、親父は親父で福山でそれなりに面白がっていたような気がする。

それが証拠に、定年間近にタイに新工場を建設する話が出た時、親父は嬉々としてタイに単身赴任している。生涯にわたって、まともな単身赴任を拒み続けた人がである。福山での経験が後押ししたとしか思えない。結局、鉄一族の話にしかならなかったな。というか、瀬戸内海を股にかけた鉄の話にしかなっていない。

素朴な疑問だが、先祖はなぜ東に向かわなかったのだろう? 香川が元なら畿内の方が圧倒的に近い。対岸の山陽地方の方がもっと近いけど。実際、行ってるご先祖様もいるのかもしれないが、上記したようにボクの遠祖は西へ西へと流れて(!)いる。

正確には「西に流れ着いた方がボクの直接の祖」という言い方もできそうだが、それだけではどうも腑に落ちない。もっとも大した理由もなく流れ着いただけなのかもしれないが。この可能性が一番高そうやな。

ただ、水運から離れて本格的に鉄の専門家になったのは、曾祖父が初めてだろう。少なくとも現在の大分県地域に製鉄の歴史はない。ボクが見つけ損ねている可能性は高いが、そもそも原料である砂鉄なり磁鉄鉱が、まとまった量では産出されていないのだ。頑張って豊前まで広げても、小倉が限界である。小倉だって製鉄の歴史はない。お隣の戸畑に行けばやっと出てくるが、これは近代以降の話なのでやはり除外してもいいだろう。

ボクの身体的な特徴だけを取れば、やはり水運に関わっていた可能性が一番高い。伝書鳩並みの方向感覚、体質的に強い乗り物酔い(水運に関わる人でも体質的に乗り物酔いに弱い人はいるのだが)、発達しすぎている下半身、海との肉体的な親和性の高さ(何しろ海でアトピー性皮膚炎を完治させているからな)etc、etc…

宇佐神宮のところでも少し触れたが、ボクがお手伝いをしているのは船鉾である。これは少々できすぎな気がするが、偶然なのだから仕方がない。数ある鉾の中で、船鉾にたまたま当たるというのもすごい確率だが、奧さんに言わせれば「余所から来て、最初の年からフラッと船鉾の大工さんの手伝いなんて考えられん。京都在住でも滅多にないで」らしい。

ボクは先輩に誘われてホイホイその話に乗っただけなので、別に他意があったわけではないし、船鉾だって(というか鉾そのものも)実物を見たのは、大学一回生の時が初めてなのだ。色々言われても分かるわけがない。

京都の右も左もイマイチ分からない状態で、いきなり大工さんのお手伝いに行くのも、今考えるとなかなかだが、結局今もまだ現役でやってるからなぁ。今年は中止になったけど。35年以上やってるので、今更ヤイヤイ言われる筋合いでもなかろう。始めた時はここまで続くとは思ってもみなかったけど。

ここのエピソードだけを拾い上げれば、ご先祖様が好奇心の赴くままに瀬戸内海をうろちょろしていたのは、想像に難くないどころか、むしろ先祖伝来の性質としか思えない。たまたま辿り着いたのが大分なり、ボクの京都なりで(ボクの場合は少し事情がややこしいが)、それなりの意志を感じるのは曾祖父の八幡行きくらいだろう。

大幅に端折ったが、ここに書いたことを除けば、ボクが知っている大分に関する知識の大半は、黒田如水の中津藩だけである。もっとも、ここのおいしいネタは福岡編に持って行っちゃったからなぁ……。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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