はぐれDEATH[111]「過去の遺産」に頼りきった京都の奈落
── 藤原ヨウコウ ──

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●「東山より東には行かない」

最近よく聞く「地方発」のアイドルグループの歴史など、ボクは知る由もないし、調べる気にもならん。そもそもアイドルグループに特に興味を示しているわけではない。それでも編集長からすると、ボクは相当マニアックなレベルらしいが(笑)

アイドルグループはさておき、「地方発」にボクは正直、違和感を覚えている。乱暴な言い方をすれば東京(首都圏)に対する言葉なのだろう、というくらいの見当しかつかない。

首都圏に流入する人の多さを、ボクがことさら解説する必要はないだろう。理由は経済でほぼ間違いない。経済活動をする上で必要なのはもちろん消費者だが、情報発信という点でも首都圏は国内で群を抜いていると思う。さらに便利を通り越した複雑極まりない公共交通網も、他府県ではちょっと見られないぐらいにすごい。

ボクは「東山より東には行かない」と公言しているヒトなので、上記したことは数少ない経験と、本当か嘘か分からない報道が、ネタ元だと思っていただきたい。





今の首都圏を実際に見てるワケじゃないし、とにかく変化のスピードが早いので、今の時点ですら、どこまで的を射ているか怪しいし。

では、西日本について詳しいのかと言われると、これまた怪しいもんだし、そもそも京都市内ですら「今」となると相当危なっかしい。人混みが大嫌いなので、河原町のような繁華街に繰り出すことはまずない。

それでも、上賀茂・松ヶ崎界隈の変化も相当なもんである。裏山の一部を掘り返して浄水場設備らしきものが建設中なのだが、これ一つとっても住宅地としての需要は高まっているのだろう。ボクに言わせれば、土砂災害の原因をまた一つ増やしているに過ぎないのだが。

地方に目が「一瞬」向けられるのは、やはり自然災害の発生時くらいだろう。

今年もまた九州地方に線状降水帯が頻発しているが、昨年、一昨年の被害時の復興、災害からの防衛策が未整備な状態では、被害は繰り返されるどころか拡大する可能性すらある。怖いのは、報道が「喉元過ぎた」と思って、パッタリ情報発信を停止してからである。特に首都圏。

今回のコロナ騒動でも、首都圏発のニュースは腐るほど出てくるが(大抵ロクな内容じゃないけど)、他の地域となると微々たるもんだろう。

先日、たまたま河原町通りを原チャで通りかかる機会があったのだが、入場制限をしていると思われるお店の前にできた、人の列には驚いた。「店に入る前に感染するんとちゃうか?」と、意地の悪い目で見ていたことだけは、素直に白状しよう。

もちろん、ボクは通り過ぎるだけなので、信号に引っ掛からない限り止まりません。歩道からも後続車を気にしながら、可能な限り離れてたし。

京都の河原町界隈であのレベルなら、東京がどういう規模になっているのか、ボクには予想すらできない。そもそも目を向けてないし、行く気もない。平常時(と言ってもいいのか?)の都内ですら、苦痛なのである。大阪市内ですら、ボクには鬼門なのだ。新京極通りだって避けるのに。

ちなみに、最近の京都発の情報といえば、お祭りの自粛・中止、規模縮小化といったところだろうか。本来、観光資源である寺社仏閣等の歴史的建造物への入場制限もあれば、門前町や宿泊施設への影響も甚大で、そもそも観光客は激減しているのである。移動手段すら怪しいし。

このような時に、「京都は観光都市ではない」と言い切った、知事だか市長だかがいるのだが(もちろんボクはこのような人に投票はしていません)、現実にある観光を主として生業とする関連民間企業をどう考えているのか、是非とも教えて頂きたい。実際、ホテルもじゃんじゃん廃業している。

●「過去の遺産」と断言せざるを得ない

祭りは本来は神事なのだが、京都が観光化を推し進めたのも事実である。時代祭なんてその最たる例である。大金が動きますからね。

「歴史と文化の街」と言いたいのだろうが、ボクに言わせれば過去の遺産に頼っているのが現実である。伝統産業だってコロナ以前から、後継者がいなくてどんどん廃業している。ぱっと思いつくところでは、任天堂、ワコール、京セラあたりが気をはいてるぐらいだろう。

「過去の遺産」と断言したのは、単にかつて都として長期間存在価値を示したからだ。都だったから今に残る歴史財産が沢山あるだけで(もちろん大規模な空襲を免れたというのもあるが)、それがなければ近畿地方の単なる盆地である。良いように解釈している人が多いと思うのだが、しょせんはその程度だ。ちなみに東京も事情は似たようなもの。

平安時代以前は権力の一極化がイマイチだったために、都が転々としている。奈良なんか数えだしたらいくつ都があったのか、パッとは分からん。滋賀県にもあるし、南北朝時代を含めれば和歌山県(三重県か?)にもあったことになる。大阪にもあるしね。このへんの古代王朝の件をイチイチ解説するには、ボクではさすがに荷が重いのでパス。

要は権力と経済が直結しているだけの話だ。この辺、実に面白いバランスをもっていた最後の権力者が徳川家であろう。確かに江戸は多くの情報を発信していたし、人口も当時としては世界的に見ても規模がでかい。

各藩は参勤交代などで資金を巻き上げられているが、藩ごとの文化は今よりもはるかに良く見える。暴言かもしれないが、地方行政に関しては、幕府は各藩主(もちろん行政に伴う官僚機構も含めて)にほぼ丸投げにしていたと言ってもいいだろう。現代の日本よりも、この辺は遥かに縛りは緩かったと推測する。

これが天領となると、ある意味、無茶苦茶なのだが、この辺の事情に関してはそれこそ各地色々な例がありすぎるのでパス。それでも各地の特色なり何なりは、今よりも遥かに明白である。この辺で面白いのは、やっぱり大阪ですかね。

「商人の街」と言われて久しいが、基盤を作ったのは堺商人であり、今の大阪商人のイメージを強烈に植え付けたのは、近江商人とその末裔である。堺は戦乱で焦土と化してから影響力がやや落ちるが、それでも当時の先端技術は大いに持っていた。

江戸時代の先端技術と言えば、やはり長崎であろう。ヨーロッパからの文化・技術が細々ながらも入ってはいたものの、多くの大家を生み出す機能は備えていたと見るべきである。

各藩間の往来が厳しく制限されていたかというと、それ程ではなかったのではないかとボクは推測している。さすがに箱根の関を簡単に越えられるとは思えないが、伊勢詣りの流行や富士登山など、当時、江戸からでも行けるところはいくらでもあるし(実際、人出は多かったようだ)、金比羅さんに至っては海上交通手段さえあればすぐに行ける。八十八カ所巡りなんかも例の一つとしてあげていいだろう。

要するに、各地に様々な拠点が分散して機能していたわけだ。もちろん、参勤交代のためと言っても過言ではない、街道整備が重要な役割を持っていたのである。

時代はやや遡るが、歌舞伎の原型となったと言われる出雲阿国だって、本当の出自はともかく、京に上がってその芸を見せたのがキッカケである。当時の京はまだ政治勢力がややこしかったので、平安時代以来の文化都市としての機能は持っていたと見るべきだろう。

京が安定するのは、江戸幕藩体制が確立されてからの話だ。禁中並公家諸法度が公布されて落ち着くまでの間は、それなりにややこしかったようだが、これが天皇・公家政治の終止符を打った。そのための御法度だったのですがね。

ある意味、それまでの強力なスポンサーがいなくなったわけだが(天皇家公家の貧乏ぶりはすさまじかったようだ)、その代わりに台頭したのが京商人である。もっとも起源はもっと以前にいくらでも見つけられるとは思うのだが、京の経済を賄ったのは彼らだったと言えるだろう。あとは寺社かな?

神事祭礼となると、一極集中などほぼ無意味で、それこそ各地域に根差した上で徐々に影響力を他の地域に広げていったと見るのが自然である。この辺の伝播の仕方も相当ややこしくなるのでパス。とにかくあの手この手を使っているし、その過程で生まれた各地域の風習なども挙げだしたらきりがないだろう。

現代と比べれば確かに遅々としたものだろうが、情報発信という点では江戸時代に相当広くなっている。

現代に近い形(というか、道具は変わっても仕組みは大して変わっていない)になるのは明治時代以降だが、このへんもパス。兎にも角にもややこしいということもあるが、ボクが明治維新以降の政治・経済を胡散臭く思っているというのが本音だ。

ボクの知っている限りの話だが、戦前の下関・舞鶴の賑わいは相当なもんで、特に前者は半島・大陸への出入り口として存在感を見せている。下関(門司も)は、筑豊炭田からの積み荷が行き交う賑やかな雰囲気が色濃く反映されていた。

昭和40年頃の話なので、炭坑の歴史としては完全に末期ではあるが、それでも大したもんだった。ボクは小倉駅まで国鉄山陽本線に乗って、両親の実家に遊びに行くのが常だったのだが、関門海峡トンネルを通過する度に「一度、下関と門司の駅に降りてみたい」と思ったもんだ。どんくさいボクなら、そっこー迷子になること間違いなしなのだが、とにかく魅力たっぷりだったのだ。

魅力が失せたのは、山陽新幹線が博多まで開通してから。多分、昭和50年(1975年)だと思う。曾祖母の葬儀に「藤原の家の男代表やからお前が行ってこい」と無茶苦茶なことを言われて、当時小学三年生だったボクは新幹線なるものと初めて遭遇することになった。

生まれて初めての新幹線だったので、最初はワクワクしていたのだが、とにかくトンネルが多くて景色が見えない。肝心要の新関門海峡トンネルも、あっという間に通り過ぎてしまったので、往路だけでがっくりしたもんだ。

山陽新幹線はともかく、東海道新幹線が果たした役割は(今もだけど)、ボクのような「東京に行くのはイヤ」という者からすれば、結構なもんである。それこそ新幹線が開通する以前の、ゆっくりした速度ならまだ諦めもつきそうだが、とにかくそっこーで帰って来られるのである。

以前にも触れたが、ボクは福山市の出身だが高校が岡山だったので、共通一次試験は同級生と連れだって新幹線で岡山まで行った。普段なら鈍行なり急行なりで済ますところだが、さすがに共通一次試験となるとそうはいかない。

何しろ自宅から高校まで通うのに、片道1時間半かかっていたのだ。起床は6時半だ。それでも高校は備西地区(今でもいうのか?)という、岡山県の西側だったのでマシな方だったのだ。岡山まで行って朝から試験となると、さすがにいつもの手で行くわけにはいかない。

二次試験で京都まで出たわけだが(不合格間違いなし、という得体のしれない自信に満ち溢れていたことは言うまでもあるまい)、ボクの意志で岡山より東に行ったのは、この時が初めてである。もちろん、小学生の時の修学旅行で関西(京都、奈良、滋賀、大阪)には来ていたのだが、記憶が曖昧なのでピンと来ないのだ。

修学旅行で記憶に残っているのは、京都市内を走る路面電車ぐらいだ。これは広島市内や北九州市内で見慣れていて、なんとなく「都会は路面電車やな」と明後日の方向の感心の仕方をしたのをよく憶えているからだ。ボクの都会のイメージの矮小さがよく分かるだろう。

ちなみに大阪は、伊丹空港に行っただけなので、イマイチ記憶にない。奈良は東大寺が昭和の大修理とやらで本殿が修理中だったので、外から全貌を見ることはできなかった。金剛力士像には驚いたけど。

あの時に「教科書に載ってる写真を真に受けたらあかん。自分の目で見ないとすごさは分からん」と本気で思った。金剛力士像の印象が強すぎたせいか、肝心要の大仏様の印象はかなり薄い。

●京都の人から見ればそんなもんか

ボクもたいがい移動していない人だが、娘となると「ホンマに21世紀生まれの子か?」と疑いたくなるぐらい活動範囲は狭い。大学に入学して同級生と街に出るまで、ロクに地下鉄にも乗っていない子なのだ。生活圏はほぼ全部チャリだし。

この間、お喋りをしていた時に「おとおさんですら大学入学の試験を受けるのに、わざわざ新幹線に乗って来たのに、おねえちゃん受験の時もチャリでいったんとちゃうか?」と冗談めかして言ったら、大学の近所の有料駐輪場まできっちりチャリで行ってた(笑)

京都は大学だけは沢山あるから(ボクが知っている範囲の話だ。ボクが大学に入学した後の新設の大学は知らん)、選ぶのにはそう苦労しない。国公立だけでも京大を筆頭にボクと妻が出た大学や、娘が通っている大学も含めると、あの狭いところに6校あるのだ。

その内4校は左京区内だから、娘が勝手に決めてた「通学範囲はチャリ圏内」は余裕でクリアできてしまう。チャリ通学が無理なのは、教育大と芸大やな。

上賀茂は行政区分上は北区になるが、実際のところはほとんど左京区圏内である。まともな北区は金閣寺の方(ボクの勝手なイメージです)。娘の高校はこっち方面だったので「大学は通学がめっちゃ楽」と、これまた明後日の方向の喜び方をしている。どうもまともな親子でないことだけは確かだ。

妻は元々、中京区(ほぼ京都市内のど真ん中だ)の生まれなので、左京区に来た時は「静かすぎて落ち着かん」と言ってたくらいだ。勝手がそうとう違ったらしい。ちなみにこのヒトは、旅行や用事を除けば、生まれてから京都を出たことはほとんどない。父方の祖父の葬儀の時に北九州まで行ったのだが、ぼそっと「えらい寂れてるなぁ」と言ってた。

確かにあの頃は寂れてたけど、往事の繁栄を知っているボクは「京都の人から見ればそんなもんか」と変な感心をした。地方から見る他の地域の感想なんてこんなもんだろう。ちなみに本家の叔父は、京都に来た時に「修行してた頃の京都はなくなった」と言ってた。本家は造園業を営んでいるので、若い頃、京都まで修行に来ていたらしい。

職人さんが腕を磨くために、各地へ修業しに行くのは特に珍しいことではない。本家の叔父のように、北九州から京都へも例外ではない。和式庭園の技術なら、古都と言われるところには大抵高度な技術が残っている。技術を地方に持ち帰り、さらに発展させることも驚くことではないだろう。

地方から都市部へだけではなく、地方から地方へ、というパターンも負けず劣らずあるだろう。酒造業以外にはパッとは思いつかないけど。その主な理由としては、現地特有の原材料の存在である。特に陶器はややこしい。地質が深く絡んでくるからだ。有田焼などは最たる例だと思う。

有田焼の場合は分業化も絡んでいるので、更にややこしい。とてもではないが一人で持ち帰れるような技術ではないし、そもそも原材料が地元に豊富にあるかどうかだって重要になる。原材料がないのに、技術だけ持ち帰っても意味がないではないか。賢い人なら応用技を考えつきそうだが、今ボクが思いつく限りそういう例は見当たらない。

スケールがいきなり大きくなるが、空海はこれ以上のことを一人でやってのけている。もちろん、地元の多くの人に協力してもらってだが、作らせっぱなしでは技術を憶えられるはずはない。

空海は日本史上最大の、文化的巨人であろう。真言だけでもややこしいのに、「よくもまぁ」と感心するどころか舌を巻く。空海が持ち帰ったたとされる技術はあまりに多岐に及ぶので、詳細はネットで調べて下さい。

ちなみに讃岐うどんの原型であるうどんも、空海が持ち帰ったと現地では言われているそうな。

藍甕のような化け物クラスの陶器を焼くとなると、まず思い出すのが大谷焼だろう。二人掛かりで、ろくろを回す人と製陶をする人のチームプレーになる。ここだけ取り出せば、他の地方へ技術を持ち帰れそうな気もするのだが(ボクが無知なだけで実際にあるのかもしれない)、そもそも藍甕は讃岐地方の伝統産業である藍染めに必要不可欠なもので、今でも盛んに製造されている。

原材料である藍の生産に関しては、嘘か本当か分からない逸話がある。江戸時代、藍染めの生産をほぼ独占していた蜂須賀家は、他家の大名から藍の種を譲ってくれないかと、よく相談を受けたらしい。もちろん、断れば角が立つので譲るわけだが、ここでちょっとしたことをしている。

種を燻って(焼くんだったかな?)、殺してしまったものを渡すわけだ。もちろん、そんな種で発芽するわけはなく、「やはり藍染めは讃岐」ということになったらしい。しつこいようですが真偽はわかりません。

上記の例はともかく、特産品でも技術交流が図られたものはありそうだ。金沢の金箔作りがその一つだが、金を限界まで薄く延ばすという一見単純な工程も、習得するには相当時間が必要である。今は機械を使っているが、昔は木槌(だったかな?)でひたすら叩く、という恐ろしく時間がかかる上に神経を使う事をしていたようだ。

金属を薄くするのに、叩くは当たり前なのだ。鉄などは整形の際にも、叩いて延ばしながら形を整えていく。本当はここまで単純な話ではないのだが、とにかくひたすら叩いて延ばすに特化したのが、金箔作りであろう。

もっと狭い地域間の技術交流に関しては、例をあげだしたら本当にキリがないのでやめる。手に負えない。そう言えば、金沢も空襲を免れてたな。

「特産品」と他の地域から呼ばれるものは、地元の人にとっては生活の重要な糧である。そういう意味では、日常とやはり密接に結びついていたと言うべきだろう。

生活に密接しているといえば、話し言葉もやはりそうで、地方と言えばまずその土地の言葉が、真っ先に出てくるのが自然だろう。これがまた、実にややこしい。

●キレイな京都言葉の使い手が減っている

北九州市の方言(もちろんボクが知ってる範囲内だし、その記憶は相当昔なので今は違うかもしれない)は純粋な福岡弁(博多弁と言うべきなのか?)とはまた少しニュアンスが違う。

関西弁との差は歴然としているものの、ボクのように怪しげな言葉を使う人からすれば、幼少期に聴き慣れている分、違和感はそうない。向こうに行けばボクの話し言葉も変わるしね。

昨年8月、全英女子オープンでみごと優勝した、渋野日向子さんの岡山弁(彼女のは若干、北部寄りだ)や、ばっしょーちゃん(ばってん少女隊という福岡をベースにしているアイドルグループ)の言葉を聞くと、変に安心したりする。むしろ、標準語とやらの方が落ち着かない。標準語と言うよりも、NHK語と言った方がいい気がするのだが、これは横に置く。

首都圏だって地の人達の言葉を聞けば、標準語とはやはりニュアンスは相当違う。むしろ、いわゆる標準語に近い発音をしている人は「どっかから出てきたな」と見当をつけてしまうのだが、まぁ外れたことはない。

いわゆる関西弁だって、地域差は相当ある。大阪では大阪弁と一括りにできないくらい、色々なバリエーションがあるのだ。これが兵庫となると、またまた変わってくるし、和歌山となるとこれまた違う。

さすがにこの違いに気がつくのには、時間がかかったのだが(何しろ聴き慣れない関西弁とやらで、当初はパニクっていたのだ)、30年以上住んでるとさすがに違いは分かるようになる。もっとも、分かるのと使えるのは違いますがね。

このへんの言葉遣いに関しては、以前少し触れたので相当はしょるが、娘の京都言葉だって、相当インチキ臭いのだ。何しろインチキの総本山であるボクがいるからな。それでもボクに比べれば、はるかにキレイな言葉を使える。もちろん、他の地域の言葉は無理です。

これまた以前に少し触れたが、そもそもキレイな京都言葉の使い手が減っているのだ。かつての鉾町の旦那衆や大工さんの言葉を知っているだけに、この差は歴然としている。妻ですら、「大阪の言葉に相当浸食されとる」と言っているぐらいだ。本家の叔父も同じことを言ってた。

本当にちょっとしたところで、地の言葉は出るのだ。親父ですらそれっぽく標準語らしき言葉を使っているが、よくよく聞けばきっちり福岡弁のニュアンスが残っている。間の取り方とかもそうである。タモリの話し言葉を聞いていて、「どっかで聞いたことがあるニュアンスやなぁ?」と思っていたのだが、親父と同じだったことにしばらくして気がついた。あの人も福岡出身ですから。

実際のところ、ボクにゆかりがありそうな場所というのは、それぞれ言葉が違うし、「地方」というのはそんなもんだと今でも思っている。言葉が徐々に近隣地域から影響を受けて変化するのも、ボクに言わせれば「あり」である。人が行き来すれば、そうなるに決まってる。

東京という場所にいろんな地方から人が集まってくれば、最大公約数的な言葉になるのかもしれない。あくまでも「かも」です。

そもそも明治以降は、薩長閥が幅をきかせていた場所なのだ。今でも名残はあるが、特に薩摩藩出身者は維新前からコミュニケーションには苦労しただろう。「薩摩の言葉が人工的に作られた方言である」という説もあるぐらい、近隣の熊本や宮崎の言葉とも大きく違うのだ。

●自分のことは自分が一番よく分かっていない

大分話が逸れたが、本題はここからだ。「地方発」をするのはいいが、受け取る側がまともにいないと、「地方発」そのものが成立しないのは言うまでもない。受け取り側としては、やはり都市部が大きいだろう。地域内ではほぼ意味がない。

妻も娘もそうなのだが、実は二人とも京都市内のいわゆる観光スポットには、まず足を踏み入れないし、学校の授業でもない限り神社仏閣にすら足を運ばない。「わざわざ好きこのんで観光客の皆様の人混みに行かんでも」という心理が大きく働いていると思うが、実際はこんなもんである。ボクだって知らないところの方が圧倒的に多い。

見たとしてもせいぜいが通り過ぎた時にチラ見する程度で、本格的に足を踏み入れるとなると、よほどのことがない限りあり得ない。なにしろ日常の風景だし。上賀茂神社ですらロクに行ったことがないのだ(笑)。

下鴨神社だって、最後にいつ行ったのか記憶にない。たぶん学生時代に、夏の古書市目当てで行ったのが最後だろう。嵐山周辺はよほどのことがない限り、通り過ぎることすら避ける。

ちなみに鞍馬にはちょいちょい遊びに行きます。交通手段が叡山電鉄鞍馬線くらいしかない上に、道路も昔のままなので、気楽なもんだ。

それでも観光シーズンは避けますね。というか、鞍馬寺にいってるわけじゃないから。ただ山に登って涼んでいるだけの話だ。そして、なぜか貴船神社は素通りだ。まだ行ったことないんじゃないかなぁ?

東寺にも行ったことはない。毎月開かれる市には興味津々なのだが、北野天満宮の市を二〜三回経験しているので足が遠のくのだ。

「そうだ 京都、行こう。」のポスターを、新幹線の中や東京でよく目にしたが、ボク的には「そろそろ京都に帰ろう」にしかならない。が、首都圏の皆様は口を揃えて「京都はいい」と言う。遊びで来るからいいだけの話で、住むとなると話はやはり別ですよ。

「四季の移ろい」と言えば聞こえはいいが、実際は「夏の蒸し風呂、冬の底冷え」という、あたりまえすぎる盆地特有の性質をきっちり持ってるし。

上記したポスターは記憶に間違いがなければ、JR東海のものだっだと思うのだが、JR西日本にも似たようなのがあるんかなぁ? ボクが気がついていないだけで、東京都内にはこの手の観光誘致ポスターが沢山あるのだろうと思うのだが、これを「地方発」と言うのには少々無理がある。

地元民にしてみれば日常と密接しすぎていて、何をどう発信すれば魅力的な効果があるのかなど分かるはずもなく、当然のことながらこの手の企画には外部からブレーンを呼ぶことになる。自分のことは自分が一番よく分かっていないのと同じだ。もちろん、ボクも同様である。

●「観光被害」なるものの元を辿れば

話がまた逸れるが、ボクはボクの絵のどこがいいのかさっぱり分かっていない。デビュー前後は営業と称して、ポートフォリオを出版社に持ち込んでいたが、よくよく考えればビラ配りと大差ない。

これが今となると、ポートフォリオはビラにすらならないのだ。「ポートフォリオは郵送で」と断られることもあるくらいだ。それだって、どれくらい送られているのか想像もつかないし、効果があるのかと言われると、かなり疑問である。

デザイン事務所に至っては、もうほとんど信用していない。成果品を見ればどうデザインしそうかくらいは見当がつくし、「恐らく手に負えんやろうな」と思い込んでしまうからだ。向こうは向こうで警戒すると思うけど。加えてネットの普及である。特にSNSの効果は大きいようで(あくまでもボク個人の推測です)、絵に関して言えばむしろこっちの方が効果的かもしれない。やってないけど。

話を戻すが、観光地の飲食店や関連店舗は「インスタ発信OK」とわざわざ銘打っているところも多く見られる。発信する手間は省けるし、それを見てくる新規のお客さんだって少なからずいるのだから、当然と言えば当然だろう。

便利と言えば便利だが、ボクはネットの情報を信用していないので、ボク自身がこれをすることはほぼない。告知するようなことも特にないし。これを情報発信といっていいものか、かなり疑問だが、ここまで来るとモノによっては世界規模になる。

コロナ以前の京都では「観光被害」なるものが問題になっていたが、遡ればそれこそ無節操に観光誘致をしただけの話で、釣られて来た人達のマナーだけを殊更に取り上げて、文句を言うのも大人げないと思う。

もちろんマナーが悪い方にも罪はあるが、このような人は別に旅行先だけでなく、日常生活でも厄介な人の部類に入るだろう。ちょっとした気遣いさえあれば、どこに行こうが大きな問題を起こすことはない。

風習の違いはあるかもしれないけど、そんなことは教えればいいだけの話だ。簡単じゃないことは、百も承知してますがね。それこそ、発信元や地域にも責任と義務はある、というのが大人の態度と言うべきだろう。

いかん、また大人批判が始まりそうだ。危険なのでこのへんにしておこう。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com