はぐれDEATH[106]怪しい記憶と怪しい知識だけの九州編vol.1 思ってたよりも知らなかった福岡県
── 藤原ヨウコウ ──

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■はぐれが語るうろおぼえ福岡の歴史

ボクの福岡は、とても狭いのである。中州だの天神だの言われても、さっぱりピンと来ないし(地名だけはさすがに知ってるけど)、そもそも福岡と博多だってごっちゃになっていたのだ。

福岡市内に博多があるのは周知のことだと思う。なぜこんなややこしい区分があるのか、長年疑問だったのだが、ふとしたことでナゾが解けた。福岡藩の存在である。

そもそも博多は堺と同じく商業の街であり、武家とは一線を画していたのだ。堺同様、戦国時代にはしっかり焼け野原にもなっているが、九州の諸大名が奪い合った結果でもある。それくらい栄えていたわけだ。

豊臣家時代には小早川家が治めていたらしいが、江戸時代になって黒田長政が入部し、はじめて福岡藩が成立する。この時「福岡」という言葉がこの場所に登場するのだが、この地名は元はと言うと岡山の黒田家に所縁の深い地名だったようだ。





長政の先代に当たる黒田如水(官兵衛の方が通りがいいのか?)の祖父が、岡山出身だったと思う。如水その人は播磨国で少ない軍をやり繰りして、周辺諸大名はもちろん、秀吉相手でもしのぎにしのぎまくったわけだが、最終的には降伏している。が、この時の実績を小早川氏が大いに買って、織田家に仕えることになったようだ。

結果、街としての「福岡」は武家が住む長政が整備した福岡と、商家が集う博多の二極化になったらしいが、ここだけを取れば別に珍しいことではない。江戸だってそうだし、京都ですら武家ではないが公家と商家という区分はある。

普通ならどっちかの名前に何となく吸収されそうなもんだが、そうならなかったのは珍しいだろう。

話をややこしくするようで申し訳ないが、北九州市だって元はと言えば門司、小倉、若松、八幡、戸畑の五市が合併して出来た街である。ボクはクセで簡単に八幡と書いているが、北九州市の西の方に位置する。

話を戻す。長政の父・如水は当時の主君・小寺政職に、長篠の戦いで武田勝頼を破っていた織田氏への臣従を進言し、入れられたそうな。如水が信長勢として様々な戦に従軍することになるのだが、中国地方の転戦には秀吉に知恵を授けていたようだ。

城の周囲を囲んで兵糧攻めにして降伏させたり、備中高松城の水没作戦(?)の折には、なかなか上手く水をせき止められなかった秀吉に、船に土を積み込んでこの船を沈めるよう献策したという伝承もある。

如水の戦上手は戦そのものよりも、外交にあったと思われる。とにかく元々弱小国出身なので、ありとあらゆる手を使いまくったようだ。それでも戦となると、奇襲・夜襲を中心に防衛にしながら、話し合いの決着も同時に進めている。

人柄もあると思うのだが、いわゆる裏切り行為らしきことを、ボクが知る限りやっていない。秀吉との関係は当初敵対的なものだったようだが、信長に臣従してからは特に秀吉に目をかけられている。

中国大返しの折も、毛利氏とさっさと和睦して(如水の提案があったという伝承も)、天王山・山崎にまで秀吉と共に軍を進めて明智勢を蹴散らしている。

ちなみに大阪城の縄張りも如水が行ったらしい。秀吉の遠征には小牧・長久手の戦を除けば、ほぼ皆勤賞ものである。いずれの戦でも徹底的な殲滅戦を挑んだ形跡がない。もちろん当時の秀吉軍の規模もあるだろうが、どちらかというと外交で、戦が長引いたり犠牲者が出るのを避けるように献策していたように思われる。小田原攻めでも北条氏に降伏の談判をしたのは如水だという。

先にも書いたが、元々弱小国の一部を治めていた人である。犠牲を最小限に抑えたり、外交で上手に立ち回らないと、あっという間に国は滅びる。この時の経験が後年に生かされたのだと思う。

このへんの如水の機微は、家康も認めていたようだ。あのややこしい九州を治めるにあたって、黒田長政を福岡に転封させているのが(元々は如水が大分の中津藩を起こしている)そのいい例だろう。

如水は関ヶ原の戦いの折に、息子・長政を関ヶ原に送り込み、自身は中津城から九州全土に眼を光らせ、西軍敗北の報を受け取るや、如水は藤堂高虎を通じて家康に領地切り取り次第を申し入れ、転戦を繰り返し、家康と島津義久との和議成立に至るまでの間に、なんと水俣まで進出している。

もちろん、本来の主戦力は長政と共に関ヶ原に送り込んでいるので、またまた寡兵による転戦になったらしい。この時の転戦でも外交政策は生かされていたようだ。でなきゃ、短期間で九州を東西に横断するような勢いの転戦など、不可能でしょう。

ちなみに、島津義弘が関ヶ原で敗北して国に帰る途中の、国東半島沖の豊後水道付近では水軍が毛利の軍船(?)と戦い、焼き沈めている。ちょっと意外かもしれないが、秀吉時代に朝鮮の役に従軍しているので、船戦も手慣れたもんだったのだろう。

福岡への転封はもちろん小早川家の転封もあるが、とにかく島津という厄介者がいるのだ。加藤清正に熊本を任せ、その後詰めに黒田家を置くのは、不思議でも何でもない。加藤家は後に転封・取り潰しとなり、代わりに細川家が入るが、対島津としての熊本藩の基礎は、清正が一代で作ったようなものである。

更に話をややこしくするのがお隣、佐賀鍋島藩である。お家騒動も多いのだが、あの『葉隠』が生まれた場所である。見ようによっては物騒極まりない。そうなると家康時代の福岡藩の、戦略的な位置づけは相当重要になる。

これはただの想像だが、家康としては九州の要に黒田氏・加藤氏、北陸の要に前田家、東北の要に伊達氏を重用した気がしてしかたがない。いずれも外様大名だが、名将ぶりに関しては、ぼんくらな譜代よりもよほど頼りになる。

戦略上の要所に敢えて外様大名をおいたのは、それなりの理由があったと考えるべきだろう。関ヶ原直後の九州鎮定戦を考えれば、むしろ当然である。戦場も島津の戦の仕方も知悉しているのだ。これ程、強力な味方はあるまい。

長政の奧さんも(最初の奧さんとは離縁して再婚という形になったようだが)家康の養女で、この辺の政治的な婚姻でも家康の気の遣いようはうかがい知れる。単なる政略結婚とは思えない。一時期、長政は家康のところに人質として差し出されていた時期もある。人柄も互いにそれなりに知っていたと見るのが自然であろう。

ちなみに加藤家の後に入った細川家も、実力は相当高かったと思われる。熊本に入る前は小倉藩を治めていたのだ。小倉藩は九州と本州を結ぶ九州側最後の砦である。生半可な大名を家康が置くとは到底思えない。ちなみに小倉藩の元になったのは、如水が治めた中津藩である。細川家の代に加増され小倉城を築いて小倉へ移動したらしい。

九州の南端に封じ込めたとはいえ、島津の脅威は相当なものだったのだろう。本来なら関ヶ原の後にそっこーで取り潰されても不思議ではないのだが、のらりくらりと見事に受け流して生き延びた、しぶとい大名である。家康にすれば下手に刺激して再び戦乱を起こされるより、封じ込めた方が安全と判断したのだろう。

話は少しずれるが、ボクは家康は高く評価しているが、秀忠の方は武人としても政治家としても、現総理大臣レベルと大して変わらないと思っている。愚鈍なくせに疑り深く、強欲にしか見えないのだ。

豊臣家滅亡の大阪の陣だって、ボクは秀忠の意向の方が強かったと見ている。家康は減封して大阪城には留め置く策を持っていたと思うのだが、残念ながら秀忠と淀君の二人を中心に、悲劇的な戦は起きてしまった。家康としては歯痒かったのではないだろうか。

それが証拠に冬の陣では、本格的な戦闘を命じた気配がない。国崩しという当時としてはスケールのでかい大砲で大阪城を砲撃しているが、これもどちらかというと脅しの意味合いが強かったと思われる。囲むだけ囲んで高みの見物、といったところだろうか?

冬の陣で被害を出している戦闘は、ことごとく秀忠の下知によるもので、例の真田丸攻防戦はその典型である。他にも例はいくらでもあるのだが詳細は省く。だからと言うわけではないが、夏の陣では逆に兵を恐ろしく早く動かし(もちろん秀忠は取り残されている)、決着も短時間で終えている。

追い詰められた豊臣側の都合もあったのだろうが、さすがの家康も嫌気が差したのではないかと思われる程の早さである。まともに会戦して家康に勝てる武将は限られているだろう。秀吉ですら、小牧・長久手の戦では辛酸をなめさせられているのだ。

話が大夫逸れた。面白いことに、九州は東西で藩の置き方が極端に違う。大分・宮崎は細切れに大名を置いているのだが、西側は天領にするか、上記したように比較的大きな面積を各家に任せている。

これも島津対策なのだろうが、ここら辺はどういう意図があったのか、イマイチよく分からない。現在の長崎県は細切れにしてるんですがね。そういう意味でも、福岡藩と肥後藩は特徴的で別格である。

ちなみに佐賀鍋島藩は藩内で四分五裂していたので、後世になれば脅威はそれほどなかっただろう。

元々、龍造寺家の家臣として活躍した鍋島家だが、肝心要の当時の当主・龍造寺隆信が、島原半島の戦で島津氏・有馬氏の連合軍との戦いで敗死したために、その遺児である政家の補佐役として実権を握ったことをきっかけに、佐賀鍋島藩のややこしいお家事情は振り回されることになる。詳細は割愛だ。ややこしいにも程がある。

これまた蛇足になるが、西南の役でなぜか西郷隆盛は、厄介な熊本方面から東上しようとしている。戦術的には日向灘を上がり、四国を経由して東上する方が圧倒的に楽なはずなのだが。

実際、この案は提案されているが、合議の末に熊本ルートを選んだようだ。それでも熊本城を迂回する、という手はあったと思うのだが、がっつり熊本城を正面突破しようとして足止めを食らっている。

後の戦況を見ても自殺的といってもいい。政府軍は熊本鎮台に谷干城を司令官に、参謀長の樺山資紀をはじめ、児玉源太郎、川上操六、奥保鞏、大迫尚敏と、後の日清・日露戦争で辣腕を振るう人材を、ちゃっかり送り込んで万全を期している。

ややこしい上に攻略が難しい熊本城を、わざわざ正面突破しようとしたのは自殺行為としか思えないのだが、このへんは闇に包まれている。

■ボクが知っている福岡

話を福岡に戻す。上記したように、博多は元々商業都市として栄えていた場所であり、独立の気風も強かったようだ。大陸との交流も盛んだったようで、商都・博多の基礎はここにあると言ってもいいのではないだろうか。

イマイチ断定できないのは、上述したように福岡(博多)に関するまとまった実見録が皆無だからだ。そもそも太宰府ですら、イマイチよく分かっていないのだ。高校の教科書に載ってる程度(特に日本史)の知識量と思って頂ければ大ハズレではない。酷い話、中州を境に北側が博多(中州も含む)、南側が福岡と呼ばれているのがせいぜいである。

安土桃山時代から江戸時代にかけてのネタが大部になったが、実は博多は縄文時代から地層に沿ってきれいに遺跡が残る、珍しい土地でもある。古代史を研究するにはもってこいで、やはり大陸や半島との深い関係性を、日本側で研究するとなると重要な場所であろう。そもそも、九州全土が古代史のメッカなのである。

倭と呼ばれたころの日本の歴史を振り返れば、ボク的には畿内よりも明らかに九州の方が面白い。特に眉唾物の「記紀」を研究するなら、ボクは迷わず九州を選ぶだろう。史料が無茶苦茶だから想像のしがいがあるというものだ。ふざけてると言われても仕方がないが、そういう頭の構造なのでこればかりはどうしようもない。

ちなみに邪馬台国の所在についても、どこにあろうが知ったこっちゃない。邪馬台国への道程を記したあの有名な記述を見る限り、ボクはどこかで情報源になった人が交代したか、敢えてぼやかしたか、間違って伝わったか、そのようにしか思えないからだ。

邪馬台国を一国と見るのすら危険だと思っている。複数の国にまたがっているのを、案内人が上手い具合に説明できなかったか、変な具合に伝わった程度としか思えない。

個人としての卑弥呼すら、実在は怪しいと思っている。「卑弥呼」と呼ばれる神職名(女性が巫女として権力の中枢にいるケースは、日本の古代史ではそう珍しいことではない)の可能性の方が高いと思っている。

実はおねえちゃん(編集部注:筆者の娘さん)に大学受験の折、九州大学文学部史学科を薦めたのだが(なんと旧帝大にもかかわらず、偏差値は府立大の史学科より低かったのだ)「チャリ圏内」を強固に主張するおねえちゃんは、頑として受け付けなかった。

ボクも冗談半分だったので別にイイのだが。おまけに志望校にさっさと受かっちゃったしね。偏差値だけを見れば、世間様的にはやはり日本史と言えば京都らしい。

ボクはおねえちゃんほど成績がよかったわけではないので、頭から「九州大学などとんでもない」とさっさと逃げたが(ちゃんと勉強せぇへんからや)、成績がもう少しよければ、九州大学の選択はアリだったと思う。親父の母校でもあるし。

もっとも、下宿をする気は当初からまったくなかったので(おねえちゃんのことは言えない)、浪人後は東京栄転が決定していた親父について行って、関東の大学に潜り込むつもりだったのだ。ちなみにボクが浪人することは、ボク本人が覚悟していたので特段驚くことではない。むしろ明後日の方向の母校に、合格してしまったのが計算外だったのだ。

それでも直方の一族がいることを考えれば、ケースによっては九州大学という選択肢は充分あったのだ。例の双子の従姉妹は、両方とも直方の実家から福岡女子大学に通っているので、言うほど遠いわけではない。叔父の一人も福岡市内に居を構えている。

さすがにおねえちゃんの「チャリ圏内」には遠く及ばないが、高校時代の長距離通学をほぼ皆勤賞で行っていた当時のボクには、大した距離ではない。運転免許を取得すれば、この距離はさらに短くなるし、自由もきく。

福岡市内を知る機会をみすみす捨てたようなもんだ。まかり間違って九州大学に進学していたら、当時、存命だった母方の祖父がボクにどんな悪知恵を授けたか……歴史が専門だったので、ロクなことにならなかっただろう。

それこそあの土地に居座って、教職の道を歩んだかもしれない。まさか、おねえちゃんまで日本史に行くとは思いもよらなかったのだが、あの土地にいたら曾祖父から数えて5代目まで(間の1代はないけど)、日本史に携わることになったかもしれない。

もっとも、歴史の面白さをボクがおねえちゃんに露骨に示唆したことはないので、勝手にやるだろう。実際、今もあの子は勝手にやってるし、勝手に選んだ結果が日本史だったのだ。しかも、よせばいいのに古代史を希望している。

何かいらんことを教えたかなぁ? イマイチ記憶にないのだが。思い当たる節があるとすれば、ボクの蔵書ぐらいだな。いらん本がやたらとあるし、勝手に読んでても不思議じゃない。家にある本は好き勝手に読めるようにしてある。特に禁止するようなことでもないでしょ?

結果的にボクは技術屋と歴史屋のいいとこ取りをして、京都でエカキになるというそれこそとんでもないことをしでかしているのだが、これまた遺伝の一言で片付けるに限る。それこそ、祖父が存命だったら両手を打って無責任に(!)喜んだことだろう。

実際、祇園祭の大工さんの手伝いがなければ、福岡にボクが一人で移住することはアリアリなのだ。大工さんのお手伝いにかこつけて、京都でもたもたしている内に会社を辞めて、エカキになって、結婚して、おねえちゃんまで生まれたので身動きがとれなくなっているだけの話である。

おねえちゃんにはまだ話していないが、実は上賀茂近辺の雰囲気は住宅の量を除けば、直方の一族伝来の土地によく似ている。上賀茂も十分過ぎるぐらいダラダラしてるしな。奧さん(編集部注:筆者の配偶者)が生まれ育った中京区とは、比べものにならないぐらいド田舎である。

左京区にこだわったのは、ボクのわがままである。奧さんはそれにつき合ったに過ぎない。とにかく喧噪からは離れていたいのだ。更に言えば栄枯盛衰からも、できれば距離をおきたいくらいだ。

本業がイマイチ振るわない今だから、そう思うのかもしれないが。もっともボク自身に栄光の歴史があったかと問われると、そんなものは皆無である。何となくダラダラ生きてたらこうなっているだけの話だ。痛い目には散々遭ってるけどね。

まわりがどう見てるのか知らないが、ボク自身は安定第一の安穏とした暮らしが目標な人なのだ。やってることは無茶苦茶にしか見えないだろうけど。


福岡についてボクが知っているのは、ほぼこれだけである。話の都合上、父方の方は相当割愛しているが、こっちは大分の中津あたりから曾祖父の代に出てきたらしい、という程度の知識しかない。

そもそも親父だってよく知らないのだ。それでも黒田如水のエピソードが出てきたのは、中津が絡んでいるからだ。知らなきゃ相当調べ物をしなければいけないところだったのだが、おかげで助かった。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com


編集部注:筆者は以前から配偶者を「奥さん」、娘を「おねえちゃん」と表記する。いちいちカッコで説明してきましたが、きりがないので今後はしません。こういう人もいるんですね〜。