はぐれDEATH[107]怪しい記憶と怪しい知識だけの九州めぐり vol.2 偏るにも程があるけど興味津々な長崎
── 藤原ヨウコウ ──

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長崎は、東インド会社との交易を機に、歴史の表舞台に突如として現れたように思われるかもしれないが、大間違いである。というか「長崎県」で括ると、本当にとんでもないコトになる。

現在、長崎県に含まれるのはかつての肥前国、対馬国、壱岐国である。実はボクは古い呼称の方が馴染みがあるし、ピンと来やすい。古代史の本を漁ってばかりなので、こういうコトになるので、逆に現在の地名となると「え? ここ、こうなってたん???」となるケースの方が多い。

例によってちょいちょい脱線するとは思うのだが、今回は可能な限り長崎市を中心に稿を進めたい。他の地域を入れ出すと、本当にとっ散らかるのでヤバいのだ。長崎市だけでも十分過ぎるくらい、ネタがテンコ盛りなのに。

佐世保、島原、諫早、大村、平戸、松浦、対馬、壱岐、五島、雲仙とか入れ出すとそれこそ古代史から近代まで、余裕でカバーできてしまう。現代が抜けるのは、完全にボクの興味から外れているからだ。

特に倭寇絡みとなると、ボクが一人で盛り上がりすぎそうな気がするので危険である(笑)。松浦がモロにそうなのだが(松浦党という有名な海上一族がいたことで有名。玄界灘から瀬戸内海、東シナ海、日本海に至るまでしっかり倭寇もやってます)、本当にややこしくなるのでパスだ。







長崎市が最初にボクの記憶に刷り込まれたのは、1945年(昭和20年)8月9日午前11時02分の、米軍による原子爆弾投下の惨劇である。詳細はWikiに譲る。
https://ja.wikipedia.org/wiki/長崎市への原子爆弾投下


ボクは広島県福山市出身なので、反核平和教育を小学生の頃から受けている。受けているというか、ほとんどトラウマレベルで刷り込まれているので、当然のコトながら長崎市の被曝についてもそれなりに詳しい。

とにかくあの地形を考えて欲しい。といっても、分からないか……。

投下地点は(長崎市松山町171番地)の上空503m±10m。GoogleMapで検索してみれば一目瞭然なのだが、広島市と違いあからさまに四方を山に囲まれている。爆発の威力そのものの逃げ場がないのだ。おかげで広島市ほど被害が拡大しなかったと言われているが(爆風も熱風も拡散しづらいから)、たまらないのは盆地状の平地部である。

広島市の投下時もそうだが、当初の投下候補地は止せばいいのに小倉市である。そう、親父が住んでいた場所だ。厚く雲がかかっていたため、たまたま二回とも難を逃れているが、予定通りならボクはこの世に生まれてなかった可能性が大だ。

小倉市の方が長崎よりも平野部が広く、遮るものが無かったので、現在の北九州市全土が焦土と化していた可能性があるらしい。この辺はWikiにお任せ。

逆の言い方をすれば、被曝のせいで生まれなかった人達もいるわけで、こういうコトを想像すると正直複雑な気分になる。「考えすぎ」と思われる方も少なくないと思うが、何しろ世界史上実戦で使われた、たった二回の原子爆弾投下をことごとく天候のおかげで、結果として回避しているのだ。

小学校の時の平和教育は、広島県の場合、夏休み中の8月6日と9日が登校日で、この二日間に止めを刺すような、キッツい内容の濃い授業を毎年受けていた。

怖いのが大嫌いなボクは、写真の資料から特に目を背けていたのだが、ある時「周囲の山がほとんど吹っ飛んでいない」ということに気がついた。もちろん斜面に面している住宅はキレイさっぱりなくなっているのだが、山の形が露骨に変わった形跡はほとんどないのだ。

核爆発時の「キノコ雲」のメカニズムについてはWikiに譲る。変な解説をして誤解されるのも困るので。Wikiも充分怪しいけど(笑)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%8E%E3%82%B3%E9%9B%B2


一応、長崎原子爆弾投下直後のオリジナルの動画リンクを貼っておく。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nagasakibomb

空気が短時間で急速に上昇すれば、地表部での気圧が下がるのは当たり前なので、こういう現象が起きるのは不思議でも何でもないのだが、ほとんど盆地状の場所でこんなコトが起きれば凄まじいことになる。実際、そうなってるから。

それにしても不思議なのは、山の変形の少なさである。リンクの写真は原爆投下直後のものだが、段々畑のあとまでキレイに残っている。
http://historyjapan.org/wp-content/uploads/2016/07/cc2871ee406ffe8ac13638e0c51a9b5d

長崎に投下された原爆「ファットマン」はTNT火薬換算で22,000t(22kt)相当らしいのだが、エネルギー量がでか過ぎてピンと来ない人も多いだろう。もちろんボクもピンと来ない。それでも広島の「リトル・ボーイ」の、1.5倍相当のエネルギー量を持っていたらしい。

前回の福岡編でチラッと触れたが、炭鉱内で使われるダイナマイトが、RE係数によるTNT火薬との比較表があるので、これまたWikiから引用しておく。
https://ja.wikipedia.org/wiki/RE%E4%BF%82%E6%95%B0


TNTを1とした係数だ。ダイナマイトの種類にもよるようだが、軍事用を除けば威力は大体4〜6割減である。ボクとしてはここら辺から想像を巡らせるしかないのだが、資料を色々漁った結果、爆心地から直径2000mが被害を受けているようだ。

ついでにざっと調べたのだが、山そのものの大規模な崩壊は報告されていない。エネルギーの拡散の仕方と見るのが妥当なのだろうが、これはどうも原子爆弾のエネルギーもさることながら、地質も絡んでいるようだ。

爆破する高度にもよるが、1945年7月16日ニューメキシコ州で行われたトリニティー実験場(初の核爆発実験)では、高さ30mの地点に釣り上げられた状態で行われているが、記録によると爆心直下の地面は3m程しかえぐれていなかったそうだ。ちなみにこの時できたクレーターは直径330m。

こちらは実験直後の写真のようだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E5%AE%9F%E9%A8%93#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Trinity_crater

ちなみに、この時に使われたものと同型の爆弾が「ファット・マン」である。ちょうどイイ具合に(?)、TNT100トン(!)を用いた予備実験でできたクレーターが右下にあるので、比較するには適しているだろう。

我々が目にしやすいクレーターといえば、やはり月面のそれだろうが、明らかに月面のクレーターの方が大きい。単純比較するのは無理がありすぎるのでサラッと流すが、隕石の衝突エネルギーと、人工的な核分裂エネルギーではここまで差が出る。加えて大気圏の存在もあるだろう。あればあるでややこしいコトになるが(大気の摩擦とか)、取り敢えずここではパスだ。

少し古い記事だが、地球上に現存する隕石が衝突してできたクレーターに関する記事のリンクを貼っておく。
https://gigazine.net/news/20080724_major_impact_craters/


この記事の冒頭で紹介されている「バリンジャー・クレーター」の衝突時の衝撃は2000万トン(!)のTNT火薬と同じ威力らしいのだが、威力だけを見ても「ファットマン」の100倍。隕石の大きさによるところが大きいと思うが、爆発エネルギーと衝突エネルギーはここまで露骨に違う。自然のエネルギーの凄まじさがよく分かるだろう。

SF小説『月は無慈悲な夜の女王』(ロバート・A・ハインライン著)では、地球の衛星軌道上から「岩石落とし」をして、地球政府から「核攻撃である」と非難されたりしている。

月面のカタパルトから任意の岩石を発射し、地球の衛星軌道上に並べて(!)、「ほんの少し押してやれば」(ハヤカワSF文庫・矢野徹の訳)、黙ってても重力に引きずられて地上に衝突するという仕掛けだ。もっと有名なところでは、『機動戦士ガンダム』でジオンが使った「コロニー落とし」であろう。こっちはもっと雑なやり方だが(!)とにかく、コロニーと岩石じゃ規模が違いすぎるからなぁ……。

ちなみに前者は低コストで(岩だからね)任意の場所に精密射撃を可能とするという、当時としてはかなりアクロバティックなアイデアを見事に昇華させている。超高性能コンピュータ(文中では一貫して「コンピュータ」を「計算機」と標記しているが、中身はAIクラスのハイパー・コンピュータである)があらゆる条件を計算して、場合によっては目標からわざと外して海に落とすということまでこなしているのだが、この小説で頻繁に使われる言葉が「重力の井戸」である。

もちろん月面と比較しての話だが、我々が意識することなく受けている重力エネルギーが凄まじいことになるケースもあるという例だ。上記した巨大隕石の衝突をスケール・ダウンさせたようなもんだが、読んで「ああ」と素直に頷いたことは白状しておこう。小説としても面白いので、機会があれば是非手にとって頂きたい。

執筆時期が大気圏内核実験と恐らく重なると思うのだが、文中では衝突エネルギーを水爆と比較して紹介している。

破壊のシステムそのものが全く違うので、単純比較は出来ないが、核爆弾の特徴は超高温に達する熱である。もちろん有害な放射線もあるのだが、爆発物としては「熱を発生させるもの」と考えた方がイイ。この熱が(当然光を伴うが)、大気を膨張させ、衝撃波を伴いながら上記したような状態になるわけだ。

怖いのでディティールを省いてものすごくサラッと書いているが、このせいで長崎市は死者約7万3,900人、負傷者約7万4,900人、被害面積6.7km2、全焼全壊計約1万2,900棟という甚大な被害をもたらされているのだ。無茶苦茶である。

とは言え、この山のおかげで被害はまだ軽減されたとされる。北九州に落とされていたら、上記した程度の被害ではすまなかっただろう。

話を地質に戻す。出来れば核爆弾のことなど避けて通りたかったのだが、こればかりはどうしようもない。

長崎は坂の街としても知られるが、一方で平地部はほとんど全部埋め立て地である。元々の形は海蝕によって浸食された崖状の地形だったらしい。考えてみれば河川と言えば浦上川くらいしかない。扇状地になりようがなかったワケだ。

長崎市の埋め立て事業は、東インド会社の船が行き来するようになってからだと言うから、それまでは自然の浸食に任せっぱなしだったのだろう。ちなみに、最初にポルトガル船が長崎に来たのは1571年。

埋め立て地を中心に街は発展を始めるのだが、山側というか元岬側は明治時代になるまで畑として利用されていたようだ。なかなか壮大な段々畑になっているのだが、以前に見た壮大な段々畑が広がる写真が見つからなかったので、代わりにこっちの画像を貼っておく。
http://oldphoto.lb.nagasaki-u.ac.jp/zoom/zoom/zoom.php?id=5379


この写真では既に住宅が建造されているが、住宅街そのものが斜面に広がるのは明治時代に入ってからで、主な理由は外国人居留地の拡大があったと言われる。平地部から徐々に住宅が建てられていき、場所がないのでそのまま斜面を開発していったらしい。

段々畑はもう整地されてしまっている状態なので、宅地化するのはそれ程大変ではなかったのだろう。それにしても、山頂からずっと続く段々畑だが、そもそも地盤の弱いところに、こんなものを作るだろうか?

1982年(昭和57年)7月23日から翌24日未明にかけてに起きた「長崎大水害」では(眼鏡橋が流されたヤツだ)土砂災害による犠牲者が、死者・行方不明者299名のうち、およそ9割にあたる262名だったそうだ。

完全に調べつくしたわけではないので、軽率な結論は避けたいところだが、氾濫が起こした中島川、浦上川、八郎川の映像を見ると、上流付近の一部の斜面がごっそり崩れていることが分かる。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009030180_00000


ざっと調べてみたのだが、土石流の大きな被害はこの一帯だけのようだ。とにかく詳しい資料が他に見つからないので、土石流が起きた後の現地の映像しか参考にしていないのだが、どうもこの辺りは斜面に段々畑さえない場所だ。

気になるのは植生である。なんであんな急斜面にわざわざ針葉樹だけを植えるかね? 一般的に針葉樹は根が1m程度と、あまり深く根を張ることができないのですよ。本来、生える場所は日本なら北海道のような寒冷地帯なのに、経済上のメリットだけを優先させて日本全国に植えたりするから、地盤は当然弱くなる。

こんなことは、ボクが知る限り大学時代(30年前だ)には既に常識になっていたはずなのに、未だに改善される雰囲気がない。京都鞍馬山の土砂崩れの原因はもろにこれで、頂上付近は針葉樹林になっている。貴船神社があるあたりは紅葉などの広葉樹が混成しているので、地盤は明らかに強固であることは目に見える形で証明されているのに、この体たらくだ。アホちゃうか? あくまでも素人見当なので鵜呑みにしないように。

段々畑そのものは石垣でそれなりの土留めをしているが、集中豪雨であっさり流されるような場所には普通作らない。最近の線上降水帯の豪雨の場合、どこまで保つかは正直見当もつかないが、そもそも開墾そのものが大変なのだ。山の斜面ですよ。これだけでもう充分大変でしょう。それこそ土砂災害が何度も起きるような場所は、さっさと放棄されるだろう。

一般的な扇状地では、埋め立てによる新田開発が普通で、段々畑はこの長崎の例を除けば、ボクが最初に思いつくのは瀬戸内海の島々のものである。というか、自然な海岸線を保持している場所などは、日本国内では相当稀少だろう。近世の新田開発が大きいと思うのだが、それ以上に大規模に埋め立てを行ったのは、いうまでもなく戦後である。

長崎半島はどうやら火成岩に由来する変成岩がメインらしい。一般的に火成岩と言っても、脆いものからやたらと頑丈なものまであるので一概には言えないが、京都・嵐山でも見られるチャートのような頑丈な種類の火成岩が多く分布しているようだ。とにかく頑丈。上に積もった堆積物は流されても、その下の層が無駄に頑丈だと、地形そのものに大きな変化は見られない。さすがにプレート規模になると話はまた違う。

半島の地形を詳細に見れば分かると思うのだが(特に斜面部)、極端に切り立った谷があるわけでもない。全体は海に向かって立ち上がっているが、斜面の表面にさほど起伏が見られないのは、堆積物の少なさと、元々の地質が頑丈なせいではないだろうか?

海流と河川による浸食だけ(本当は断層も絡んでいるのだが、ややこしくなりそうなのでパス)の自然地形が長崎の原型であることは言うまでもないが、こう書くと「当たり前やん」と思われても仕方ない。

実際、時間スケールの長さを極端に大きくすれば、世界中どこもそうなのだが、この時間スケールを無視する傾向が強いので敢えて書いておく。長い長い時間を掛けて浸食され、隆起してできた地形は自然の摂理そのものである。ここを無視して下手に人間が地形をいじると、ロクなコトにならないのだ。

何度も書くが、特に水の浸食はやわらかいところを削る、という分かりやすいにもほどがあるプロセスでしか起きない。これまたあたり前の話だが、重力の影響をもろに受けるので、高いところから低いところにしか水は移動しない。

自然地形ではこのやわららかいところをじゃんじゃん削るのだが、人間はというとそんなことお構いなしに、重機でじゃんじゃか削る。本来、土砂災害が起こるはずのないところで起きてしまう主な原因はこれである。あと植生を人の都合のいいように変えるとかね。

暴れ川と呼ばれる河川は、特に平地に入ると長い歴史を通じて「一定」の流れ方など一切しない。好き勝手としか見えないかもしれないが、恐ろしく広範囲に渡って蛇行して、川の流れをその時々に変えているのだ。日本の平地はいわゆる「扇状地」が多いため、こういう現象は普通に起きる。

長崎県は有数の炭田を海底に多く持っているが、どうもこの辺にもヒントはありそうだ。地質のプロではないので、これ以上の言及は避ける。あくまでもボクの勘である。だから間違っても鵜呑みにしないように。

筑豊炭田では敢えて触れなかったし、ここでも詳細は省くが、九州は阿蘇山をはじめとする火山活動が活発な地域である。阿蘇山の麓に当たる熊本市などは、ほとんどが火砕流堆積物で出来ているようなもんだ。

九州には筑豊炭田をはじめとして、三池炭田、唐津炭田、北松炭田、西彼杵炭田、天草炭田など、主立った炭田が九州のほぼ北西部に集中している。もろに阿蘇山周辺になるのだが、詳細は省く。とにかく阿蘇山の火山活動がややこしい上に、九州全土の火山活動となるともう手がつけられないからだ。ちなみに、阿蘇山の東側には、別府温泉があることだけ付け加えてさっさと退散する。

石炭は古代(数千万年~数億年前)の植物が、完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ、そこで長い期間地熱や地圧を受けて変質(石炭化)したものだが、長崎沖の島々にも炭田が存在するのは、かつて大陸と地続きだったことに由来するのだろう。これらの炭田は火山性というよりも、水圧と地圧によって形成されたと思われる。

有名なのは「軍艦島」の呼称で有名な端島炭鉱だが、個人的には九州最後の炭坑の島・池島炭鉱を猛烈にプッシュしたい。端島と異なり無人島になっていない以外、特に深い意味はない(笑)

島から縦坑を掘って、海面下650m地点を池島の西南西にある大蟇島に向かって掘り進める(というか大蟇島の下でも掘っていて繋がっているのだが)という、見ようによっては鬼のようなことをしている。坑道の総距離は96km、掘り出した面積は琵琶湖の約半分というからすごい。

長崎周辺で採掘された石炭は元々、船舶の燃料として始まったらしい。蒸気機関ですね。長崎港や佐世保港には旧帝國海軍ドックもあったので、製鉄用とはまた別に必要だったのでしょう。特に長崎港は天然の良港としてもよく知られている。岬の内側は波や風の影響を受けづらい。ポルトガル船が初めて来港した当時は、帆船なので特に風の影響の軽減は大きい。

ちなみに大和の姉妹艦である武蔵が建造されたのは長崎です。第二船台と呼ばれるドックで建造されたらしい。第二船台そのものは現役で活躍中である。大和は呉。長崎造船所の前身は先に少し触れたが、西洋帆船の修理・点検ドックからである。長崎港そのものがそうなんですがね。

一気に近代化され現在の姿になるのは明治以降だが、どうやら長崎造船所のうち、小菅修船場跡(日本最古の西洋式ドック)、第三船渠、ジャイアント・カンチレバークレーン、旧木型場(現在は史料館)、占勝閣の5資産が世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」(全23資産)の構成資産となっているらしい。

ジャイアント・カンチレバークレーンは、遠目にしか見たことがないのだが、1909年にスコットランドから輸入されたクレーンで、高さ61m、150トンを釣り上げることが出来る。驚くべきコトに現役で今も活躍中だ。なかなか珍しい形をしている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1%E9%87%8D%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%80%A0%E8%88%B9%E6%89%80#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Mitsubishi_Nagasaki_Hammerhead_Crane

港湾では貨物船が荷を降ろすところや、それこそ造船所でジブクレーンとかガントリークレーンはよく目にするが、ジャイアント・カンチレバークレーンは長崎でしか見たことがない。他にもあるらしいんですが。

造船所も実は大好きである。というか、製鉄所とセットになってるケースが多いから。イヤでも目に入るし、製鉄所とはまた異なる風情があって興味深い。福山製鉄所も造船所を併設していたので尚更である。タンカー・クラスの巨大な船舶も造船していて、これまた社会見学で興奮したのでよく憶えている。

アホみたいだが、デカイとそれだけでとにかく格好いいんですよ(笑)

長崎造船所は民間用の船舶はもちろんだが、自衛隊の艦艇も建造している。三菱グループなのである意味、納得だが、こういう所にも旧海軍の影響は残っているらしい。ちゃんと調べていないので正直分からないのだが、横須賀や呉もそうなのか知らん? 福山造船所はこっち方面とは全く関係がないので、大型船といえばタンカーや大型貨物船である。

話を地形に戻す。あの斜面にへばりつくように林立している建造物は、相当頑強な地盤に支えられてるとしか思えない。少ないボクの実見録では、尾道が似たような感じなのだが、長崎ほど斜面は急ではない。異常な斜度なのですよ。

斜度だけなら六甲山もいい勝負だが、長崎ほど盛大に住宅地が広がっているわけではない。外国人居留地の広がりから発展を始めたのは長崎同様だが、少なくとも上限はと言うと、山陽新幹線が通過しているところくらいがせいぜいである。もっとも神戸は東西に広いので(知れてるけど)長崎のような状態にならなかっただけなのかもしれない。この辺はよく分からない。

写真で見て知っていたつもりだったのだが、中学の修学旅行で長崎を訪れた時に初めてあの異様な風景を目の当たりにして、度肝を抜かれた。住んでいる人にとっては普通の風景なのだろうが、比較的起伏が多い所に住んでいたボクの目から見ても、あの風景は驚きだった。

坂道の険しさにももちろん驚いた。当時の体力でも「こりゃチャリは無理だわ」とさっさと諦めたもんな。あれに比べればボクが育ったところなんかカワイイもんである。更に視点を京都盆地にうつせば平地そのものだ!

出来れば頂上付近まで登って、一〜二週間ほどのんびり眺めていたいくらいの気分だったのだが、何しろせわしない修学旅行である。グラバー園があるところ位までしか上れなかった上に、追われるように長崎をあとにした。

成果があったとすれば、上記した長崎大水害の時に流された眼鏡橋のオリジナルを目にしたことくらいだろうか。タイミング的には修学旅行は水害前だったので、眼鏡橋の流出の報を耳にした時、酷くがっかりした記憶がある。本当にキレイだったのですよ。

実は高校の修学旅行も九州で(上記した長崎大水害の年の春だ)、この時は気合いを入れて長崎を眺めるつもりだったのだが、天候不良でそれどころじゃなかった。

熊本から長崎に移動する時に有明湾を船で横断したのだが、この時、悪天候のせいで船が揺れまくって、船酔いで同級生がほぼ全滅するという災難にあったのだ。ボクはまるっきり平気だったので、数少ない元気な先生と共にみんなの介抱にあたっていた。

あそこまで船酔いする同級生が盛大に出るとは思ってもいなかったので、最初の頃は舳先で波の上下を楽しんでいたのだが、気がつくと波しぶきに混じって雨が落ち始めたので船室に戻ったら、青白い顔をした同級生が船内一杯に横たわっていた。

考えてみれば、舳先で騒いでいたのはボクだけだったかもしれん。瀬戸内海では味わえない無茶苦茶な波の上下動が楽しくて仕方がなかったのだが、普通は乗り物酔いをするレベルなのかもしれない。その程度は未だによく分からない。

ちなみに船に弱い人は出来るだけ艫(後ろの方ですね)に陣取りましょう。船の大きさや形にもよるが、揺れは舳先に比べると丸っきり少ない。それから出来るだけ遠くを眺めるように。大夫マシなはずです。舳先の揺れはキツイのですが、向かってくる波が丸見えなので、ボク的には充分準備が出来るので楽なのですよ。普通の人がどう感じるかはさっぱり分からないけど。

まぁ、そのようなワケでのんびり長崎見物どころじゃなかったのだ。せっかく海側から長崎を眺められる良い機会だったのだが、残念極まりない。仕方ないけどね。確か日が暮れかけていたので、海から眺める長崎の夜景をこっそり楽しみにしていたのだ。

そんな事情だったので、予定を変更して上陸してすぐにホテルに直行ということになった。で、移動中のバスでまた乗り物酔いが再発する同級生多数という目に遭う(笑)笑っちゃいけないのだが、ボクはそっち方面は平気の平左なので「船酔い直後にバスに乗ったらこうなるんか」と変な感心の仕方をしていた。

詳細は大分編に譲るが、父方の祖先がどうも瀬戸内海の水運に関わっていたらしい。恐らく無駄に乗り物酔いに強いのはこの遺伝だろう。瀬戸内海は福山〜岡山あたりは比較的静かなのだが、豊後水道や関門海峡、明石海峡、鳴門海峡は結構キツイのだ。外海に比べればカワイイもんですが。

ボク自身の育ちも関係しているのだが、船は眺めるのも乗るのもめちゃめちゃ大好きである。描くのは大キライだけど(笑)

ボクにしては相当珍しいのだが、長崎絡みということで(!)挿絵で描いた武蔵の画像を添付しておく。

https://bn.dgcr.com/archives/2020/09/24/images/yowkow

色んな角度から描かなければいけなかったので、手描きをさっさと諦めて3Dで作った。主砲だけでもエエ加減邪魔くさいのに、対空銃座なんか描きだしたらエラいコトになるからな。もちろんその後Photoshopで誤魔化しまくってます。掲載時はこれまたモノクロだったのですが、やっぱりカラーの方がボクは作業が楽。

ちなみにこの3Dモデルはネット中から部品を集めまくって(主砲はホンマに苦労した)、それぞれを改造して再構築した。苦労した割にはぞんざいな扱いになったのだが、ボクの絵ではありがちなのでスルーだ。手間を考えたらこっちの方が面倒なのかもしれないが、とにかく軍艦はね……帆船も邪魔くさいなぁ。

長崎県全体を見れば長崎市は狭いもんだし、他にもネタは県内に腐るほどある。それでも今回、長崎市に執着したのは、あの斜面の異様な風景に心を打たれているからだ。修学旅行で島原とか平戸・唐津にもいってるなずなのだが、こっちの方は全然記憶にない。有田焼(佐賀県だけど)・伊万里焼の工房も訪れているはずなのだが、これまた見事に憶えていない。太宰府ですら同様だ。

とにかく長崎市に関しては不完全燃焼そのものなのだ。身内のネタだが、母方の祖母は長崎出身である。どの辺の出身かは知らないのだが、「よくもまぁ長崎からあんな山深いところに嫁いできたもんだ」と子供心に思った。

話を長崎に戻す。冒頭で少し触れたが、長崎県全体となると本当にネタの宝庫なのだが、ナゼかボクの気分は長崎市内の一部地域にしか向かないようだ。松浦は別ですが。

ほとんど怨念に近い執着があるような気がするのだが、こういう興味の引きかたをする場所はなぜか他にないのだ。長崎市は調べても調べても満足出来ない。とにかく色々気になる。少し触れたが造船所も立派なのがあるが、まだほとんど手つかずである。まだ斜面でうろちょろしているのが現状と言ってもいい。

松浦は古代史や倭寇絡みでも相当ネタがあるのだが、こっちも今ひとつまとまった量の情報が集まってるわけではない。いずれ本格的に手をつけるつもりだが、相当スケールがでかくなるのでどうなるかは分からない。

ただのエカキなので、ここまで執着する必要は全くないのだが、好奇心を失ったら、好奇心しかないボクは本当に終わりである。実際、一時期ヤバかったのだ。最近になってやっと、少し調子を取り戻しつつあるところだ。

こんなどうでもいい作文を書いている暇があれば、本業をどうにするべきなのだろうが、とにかく色々ありすぎたのでボク自身が慎重になっているので仕方がない。失礼極まりない話だが、この作文もリハビリの側面が大きいことを素直に白状しておく。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
https://yowkow-yoshimi.tumblr.com