はぐれDEATH[49]寂しからずや(へんな)道を説く君/藤原ヨウコウ

投稿:  著者:  読了時間:15分(本文:約7,100文字)



ここにいう「道」とは、普通の道路のことではありません。いわゆる「茶道」とか「剣道」とかの方の「道(どう)」。

素直にググってみると、下記の如き結果が出ました。

どう 道(みち、道)ドウ(ダウ)・トウ(タウ)・みち いう

1.人の通行するところ。経過する間。通りみち。「道路・道途・道程・道中・道標・道祖神・道聴塗説・大道・国道・街道(かいどう)・間道・水道・食道・糧道・赤道・軌道・鉄道・歩道・隧道(すいどう)」

2.人の守るべき義理。宇宙の原理。教え。「道徳・道心・道理・道義・正道・邪道・外道(げどう)・常道・王道・仏道・八道・極道(ごくどう)・得道(とくどう)・没義道(もぎどう)・武士道」

みち 【道・路・途】

2.[道・途] 途中。「─で買物をする」
3.[道・途]道のり。道程。「─は遠い」
4.[道]人がふみ行うべきこと。道徳。道理。「─を説く」
5.[道]その人が手がけている方面。専門。「その─の達人」


まぁ、どっちに転んでも、人としての道からはとっくの昔に外れていますので、あんまり意味ないかも(笑)





●実に恐ろしい「自然体」というやつ

この稿を書くきっかけになったのは、先日実家に戻った折にテレビで流れていた、とある京都に関するCMでありました。

最初に断っておきますが、ボクはこの手の「道」に関しては、かなり辛辣な意見の持ち主です。勝手にやって頂く分には気にもしませんが、「道」の価値観を押しつけられると、途端に拒否反応が出ます。

すべてがすべてそうではないのですが、ボクに言わせれば、聞きかじりレベルでこの価値観を押しつける人はかなり多いのです。基本はスルーですね(笑)

これがCMという、いかがわしいことこの上ない(あくまでも私見です)媒体で表面を取り繕って全国に流す、などというのはボクにとっては今の日本の政治レベルとさして変わらない、唾棄すべきレベルのものだと思っていることは素直に白状しておきましょう。

まぁそれでも機能主義唯物論者にとって、「道」の中にある基礎スキルというのは結構便利で(!)参考にはさせて頂いている。精神性は無視です。

それなりに長い時を経て洗練されているから、物心両面での洗練度は認めますが、殊精神性(道徳性)に関してはボクには相容れないケースがあまりに多すぎる。

宗教もそうなのだが、ボクが無神論者であることは散々書き散らしているのでどんどん端折る。

分かりやすい例としては「茶道」かな? まぁ、いわゆる「武芸」(ここでは武道と芸道を指す)というヤツですな。

要は「機嫌よく茶を楽しんで話に花が咲けば良い」というのが基礎理念であり(本当か嘘かは知らん)、この場では身分の上下や立場の違いさえも排除する。これはよく分かるんですよ。実際問題はともかく。

これが「茶道」になると「所作」が非常に重要視されるし、きちんとしたマニュアルもある。それに沿った所作をしていれば、基本大恥をかくことはないのだろう。だが、これもボクの手に掛かるとあっさり葬り去られる。

「ナゼこういう所作を求められているのか?」という単純素朴な疑問を抱いて調べただけなのだが、大抵は「自然体」であることがキーになる。逆に言えば、「自然体」であれば何をしてもいいわけで「無礼なことをしてはいけません」という但し書きがつけば、大抵のことは和やかに落ち着くのである。

「自然体」というヤツは実に恐ろしいもんで、その人となりが露骨に出るもんである。見る人が見ればすぐに分かる。

根が上品な人(当人の経済状態はあんまり関係ない)は何をやっても大抵上品だし、下品な人はどれだけ身をつくろっても下卑た空気が自然と出るし、所作にも出れば言動にも出る。特にリラックスしてる時は顕著である。

生まれ育った環境やら両親や親類縁者その他諸々の諸関係が整わないと、ここでいう「上品」さは身につかないのだが(ボクはかなり乱暴だ)、こればかりは本人がいくら努力しても出来る範囲があるように思う。

一児の父親としてはかなり気を使うところでもあるのだが、とにかくこんな人だし、こういうボクを見て娘は育ってしまったのでもうどうしようもない。未だに可愛がりまくってるからなぁ。親バカ話は脇に置こう。

この所作の中で重視されるのがいわゆる「残心」というヤツである。これまたWikipediaで調べたらこう出た。

残心(ざんしん)とは日本の武道および芸道において用いられる言葉。残身や残芯と書くこともある。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味。意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学や禅と関連する概念でもある。

しつこいようだがこの手の事に関しては無頓着なので、調べ方もWikipediaという杜撰極まりないレベルで片付けた。

●素直な「喜び」と「感謝」だけ

「所作のマニュアル化」というのは、本来それぞれの原理原則に則って作られているはずなのだが、原理原則を無視して形骸化しているケースを、ボクはイヤと言うほど見ている。

質が悪い例になると、原理原則を知っているのに敢えて無視したり、原理原則を教えず形だけを押しつけるケースである。更に酷くなると、指導者が原理原則を知らない、というアホな例まであるので恐ろしい。「道」以前に「人としてどうよ」と突っ込みを入れられるようでは、お話にはならんだろう。

このまま茶道を例に取ろう。分かりやすいケースは「茶碗を何回回すか」というヤツである。流派によって違いがあるかもしれない。ちなみにボクは、まったく知らん(笑)

要は「出された茶碗の飲み口が自然に美しく自分の側にまわすための技術」なのだが、母集団の大きさから平均した回数が、たぶん今の所作のベースになっていると思われる。逆に言えば「自然に美しく」なるなら一回でもイイし、手の小さい人なら何回でも繰り返せばいいのだ。

回数はその人の肉体的な限界によるのであって、その中で自然で美しく振る舞えればそれでいいはずだし、そういう所作も実際あると思う。無理をするから「不自然」で「ぎこちなく」なり「美しくない」というだけの話ではないだろうか。もっともこれはボクの私見に過ぎない。

ちなみにボクはいわゆる「濃茶」が大の好物である。作るのが面倒だし、下手に美味しい濃茶の味を知っているので(祖母がお茶の先生をやっていたのだ)自分では絶対にしないが、京都にいると振る舞われることが割とよくある。

基本、振る舞われるだけで嬉しくなってしまい(どうやら顔に出てるらしい)、美味しく頂き素直に「ごちそうさまでした」(「結構なお点前で」とは間違っても言わない)と頭を下げる。

どう思われているのかは知らないが、ある方に言わせると「もう一杯出したくなる」そうな。とことん楽しんでいるのだろう。

ボクの場合は、素直な「喜び」と「感謝」だけである。まぁ、ありがたいことに分かりやすい人に育ったので、これで不興を買ったことはほとんどない。

上述したように、ちゃんとした所作は知らない。ただ「足をくずして下さい」だけは遠慮している。礼儀上云々というより、畳の上では正座の方がボクは楽だからと言うだけの理由であり、遠慮しているわけでもない。

これははっきりと口に出して、「そういうワケなので気にしないで下さい」と言っている。

お茶を出して頂いたことには素直に感謝しているので、ほっといても上述した「残心」に近い心持ちはある。「くつろいでください」と言われても、「無礼講」状態にはまず間違ってもならない。普通この程度の気は使うでしょう。

コアで上流と言われる京都人は、人あしらいのうまさでもちょっと図抜けているのだが、ボクの場合は「自分は自分」と開き直ってしまっているので、この階層のある種の(!)皆様は可愛がって下さる。

まぁ田舎もんだし、珍しい上に面白いからだろう。こうした皆様の寛大な態度には素直に感謝している。田舎もんで良かった(笑)

●語尾に「道」が付くヤツ

話を戻す。所作のレベルでここまで嫌がっているのである。これが精神論になると、ソッコーで逃げ出すのは言うまでもあるまい。もっとも宗教と同様、それなりの価値を見いだす人がいるのは確かなので完全否定はしない。

ただ「どの口が言う」となると話は別である。

こういうケースは宗教よりも、圧倒的に「道」の世界の方が多い気がする。もちろん心技両面を兼ね備えた人もいるのだろうが(ボクはほとんどあったことがない)、経験上ガックリすることの方が多い。

ちなみにボクが通っていた高校は、とある神道系の学校だったのだが、教主様をはじめとして、信者である校長先生や他の先生方には頭が下がるばかりだった。とにかく優しくて寛容なのだ。

優しすぎる上に寛容すぎて、肝心要の宗教本部が清貧をサクッと通り越して貧乏のどん底、というのもある意味微笑ましい。

いわゆる上納金制度がないので、いざ「本部がヤバい」となると、信者の皆様が寄付して下さる。「経営が杜撰すぎる」という意見もあるだろうし、これでも宗教法人なのだが、これまた基本理念が素朴すぎる上に律儀に守っていたりするので、ある意味始末に負えない(ボクは好きですが)。

支部はよく知らないが、本部はこの「上納金制度の否定」という姿勢を崩す気配すら見せない。なかなか大したもんだと思う。

ボクの絵の方の師匠は、「道」などまったく説かない徹底的な現実主義者で、合理主義者なので気が楽である。これがお互い様なことは、これまでに散々書いたのでこれぐらいでいいだろう。

とにかく、「使えそうなものは原理原則だけを学んで、基礎を徹底的に身体に叩き込み、身体が自然に動くようにせよ」という極めて単純極まりないことだけで、応用は「ほっとけば自然に出る」というのが、我々の一致した価値観である。

危険なのはやはり格闘技で、語尾に「道」が付くヤツである。「武道」というヤツですな。

基本理念としては「技を磨く稽古を通じて(道徳的な)人格の完成を目指す」らしいのだが、個人的にはあまり信用していない。むしろ語尾が「術」の方が清々しい。

格闘技の場合、「道」だろうが「術」だろうが、基礎の技は「人を殺傷、あるいは制圧する技」である。これを常に念頭において置かないとロクなコトにならない。

精神性云々よりも、「その技を無闇に使っていいのか?」という素朴な疑問がないと、人格の完成などあり得ないのではないだろうか? 道徳としても初歩の初歩である。

当然の事ながら、練習や試合では勝敗がつくのだが、ここでボクは素直な疑問にぶち当たる。「勝った、負けたで一喜一憂しているのはどうよ?」だ。

「術」は別である。技の技量に上下があるのは当然だし、上手な人から稽古を通じて(或いは盗み取って)上達するのはごく普通の行為だと思う。

「柔術」を「柔道」、「剣術」を「剣道」と変えたからには、「術」と「道」の間に大きな違いがあるはずだ。「道」を名乗る責任と義務の問題なのだ、と言った方が分かりやすいかもしれない。

そもそも「(道徳的に)完成された人格」とは何かを自問自答し続ける責任はあると思うし、それに応じた行動も出来なければおかしくなる。

それこそ「(道徳的に)完成された人格」って何?」と思う方も少なくないと思うし、実際ボクもよく分からん。それほどまでに抽象的な思想、或いは哲学的な問題で、時代や環境、社会情勢が変わればそれこそコロコロ変わりかねない厄介な代物である。

単純に「稽古を通じた(道徳的に)人格の完成」で、かたずけていい問題ではないはずである。どれだけ修練を積んでも、道徳的に歪んだ人格が完成するケースだってあるだろうし、このような歪んだ人格の持ち主が指導者になっている例を、ボクは実際見てしまっている。

歪んだ人格のボクに「歪んだ人格」と思われるというのは、もう人として破滅的な評価である。そういう人格の人が、下手に技を持っていると想像するだけで恐ろしい。

●いくら理屈を並べても寛容さに欠ける

ちなみに剣道でも居合でも「残心」というヤツはある。理念は一緒だ。

ただ、「術」の時代があっての「道」であり、前提条件となる「術」の時代の「残心」だってちゃんとある。もっと露骨ですがね。

要は相手が完全に死んでいるかどうか(確実に止めをさしているかどうか)が、恐らく元になったのだと思う。

ご存じの方も多いと思うので詳細は省くが、戦国時代末期になると鉄砲が戦で用いられるようになる。もちろん鎧だってそれなりの防御力が必要になるワケだが、刀でいきなり死に至らしめることは、ほとんどあり得ない。

「介者剣術」とは後の各流派が馬鹿にした、戦場往来の実戦に最適化された「刀法」と呼ぶのさえ憚られるような露骨な方法論である。

簡単にいってしまえば、刀を持って相手めがけてひたすら突進して体当たりして(!)、適度なダメージを与えたら「鎧通し」と呼ばれる小刀で止めを刺す。中途半端なダメージでは、逆襲される可能性が高いからだ。ここまでやってやっと一人殺せる。

便宜上、ここでの「残心」は「死を確認すること」に他ならない。

これを精神論に置き換えたのが、いわゆる「残心」と言ってもイイ。血腥い部分を排除して精神論に置き換えるという(ボクにに言わせれば)「姑息」そのものな手法である。

この手のネタは時代小説では定番だが、現実問題として今もあるのだ。

格闘技を例に上げたのは、この辺の機微が露骨に表れるからであり、他の語尾に「道」が付く様々なことにだって、必ずついて回るのだ。

それぞれの技(スキルと言ってもいい)は、別にどうでもイイのだ。便利であれば使えばよろしい。ここに精神性を無理矢理引っ付けるから、コトが厄介になる。

技の本質を理解すれば、そうそうおかしな発想や行動など浮かばないだろうし、自然とそれなりの心配りができるようになるのではないかと思うのだが、現実はそうでもないようだ。

更に「道」にも色々な流派があるようだが(「術」に分派があるのは「技のより高度な洗練}という点で、むしろ自然で合理的だと思う)、「なぜ分派したのか」という所をつつき出すと大抵、妬み・嫉み・政治的理由(これが最低なのは言うまでもあるまい)などなどという精神性において、底辺レベルの理由ばかり浮上する。

いくら理屈を並べても寛容さに欠ける、という一点においては反論の余地はあるまい。それこそ「海よりも深く、空よりも高い」懐の広さがあって当然だと思うのだが、これはおかしい発想なのだろうか?

「できる、できない」は別にして、そのような心持ちを目指すべきではないのか? 「理想論だ」と片付けようとして欲しくはない。

現実はともかく、理想はあって然るべきだし「(道徳的に)完成された人格を
目指す」という看板を出す以上は目指すべきだと思う。

ちなみに、ボクには到底不可能なので、この手の寛容さからはさっさと身を引いている。暴言だとは思うが「できないと分かってるだけまだマシ」と開き直っているのも事実である。

もっとも、ふん反り返るような態度は謹んでいるし、ボクの異常な人格については必ずと言っていいほど白状している。どこまで信じてもらえてるかはともかく、こうした前提を明らかにしてから指導なりアドバイスなりを受けるようにしている。

これがボクにとっての最低限の礼儀で、ボクが責任を持ってできるのはこの程度である。

●世の中、なんかおかしい

さらにいえば、「術」が「道」よりも蔑まれる傾向が高いのはなぜか、という疑問もある。「術」とは技である。上述したように、役に立つなら持ってて損はないだろうし、それ以上でもそれ以下でもないはずである。日本特有の傾向なのかもしれないが(他の国のことは知らん)ボクには不思議で仕方がない。

まぁ、ある程度は想像できるが、ここでは敢えて知らぬ顔をしておく。エカキの世界でもこの手のアホなことはままある。スルーしてるけど。関わると面倒になるのがイヤだからだ(笑)

しつこいようだが、ボクは人の道を踏み外すどころか、獣道からも外れた「はぐれ」である。だから真っ当な「道」のあり方に羨望を持つし、その正体が何なのかを知りたい。

なぜ外れたのかはあまり重要ではない。だって、現実問題外れてるんだから。後戻りできるようなら、とっくの昔にせめて獣道ぐらいには戻っていて然るべきなのに、そうなっていないところを見ると「手に負えないはぐれ」だからなのだろう。

先述したが、この点については素直に認めている。その程度にはまだ頭は回る(笑)

断っておくが、「自己の客観視」などという大それたものではない。いまの自分の相対的な立ち位置を、可能な限り具体的・物理的に見て、この状態を素直に受け入れれば、この結論にしかボクは達しない。むしろ自然な結論である。

オツムの悪さには自信があるのだが、世の中下には下がいるようだ。下は基本見ないのでよく分かっていないのだが(ボクにとっては上の方が重要なのだ)、ボクが思っている以上に、ボク以下のアホが大手を振って歩いているような気は薄々している。

ボクが神経過敏なのかもしれないし、その可能性をボクは否定しない。それでも「世の中、なんかおかしい」という疑念は尽きない。「道」はその際たる(そして些細な)例に過ぎないのだ。

ををっ、今回のは格好良くオチたんちゃう?(←これを書いてはあかんやろう…)


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com