はぐれDEATH[66]老眼になっても潔くないはぐれ
── 藤原ヨウコウ ──

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●ドローイングは1:1以外は認めない

老眼、まぁ加齢と共にやってくる当然のコトなのだが、エカキという特殊な商売をしていると、なかなかに厄介である。特に紙に実際に描かないとどうにも不安で仕方がないという、アホなワガママが加わるので手に負えない。

一年ほど前から自覚症状はあったのだが、ここ半年ほど、どうにも自分の線に違和感をおぼえていて、その原因がどうやら老眼にあるらしいということに、先日気がついて少々とまどっている。

線はボクにとって命綱である。だから現物でないと困る。しつこいようだが、データで描く線はまったく信用していない。

タブレットの筆圧感知レベルが、一昔前とは比べものにならないレベルになっているのは、もちろん知っている。液晶タブレット(と言っても、ボクが試したことがあるのはiPad Pro+Apple Pencilの組み合わせだけだが)もちょろっとくらいは触ったことがある。

便利そうではあるが、個人的には実に妙な拡大・縮小表示は、それこそ違和感以外のなにものでもない。ドローイングは1:1以外は認めないという、心が狭いにもほどがある価値観が邪魔をする。とことん面倒くさい人である。

基本的なセットは、高校生時代からほとんど変わっていない。筆記具が鉛筆からフォルダーに変わった程度で(それも大学の二回生の時からだからなぁ)、それ以外は不動である。

紙はマルマンのクロッキー帳しか使っていない。あくまでもフォルダーを使う時だけで、筆になると当然紙は変わるが、この辺のことは前にもふれた気があるのでサクッと飛ばす。

商売にするまではSS-01(218mm×255mm)というサイズを愛用していたのだが、これはすぐに狭すぎることに気がついて、SL-01(356mm×268mm)に変更して今に至る。で、このサイズですら老眼にきついようなのだ。

こうなると、もうほぼ最終手段である。B3サイズのクロッキー帳である。密林で見つけた。

そもそもSL-01ですら、ボクの持つA4スキャナーの読み取り範囲を、あっさり超えているのだが(仕方ないので二回に分けてスキャニングしてPhotoshopで合体させる)、B3となるともう三〜四回くらいに分けないと、まともにスキャニングできそうもない。

スキャニングできても、合体させるのがこれまた面倒になるのだが、なぜかこの手の面倒事には心が広かったりする。我ながらどうもよく分からない。

まぁ思い当たる点は「手で描いた」という満足感が、スキャニング後の合体作業の面倒臭さを上回っているのだろう。実際そうとしか思えない。

が、ここでものすごくアホな物理的な欠陥が露呈する。

机の上に載らない・・・_| ̄|○;

SL-01でギリなのだ。というか、もうはみ出てるし。

デジタルが物理的限界をアッサリ突破してしまうのは熟知しているし、どんな技術にしろ、それまで困難だったり不可能だったりした諸問題を解決するために、今も先に進んでいる。

くどいようだが、デジタルがなければ、ボクはエカキになっていなかった。このへんは前にどっかで書いたような気がするので、ドンドン飛ばす。

もっと言えば、ボクの作業工程はPhotoshop2.5の時代からほとんど変わっていないのだ。一応Painterも使っているが、このアプリでレイヤーを使うことは皆無である。相当おざなりなやり方しかしていないのだが、これはこれで便利に使ってる。

とにかくセッカチなので、絵の具が乾く間すら惜しい人なのだ。そのくせ、鉛筆以外のドライメディアはほとんど使わない。理由はいまだによく分からん。

線画の段階でそこそこキッチリ決め込んでいるので、その後の作業はかなり大雑把である。それでも大雑把なりの質は求めるので、このへんデジタルはいい感じなのだ。大雑把に手で塗ったりしたら、それこそ目も当てられたもんではない。とにかくそれくらい「塗る」は大嫌いなのである。

それくらい下絵(?)に労力も神経も使っているのだ。描く時の状態にこだわるのは、こうした理由もある。機嫌よく描くに越したことはないのだ。だから、敢えて手で描くことにしがみつく。

●Macは計算だけしておけばよろしい

「エカキにとっての目」については、それなりに覚悟をしていたつもりだった。かの伊藤彦造先生は、目の衰えを理由にビックリするくらい潔く、この世界から身を引いたことを知っていたからだ。

正常な視力をもってしても、恐らくまったく手の届かないような人ですらこれである。ボクなどは比較にさえならないし、比較することすらおこがましい。

それでも老眼は実際に訪れたし、伊藤彦造先生が身を引かざるを得なくなったのも、今になってやっと身にしみて分かっている。それが今のボクである。

先生との大きな違いは、ボクがまったく潔くないというアホな理由に他ならない。どれだけ卑怯な手を使ってでも、どうにかするべくジタバタするのが、はぐれの真骨頂であろう。往生際の悪さしか、他に自慢できることはない……。

イヤだイヤだと言いながらも、液タブの恩恵を受けることになるかもしれない。いや、実際イヤなんだけど、いよいよになったらそんなワガママも言えなくなるのは目に見えている。

そもそも板タブだって、相当抵抗したのだ。デビューして7〜8年は、ほとんどマウスだけで作業をしてたし。

板タブをそれなりにマジメに用い始めたのは、Painterを本格的に使うようになってからだ。

この業界に長くいる人なら知っていると思うが、ボクはKai's Power Toolsのヘビーユーザーだった。

しかし、ver.3で思いっきりがっかりして、おまけにPhotoshopのバージョンアップでKai's Power Toolsの旧バージョンが使えなくなったので、Painterに手を出した、という苦い経験が板タブを使い始めたきっかけである。

この時ばかりは、Kai先生を恨みにうらみましたよ、ええ、ええ。

とにかくMacには計算だけさせておけばいい、という考えが根底にあったことは素直に認める。もっと言えば、それ以上のことをボクはまったく期待していない。

だから長い間、エカキにもかかわらずマウスしか使わなかったし、それで済むような作業工程しか必要としなかった。

「アホか!」と思われる方も多いと思うが、「自分の動きを機械がなぞる」ということが気持ち悪くて仕方ないのだ。実際、今でも気持ち悪い。

板タブはあくまでもマウスの延長線上にしかなく、鉛筆とか筆とはまったくの別物、というのが正直なボクの気分である。タブローを描き始めてその気分が更に強くなったのは言うまでもあるまい。

筆圧感知だって、ほとんど信用していない。1028が4096になろうが、信用できないものはどう思われようが信用できないのだ。

ここまで来ると「写真を撮られると魂が抜ける」に等しい妄言である。が、ボクのタチが悪いところは、妄言であることを百も承知で、なお改めないところだ。上述したように、いよいよになったら分からないが、やはりある種の居心地の悪さは残り続けるだろう。

先端技術を否定する気は毛頭ないし、日進月歩で変化していく技術を見るのは楽しい。が、それが我が身に降りかかるとなると話は別だ。

無責任だからどんな技術だって面白おかしくながめられるのであって、あくまでもボクにとっての先端技術は、単なる好奇心のネタに過ぎない。

技術の変遷くらい面白いネタもまぁなかなかない。それがリアルタイムで起きているのだから、面白がらない方がどうかしている。

デジタルだって、元はと言えば会社員時代に業務上の理由から携わらざるを得なかっただけだ。もっとも、印刷とはまったく別方向で、びっくりして狂喜乱舞したのだが。

最初に使ったのはIllustrator88(!)である。前にも書いたような気がするので詳細は飛ばすが、数式で表される点・線という理論的一次元・二次元の世界を目の当たりにして驚いたのだ。ベジェ曲線はその際たるものだった。

ここで「Macは計算だけしておけばよろしい」というアホな概念が、そっこーで定着し、未だにこの呪縛から逃れられないのが実情である。面も同様で、「3点以上の点を線で結ぶと面ができる」を目の当たりにしたのもこの時だ。

もっとびっくりしたのは、二次元の面には「裏」という概念がないということをLihgtwave(!)で発見した時だ。いわゆる「裏面ポリゴン」というヤツ。二次元だから平面は片面しかないのが、理論的には当たり前なのだ。

三次元になってやっと、両方の面が観測できるようになる。裏面も確認しようとすれば、それなりの設定をしないと面を回転していって、裏の方に行くと見えなくなるという経験がどれだけボクを驚かせたか。

まぁとにかく、どこまでいってもボクにとって、Macは計算機に過ぎないのだ。モニターは単に視覚化された計算結果を見るだけのツールであり、それ以上でもそれ以下でもない。

ここまで時代錯誤な価値観の持ち主が、「液タブで絵を描く」という行為を忌諱するのは、ある意味当然だったりする。そもそもモニターの色だって、ほとんど信用していないし。

あくまでも印刷されることを前提に、経験値だけで推測しているに過ぎない。印刷されて初めて、ボクの絵は成立する。印刷されて、やっと実物が確認できるだけの話だ。

計算という点では、上記したKai's Power Toolsなんてのは、その代表みたいなもんで、だからこそボクはこのフィルターのヘビーユーザーだったのだ。

もうちょっと頭が良ければ(いや数百倍は必要やな)、自分でプログラムを書いていたかもしれない。そっちの方が面白いに決まってる。が、ここでも「我が身に降りかかりそうになるとソッコーで逃げる法則」は見事に発動するのだ、呵々♪

●結局は液タブ一択か

老眼から大分話が逸れた。

「絵を描くというのは体運動の一種」という概念と、デジタルという「計算」の世界が、ボクの中ではほとんど接点がない。だから、板タブでも気色悪いと感じるのであり、これが液タブとなると、今のように拒否感しか生まれない。

実際に描く絵を大きくしていくという手はもちろんアリだが、これをデジタル化するとなると、それなりの設備投資は必要だろう。デジカメで複写するという手は相当昔から使っているが、これはこれでけっこう手間暇が掛かる。それなりに光りの回り方も考えないといけないし。

こうなると、実際に描く絵の大きさにだって、当然頭打ちが生まれる。まぁ、お金があればいくらでもどうにかなるのだが、万年金欠状態の現状が好転することを期待するほど、ボクは楽観的ではない。そうなると、結局は液タブ一択にしかならないではないか。

それでも伊藤彦造先生の時代からすれば、ある意味垂涎ものの環境だとは思う。だましだましでも線を描くことができるのだから。

修士論文の末尾で「デジタル時代の線」に少しふれたのだが、当時頭にあったのは、やはりベジェ曲線のような計算で生まれる線でしかなかった。

鉛筆や筆の代用品としての周辺機器など想像もしていなかったし、いま現実にあるものを見たり触れたりしても、やはりボクには代用品にはならない。が、いずれは受け入れることになるのだろう。老いから逃げることはできないのだから。

それでも絵を描き続けようとすれば、それなりの代償を伴うのはむしろ当然であり、液タブというツールがある時代に生きていることを感謝するべきなのだろうとも思う。納得できないだろうけど、ショーバイじゃ仕方ない。

幸い、液タブそのものが普及してきたおかげで、価格も落ちてきた。後は広さかな? できるだけ1:1の関係は保持したいので、最低でもSL-01(356mm×268mm)くらいの広さは欲しい。実際、今使ってる板タブはその広さがあるし。

やっぱり面倒くさい人だとつくづく思う。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com