イベントやサプライズが好きな人もいれば、年中行事や自分の記念日に無頓着な人もいる。やった事を携帯カメラで写真に残し、発表する場所は今だとやはりSNSだ。毎日ネタに尽きない生活をしているのは、楽しそうだけれど大変そうでもある。
私はせいぜい自分のiPhone内に残しておくぐらいだけれど、人生を記録しておくのは「今」が楽しい以上に将来の宝にもなる。若い子たちがそれにどれだけ気づいているかはわからないけれど、どんどん撮って撮って、撮りまくればいいと思う。
私はせいぜい自分のiPhone内に残しておくぐらいだけれど、人生を記録しておくのは「今」が楽しい以上に将来の宝にもなる。若い子たちがそれにどれだけ気づいているかはわからないけれど、どんどん撮って撮って、撮りまくればいいと思う。
●記念日を刻む
先日夫の実家で夫が小さい頃の写真を見た。私たちは年齢差もあるので夫の昔の写真は完全に白黒写真が中心だった。家族写真は年中行事や、親がまだ若い頃の旅行の写真、何の祝い事で集まったのかわからないような集まりの写真がたくさんあった。親世代だと子供たちの集合写真が全員着物姿のものまである。
それらは小津安二郎の映画の世界のようで美しく、白黒だけれどシャープでクリアで素敵なものばかりだった。夫の家庭が今まで行事を大切にしてきたのを知る良い機会になった。
七五三や学校時代の子供の頃の夫の写真などは、あまりにも若すぎて不思議な感覚だ。数多くの写真を見ていたら、人って今も昔も自分たちの日常を写真に残すことが大好きなんだと気がついた。昭和時代も今も、やっていることは同じだったのだ。
写真は時間が経ちすぎていて誰が誰だかわからないものもあるし、同じ旅行だと思われる同じ場所の写真も多数ある。これを書いていてそれがなぜだか気づいたけれど、そういえば昔はカメラで撮影したら現像するまでちゃんと写っているのかわからなかったのだ。
今は液晶画面で写真になる画像が見えるカメラなんて当たり前だけれど、昔は「念のため」にと何枚も何枚も同じシーンを撮影していたのだ。
アナログカメラしかなかった時代は、フィルムを丁寧に巻き取って写真屋に持って行き、小さい指定用写真から欲しいものを決めて、写真として完成した時に初めてよく写っているのか判断できたのだ。
ネガフィルムを光にかざして指定していたような記憶もある。このあたりの写真の注文の仕方は時代によっていろいろ違うだろうけれど、とにかく手間のかかる作業を繰り返してようやく写真が手に入ったのだ。
●昔の人と目が合う
何十年も前の一瞬が切り取られた白黒写真は、記録として貴重なだけではなくいろいろな人々の思いが凝縮しているようにも見える。今よりもサイズの小さい写真や正方形に近いプリクラのような大きさのものもあった。
サイズによって値段も違ったのだろうし、ロケットペンダントに入れたりしたのかもしれない。
何枚かiPhoneカメラで撮影して拡大してみたら、細部がよく見えた。スナップ写真的なものは自由な感じで撮れているけれど、写真館で撮ったような写真はグラデーションの背景などで独特の雰囲気だ。
結婚式や子供たちの記念の写真。この時代にそこに写っている人たちも一回は出来上がったこの写真を見たのだと思うと感慨深い。この姿のまま写真を手に取って見ている姿が目に浮かぶ。
そしてやはり写真の良さを痛感するのは、どこまでもきめ細かく、白と黒の濃淡の綺麗な調子で記録されていることだ。セピアや灰茶のような色に変色しているものもあったけれど、なんとも言えない「深み」があるのだ。本当に何を今さらなのだけれど、写真って素晴らしいですね(笑)。
いつでも携帯できる娯楽器具が今のようになかった時代に、財布に写真を入れて持ち歩く意味もよくわかる。手に収まるような小さい紙の中に、大切なものが全部あるような、そんなものが写真なのかもしれない。
現代のインスタグラムのように、ネット上に増えていく写真だって価値が薄まっている訳ではないと思う。残し方の選択肢が増えて気軽になって安くはなったけれど、「今を残したい」気持ちは昔と同じだと思うのだ。
しかし、今はそれを目にする人が圧倒的に増えていて、他人の経験の影響が広まるスピードの早さがまったく違っている。
インスタグラムに比べたら、家の中のアルバムって本当に「点」として孤立している。引っぱり出して人目に触れることがなかったら、これらが見られることは何年もないのだ。処分された時には消えてしまう。だからこそ、見つけた時の感動があるのかもしれない。
「この飲み会いつの時代の何だろうねー。あ! ここにいるじゃない。これ自分でしょ?」と相当前の若かった夫の横顔に出会う。どこかの誰かがカメラを向けて撮った一瞬が、時を隔てて私の視線に変わるのだ。
夫の中学時代の証明写真も出て来たのでもらっておいた。受験用だろうか、詰め襟の制服を着て少し緊張した表情でまっすぐこちらを見ている。夫の現在の写真はiPhoneの中にたくさんあるけれど、私の知らない時代のものはもう増えていかないし、とても貴重なのだ。
ここに写っている中学生は、この写真がどこかのおばさんの大事なものになるなんてことは知らない。知らない方が幸せかも? 私にはわからないれど。
【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/
私はマウス派なので手首が疲れやすい。そこで手首のところにむにゅむにゅした感触のジェルパッドがついているマウスパッドを愛用していたけれど、二年使ったら傷んでしまって、端からジェルが漏れるようになった。
中のジェルは透明で和菓子の求肥みたいだ。手首のところがベタベタして、今までの快適さとは真逆の不快さ。Amazonで代わりの低反発パッド付きを買ってようやくそこそこ快適に戻ったけれど、本当はジェルパッドの使い心地が好きだった。求肥漏れさえしなければなー。
先日夫の実家で夫が小さい頃の写真を見た。私たちは年齢差もあるので夫の昔の写真は完全に白黒写真が中心だった。家族写真は年中行事や、親がまだ若い頃の旅行の写真、何の祝い事で集まったのかわからないような集まりの写真がたくさんあった。親世代だと子供たちの集合写真が全員着物姿のものまである。
それらは小津安二郎の映画の世界のようで美しく、白黒だけれどシャープでクリアで素敵なものばかりだった。夫の家庭が今まで行事を大切にしてきたのを知る良い機会になった。
七五三や学校時代の子供の頃の夫の写真などは、あまりにも若すぎて不思議な感覚だ。数多くの写真を見ていたら、人って今も昔も自分たちの日常を写真に残すことが大好きなんだと気がついた。昭和時代も今も、やっていることは同じだったのだ。
写真は時間が経ちすぎていて誰が誰だかわからないものもあるし、同じ旅行だと思われる同じ場所の写真も多数ある。これを書いていてそれがなぜだか気づいたけれど、そういえば昔はカメラで撮影したら現像するまでちゃんと写っているのかわからなかったのだ。
今は液晶画面で写真になる画像が見えるカメラなんて当たり前だけれど、昔は「念のため」にと何枚も何枚も同じシーンを撮影していたのだ。
アナログカメラしかなかった時代は、フィルムを丁寧に巻き取って写真屋に持って行き、小さい指定用写真から欲しいものを決めて、写真として完成した時に初めてよく写っているのか判断できたのだ。
ネガフィルムを光にかざして指定していたような記憶もある。このあたりの写真の注文の仕方は時代によっていろいろ違うだろうけれど、とにかく手間のかかる作業を繰り返してようやく写真が手に入ったのだ。
●昔の人と目が合う
何十年も前の一瞬が切り取られた白黒写真は、記録として貴重なだけではなくいろいろな人々の思いが凝縮しているようにも見える。今よりもサイズの小さい写真や正方形に近いプリクラのような大きさのものもあった。
サイズによって値段も違ったのだろうし、ロケットペンダントに入れたりしたのかもしれない。
何枚かiPhoneカメラで撮影して拡大してみたら、細部がよく見えた。スナップ写真的なものは自由な感じで撮れているけれど、写真館で撮ったような写真はグラデーションの背景などで独特の雰囲気だ。
結婚式や子供たちの記念の写真。この時代にそこに写っている人たちも一回は出来上がったこの写真を見たのだと思うと感慨深い。この姿のまま写真を手に取って見ている姿が目に浮かぶ。
そしてやはり写真の良さを痛感するのは、どこまでもきめ細かく、白と黒の濃淡の綺麗な調子で記録されていることだ。セピアや灰茶のような色に変色しているものもあったけれど、なんとも言えない「深み」があるのだ。本当に何を今さらなのだけれど、写真って素晴らしいですね(笑)。
いつでも携帯できる娯楽器具が今のようになかった時代に、財布に写真を入れて持ち歩く意味もよくわかる。手に収まるような小さい紙の中に、大切なものが全部あるような、そんなものが写真なのかもしれない。
現代のインスタグラムのように、ネット上に増えていく写真だって価値が薄まっている訳ではないと思う。残し方の選択肢が増えて気軽になって安くはなったけれど、「今を残したい」気持ちは昔と同じだと思うのだ。
しかし、今はそれを目にする人が圧倒的に増えていて、他人の経験の影響が広まるスピードの早さがまったく違っている。
インスタグラムに比べたら、家の中のアルバムって本当に「点」として孤立している。引っぱり出して人目に触れることがなかったら、これらが見られることは何年もないのだ。処分された時には消えてしまう。だからこそ、見つけた時の感動があるのかもしれない。
「この飲み会いつの時代の何だろうねー。あ! ここにいるじゃない。これ自分でしょ?」と相当前の若かった夫の横顔に出会う。どこかの誰かがカメラを向けて撮った一瞬が、時を隔てて私の視線に変わるのだ。
夫の中学時代の証明写真も出て来たのでもらっておいた。受験用だろうか、詰め襟の制服を着て少し緊張した表情でまっすぐこちらを見ている。夫の現在の写真はiPhoneの中にたくさんあるけれど、私の知らない時代のものはもう増えていかないし、とても貴重なのだ。
ここに写っている中学生は、この写真がどこかのおばさんの大事なものになるなんてことは知らない。知らない方が幸せかも? 私にはわからないれど。
【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/
私はマウス派なので手首が疲れやすい。そこで手首のところにむにゅむにゅした感触のジェルパッドがついているマウスパッドを愛用していたけれど、二年使ったら傷んでしまって、端からジェルが漏れるようになった。
中のジェルは透明で和菓子の求肥みたいだ。手首のところがベタベタして、今までの快適さとは真逆の不快さ。Amazonで代わりの低反発パッド付きを買ってようやくそこそこ快適に戻ったけれど、本当はジェルパッドの使い心地が好きだった。求肥漏れさえしなければなー。