はぐれDEATH[18]はぐれの五感至上主義みたいなもの
── 藤原ヨウコウ ──

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一応、ボクは絵を描いて口に糊してる。大半が挿絵であることは、今更言うまでもあるまい。挿絵である以上、絵は文章に依拠する。必要なのは創造力ではなく想像力である。文章を読んで作者の思いや風景を絵にするワケだが、ここで五感がかなり重要な要素となり浮上してくる。

五感で感じた経験値は、想像力にとって非常に有益な鍵となる。だからと言って、何から何まで経験できるワケでは当然ないので、不足部分はそれこそ想像で補完することになる。

例えば、厳寒のツンドラ地帯が舞台だからといって、わざわざ極東ロシアに出向くバカはいないだろう。少なくともエカキでそこまでは無理である。

ただ、ボクの場合は京都の底冷えやら、雪に閉じ込められて下宿から出られなかった経験をベースに想像することは可能だ。寒さに弱いボクにとってあまり想像したくないことなのだが、寒さの体感を思い出すのは難しくない。

メチャメチャ分かりやすい例だとは思うが、意外とこうした経験を絵に反映させる人は少ない。ナゼかは分からない。

と、偉そうなことを書いているが、何でもない日々の経験を刻み込んだり、感動したりするのは、娘に教えられたのだ。特に保育園の送り迎えの時である。乳幼児期の彼女の感覚は、ボクから見ても驚くほど敏感だった。




毎日同じ道を往復するのだが、ほんの些細な変化も見逃さないのだ。その変化にいちいち驚いたり、喜んだり、悲しんだり、楽しんだりする娘の姿は非常に新鮮であり、彼女の喜怒哀楽に本気で付き合わないと話についていけなくなると思い、五感を磨いた。先生はもちろん娘だ。

こうして忘れていた感覚を取り戻したり、付け加えたりしながら今のボクの五感は再形成されることになった。ちなみにこの訓練は今でも続いている。

特にアルト・サックスの練習で賀茂川なり宇治川に出向いたときは、五感をフルに稼働させる。日々変わる川のせせらぎ、風の強さや匂いや音、太陽の光……あげ出すとキリがないのだが、とにかく情報の宝庫なのだ。

ここにちょうどイイぐらいの人工音が加わる。練習と言っても基本は鳴らすだけなのだが、こうして自然と対話を始めると音そのものが変化する。やたらと激しい時もあれば、ひたすらゆったりすることなどザラであり、音色はもちろんその時の条件によって変化する。

やや脱線するが、初めてライブ・ハウスのセッションなるものに参加した時、ボクが一番戸惑ったのは閉鎖空間と、自然の音がないことだった。神戸の某ライブハウスで月一で行われている「先端音楽実験会」というセッションでは、初顔のひとは必ずソロで演奏するというお約束がある。この時は大いに困った。

その時初めて気がついたのだが、ボクは自然の音に思いっきり頼ってサックスを鳴らしていたのだ。防音設備が整った状態では、この相棒がいなくなるという珍現象が発生してしまったのだ。ちなみに今でもあまり慣れてはいない。

ひとり河原でぼけっと鳴らしている方が圧倒的に気楽なのだが、ボクの音は基本でかすぎるので(ちなみにボクが出向いたライブハウスでは、ことごとくマイク禁止措置が取られている)、警察を呼ばれたりすることがあるのだ。

仕方がないのでライブ・ハウスに行く。自然の音がきこえない。戸惑う。河原で鳴らす。警察を呼ばれる。ライブ・ハウスにいく。これの繰り返しである。もっとも河原で鳴らすとき、滅多なことではフルブローしないように気をつけてはいる。それでも警察を呼ぶ人はいるのだ。

話を戻す。自然に対する五感は、本来あるはずの感覚に過ぎないと思うが、現代を生きる人間は知らず知らずのうちに、こうした感覚を鈍らせているところは大きいと思う。特に都会では顕著だろう。

理由は簡単である。自然の情報より人工的な情報の方が、強くダイレクトに訴えるように意図的に作り出されている上に、この人工的な情報の量があまりに多すぎるからだ。

ボクからは正直理解できないのだが、歩きスマホなどはそのいい例な気がする。イヤホンで聴覚を遮断し、スマホの画面で視覚を遮断する。ある種の自己防衛本能が、歪な形で現れているだけな気がするのだ。

とにかくそこまでしないと、情報処理が追いつかないところまで来ているのではないだろうか。逆の言い方をすれば、人工的な情報が人をそこまで追い詰めている。ある種、かなり危険な状態なのかもしれない。あくまでも私見です。間違っても真に受けてはいけません。

こうした状態で「五感を研ぎ澄ませろ」というのは、どだい無理があるのだ。ちなみにボクはこの状態に耐え切れず、関東にいた頃、ものの見事に引きこもりという選択をした。人工的な情報より自然の情報を優先したに過ぎない。

だからと言ってこの選択を普遍化する気は毛頭ないし、他人に押し付ける気もまったくない。「人は人、自分は自分」の精神である。

ただボクには必然の選択だった。単純に職業的な理由である。とにかく他人様の作品を、より良く読んで解釈して絵にしないといけないのだ。もちろん、作家さんより知識量は圧倒的に少ないケースの方が多い。

ただ、この点については大体作中で上手に説明してくれているので、それほど不利ではない。問題は作品の空気を的確に捉えて表現できるかどうか、という点でありそれ以上でもそれ以下でもない(本当は違うが、原則はそう)。

さらに突っ込めば、これは情報の入力だけに限らないのだ。出力の際にも重要
なことになる。

ボクにとって絵を描くという行為は、体感運動の一つである。絵を描く技術は身体に叩き込むものであり、利用する際には自然と身体が動いてくれないと困る。想像して頭の中で作ったイメージが素直に描くという行為に反映されないと、絵は十中八九どこか歪になる。

特にボクの場合は、鉛筆がメインなので余計にダイレクトになる。タブレットで描く人も今となってはむしろ多数派だと思うのだが、ボクはこの点についてコンピュータをまったく信用していない。必要なのは紙に描かれた物理的な状態であって、データではないのだ。

我ながら柔軟性のカケラもない価値観だとは思うが、自然の情報を優先させるとごく自然な帰結に過ぎない。文章を読んでイメージして実際に描く、というここまでの過程が重要であり、コンピュータ上の作業は単なるフィニッシュワークのひとつなのだ。土台がしっかりと決まっている、という安心感がボクには必要なのである。

最近、このコンピュータ不信を揺るがすガジェットの登場で驚いた。iPad ProとApple Pencilの組み合わせである。店頭でちょっと触っただけなのだが、正直めちゃめちゃびっくりした。

これまでにもWACOMが液晶タブレットを出していたし、ボクもやはり店頭で触ったことがあったのだが「この程度か」と済ませていたのだ。それでも多分鉛筆は止めないと思う。何しろ安いし(かなり切実)。

五感の話に戻す。自然との対話は上記したように必要十分な条件だが、さらに特定の運動を経験することによって得られる身体記憶も沢山ある。ボクの場合、もっとも分かりやすいのは日本刀であろう。

エカキになって時代劇の絵を描くようになって、困ったのが日本刀だった。資料は腐るほど見たのだが、どうもそれらしく描けない。悶々とした日々を過ごしていたのだが「実際に持ったらエエんちゃうか?」という単純極まりない予測の元に模造刀を手に入れた。

しばらく自室で夜な夜な振り回していたのだが、それから日本刀がすっと描けるようになった。分かり易いにも程がある例だとは思うし、にわかには信じられないかもしれないが、実際こうなったのだから仕方がない。

たぶん科学的な根拠はあると思うのだが、ボクはこの手の理屈に時間を費やすより自分の経験値を高めたり増やしたりする方が重要なので、理論武装などほったらかしだ。

「絵を描くという行為の技術化」が身体に叩き込むことなら、他の運動も身体が記憶している限り、ある程度は反映できるのではないだろうか。一定のトレーニングを続けて、コンディションさえ整えればいいのだ。

とにかく続ける。身体運動はこれでお終い。と言いたいところなのだが、以前の稿で記した通り、二年間の引きこもり生活で、基本的な基礎体力を完全に失った。

慌ててリハビリ活動を開始したのも前稿でふれたのだが、9月現在、ついに身体が悲鳴を上げる羽目になってしまった。

慌てて、と言ってもいきなりハードなトレーニングをするつもりは毛頭なかったし、実際軽いスクワットとストレッチに専念したのだが、なんと約三か月で筋肉疲労の末、左太腿を壊してしまった。

いや、自覚はあったんですよ。何となく「左太腿の裏が痛いなぁ」とか「いつの間にこんなところに青痣が」とか。ほっといたら治るだろうと、例によって例の如く我慢していたのだが、二週間経っても治らない。

結局、整形外科行きである。レントゲン検査の結果、大事には至っていなかったのだが「痛い上に青痣が出来ている以上は、どこかが内出血している証拠。しばらく筋トレもストレッチも禁止」というお達しを受けてしまった。

疲労が蓄積していたようだ。若くないことは十分自覚していたが、こういう形で老いを目の当たりにするとかなり落ち込む。今はウォーキングで満足するしかないようだ。

あとはやっぱり五感を磨くこと。これはいくらでも増やせるし、磨くことが出来るだろう。上限はないのだ。実を言うと技術も同じなのだが、これまた五感次第。五感が鋭くなれば今持っている技術のアラはすぐに見つかるし、修正も可能だ。

ただこうした五感至上主義的なことをしていると、どうしても変えられない技術も出てくる。何しろ理屈で絵を描いているわけではないのだ。どうしてもボクという個人が浮かび上がる。

いくら「これまでと違うこんな絵を描けばいい」と気がついても、そんな絵は描けないのだ。生まれてからずっと続けてきたこと(アホなりの人生)は容易に修正できるものではない。不器用なので小手先でどうこう、というのも無理な話だ。

幸い、新しい環境は五感を磨くのにぴったりの場所である。何しろ伏見に住むのは生まれて初めてな上に、今まで接したことがなかった水運の文化の痕跡があちらこちらに見られる。ウォーキングがてら、早朝あちらこちらをちょろちょろしているのだが、実に興味深い。

ボクの住み処のすぐ横を十石船が運行しているのだが(もちろん観光目的だ)、ここでも色々な発見がある。まだ一年を通じてこの場所を堪能したわけではないので迂闊なことは言えないが、やはり季節や天候によって変化する風景というのは、ボクの五感には優しく安心を与えてくれる。そもそも静かだし。

当たり前の話だが、賀茂川より宇治川派流や濠川の方が圧倒的に川幅はせまい。十石船が通ったあとの波ですら、結構な大きさで岸に押し寄せてくる。大雨に関しては上流と下流で完全にコントロールされているので、上賀茂付近の賀茂川のような大荒れ状態にはならない。

とはいえ、水門が整備されるまでは水害にかなり遭ったようだ。そんなこんなで整備されて今の形になったそうなのだが、それでもかつての水運の街の面影は色濃く残っている。

五感もそうなのだが、多少歴史の知識があればいくらでも想像力はかきたてら
れる。まぁ、京都に限らずどこでもそうだとは思うが、ここら辺は分かりやすすぎる。

とにかく、米軍の戦闘機のエンジン音に悩まされズダズダにされた神経は、文字通り徐々に回復してきている。ありがたいことだ。

新たな刺激を五感が受け入れたせいか、やはり物の見方はまた少し変わってきた。これが自然な反応だろうと思う。過去の見方を放棄したわけではない。

単に見え方が変化しただけだ。むりやり元に戻す必要もない。それこそ不自然だし無駄な努力に過ぎない。

こんな関わり方が出来るというのは、現代人としてはかなり変わった部類だろうが、ボクは幸せなことだと思っている。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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