装飾山イバラ道[191]去るサル年に昔を振り返る
── 武田瑛夢 ──

投稿:  著者:



今年はサル年で私は年女だ。今は12年前にはいなかった旦那さんがいて、干支の一回り分の時間がけっこうあることを実感する。その12年前だと24歳でちょうど人生の半分なわけだ。24×2の年齢になって今回は去ってしまうサル年の記念に昔のことを振り返ってみたい。




●ゴールデンウィーク恒例のアート展

その頃は、今後の道を迷いながらもなんとか就職をして奔走していた。ただこの頃から楽しい人生も始まっていたような気がする。憧れのMacを使う仕事について、デジタル編集をしていたからだ。

会社では若いからかコキ使われたけれど、強気でいくには頑張るしかなかった。そして20代も後半になると覚えたMacのグラフィック技術で公募展に出品して、少しづつグラフィック関係の出会いが広がっていった。

公募展の受賞記念の二人展を六本木のARTBOXギャラリーで行った。たったの一週間の開催期間だったけれど、大学時代のクラスメートや仕事仲間が来てくれた。表現手法がCGのプリントというのは、まだ珍しかったのかもしれない。

まったく知らない人というのは、なかなかギャラリーに来てもらうことは難しかった。しかし、展覧会が始まって数日が経った時、そこに現れたのは今のデジクリ編集長の柴田さんだった。

実は「ディジタル・イメージ」の展覧会を見に行った時に、柴田さんのビジュアルは拝見していたので、ギャラリーに入っていらした時に私は気がついた。CGの人の展覧会はできるだけ見るようにしているとのことで、私は感謝した。

小さなギャラリーの一週間開催の展覧会というのは、東京で無数にある展覧会の中での点一個のようなものだ。そこに柴田さんが現れた幸運は、今思い出してもすごいことだと思う。毎日会場にいて本当に良かった。

その後、CGのアーティスト団体のディジタル・イメージに入れて頂き、毎年ゴールデンウィーク時期には、銀座ワシントン靴店の上にあるワシントンギャラリーでの団体展示に加わった。

ディジタル・イメージのことについて、今まで詳しくは書いてこなかったけれど、私が加わったのが96年で、球体をテーマに展覧会を行った年だ。ディジタル・イメージはそれまでも東京と大阪等で展覧会を開催していて、写真やイラスト、絵画などでディジタルの手段を使う人たちが集っていた。

会社勤めの人も多かったので、展覧会の会場の受付役などの当番の分担も、個々ができるだけ参加しながら活動していた。私の20代後半から30代半ばのかなりの部分に、ディジタル・イメージの存在があると思う。

銀座で毎年団体の展覧会ができていたのは素晴らしい日々だ。営利団体ではないので自主的に展示方針を決め、会場作りを行い展覧会を作っていく。一人あたりの作品サイズや展示スペースについては、事前に決めておいてもその通りになることは少なかった。現場では代表の長田さんや柴田さんの采配のおかげで、何とか全作品が収まっていたように記憶している。

作家は基本的にわがままだ。若くて自由だし主張も強い。それぞれの良いところを認め合いながら話し合って進めていたのが懐かしい。

大阪での展示の時には、関西方面の作家さんの手際の良さに驚いた。ハツラツとしたマインドに学ぶところが多かったように思う。作業はサッサとやって、早いこと飲みに行くという美しい流れが出来上がっていた。

柴田さんもこの頃のことは「クラブ活動」と呼んでいるし、放課後に同じことが好きな人が集まる場所のような関係。日々の仕事とは違う、でも手を抜くことのできない、大事な活動の場になっていたと思う。

●東京都写真美術館で初の有料展覧会

銀座での毎年の展覧会が難しくなり、他の展示場所を探した結果として、より大きな展覧会を開催することになった。

2002年の東京都写真美術館で行った展覧会では、ディジタル・イメージ初の有料展覧会だった。恵比寿という場所で開催期間は約3週間という長さだ。あれだけの広さと天井高の場所で展示ができるのは夢みたいな話だ。

私はそれ以前のディジタル・イメージの集まりの時に、大きな場所で展示をしたい人という問いに手を挙げたことがある。それを実現してくれたのだから、自分でも出来る限りのことをしようと思った。当時は会社も辞めていたので身動きが自由だったこともある。

有料展示なので、展覧会が始まった日の朝の時点から、展示のクオリティが完全でなければいけないというプレッシャーは大変なものだった。

公立の美術館ということもあり、使えるものと使ってはいけないものなどのルールも非常に厳しかった。この時は、多数の作家たちが苦労した経験だったと思う。

展示物には紙にプリントしたものを額装して壁にかける作品の他に、大型モニターにアニメーションを流す作品、壁に投影する作品、パソコンを使って観客に操作をしてもらう作品など多岐に渡った。

私は今までで最も大きい畳3畳分のサイズで、表裏とも見られる吊り展示の作品を作った。自分の作品は吊ってしまえば終わりなので、後は他の作家の映写系の作品などの展示を、毎日無事に動かし続けることのサポートをした。

私は確かマニュアル係だったので、紙のマニュアルのひな形を作って、それぞれの機器の起ち上げ方を作家にまとめてもらってファイル化した。

毎朝、準備時間に到着した当番の作家たちが、初めて触れるビデオやパソコン機器を起ち上げ、作品をスタートさせていく。マニュアルに書いてある通りに起ちあげようとしても、うまくいかない時もあり焦る。

テレビやビデオ機器はそれぞれの作家の持ちものだから、メーカーもセッティングもそれぞれだ。家電に詳しい人が毎日当番にいるわけでもなく、マニュアルに言葉の指示を残すことを徹底するより他に方法はなかった。

幸いデジタルの仕事をしている作家たちは皆協力的で、見やすく簡潔にまとめることに長けていたので、終わりに近づくにつれ問題も起こらなくなっていった。Macを覚えた頃の、マニュアル制作の仕事も役に立ったのかもしれない。

上記は記憶を頼りに書いたので間違いがあるかもしれないけれど、こんな感じで20代後半からはディジタル・イメージで出会った人たちとの関わりがとても大きかった。

紹介してもらった教える仕事、本を書く仕事も自分にとって大切なジャンルになっていった。この期間にギュッと詰まったものが、今の私を動かしているのかもしれない。

今年は結婚して10年の節目でもあり、新しく買ったMacで新鮮な気持ちで絵を描いている。特に締め切りもない作画作業は、幸せの波と苦しみの波が交互にやってくる。自分を納得させなきゃならないのは一番大変なのだ。

中年になると自分の事ばかりしていられなくなるものだと思うけれど、自分の時間を大事にした上で人も大事にしたい。また皆のために自分を使えるように、去るサル年の年女は頑張るのである。


【武田瑛夢/たけだえいむ】eimu@eimu.com
装飾アートの総本山WEBサイト"デコラティブマウンテン"
http://www.eimu.com/


ポケモンGOのサンタピカチュウ、たくさん捕まえたけれどみんな弱い(笑)。スマホゲームはマリオランもダウンロードが始まって、有料領域に行こうか踏みとどまろうか迷っている。グラフィックは綺麗だし可愛くて懐かしいけれど、これ結構むずかしい。