はぐれDEATH[23]はぐれが自身のヘタ字を釈明するのだ
── 藤原ヨウコウ ──

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とっくの昔に「作文は苦手」と白状したボクだが、実は字を書くのもめちゃめちゃ苦手である。字を書かなければ作文そのものは成立しないわけで、そういう意味では作文以前の問題とも言える。

字を書くのが苦手なのは、ひとえにボクの性格による。常軌を逸した面倒くさがりで怠け者という厄介な面が、字を書く時に露骨に表れるのである。

「字を丁寧に書きなさい」と小学校の恩師に指摘され(とにかくボクの字は酷いのだ)、それなりに努力はしようと思うのだが、この根気は3分と保たない。

最初は丁寧に書いてある字も段々形が崩れ出し、終わる頃には無茶苦茶になっている、というのはザラであった。我ながら天晴れとしか言いようがない崩壊ぶりである。

4年生から6年生まで、ずっと同じ先生が担任だったのだが、この先生はとあるお寺の跡継ぎで、とにかく字がきれいなだけでなく上手なのである。

幼少期から叩き込まれたのだろう。お寺の跡継ぎが教鞭をとるというのは、わりと普通に行われていたので特に違和感はなかったのだが、とにかく指導する先生の字がきれいすぎるのだ。

反論する余地など微塵もない。めちゃめちゃきれいな楷書をしっかりとお書きになる。それこそお手本のような字を書かれる方だった。

こういう方から見ればボクの字の汚さは論外であり、そもそも訓練すればどうにかなるということを、身を以てご存じだったりするから、ボクとしては厄介な相手である。





ボクの字の酷さを嘆いていたのは先生だけではない。父も同様である。

そもそも父も悪筆だったらしいのだが、中学時代のテストの折に「この字がちゃんと読めないから」という理由で減点されて、それ以来きちんと字を書くようにしてものにしたという強者である。お世辞にも上手な字ではないが、読みやすさは抜群である。丁寧にちゃんと書いているのだ。

「前門の虎、後門の狼」ではないが、ちゃんとした人に挟まれてしまったボクは、けっきょく書道教室に通わざるを得なくなった。基礎から徹底的に叩き込もうという作戦である。

一年半ぐらい通ったのかな。やめる頃には毛筆3段、硬筆5段まではいった。だから辛抱強く丁寧に書いていれば、それなりの字は書けるのだが(すごいくせ字だけど)とにかく字に関しては忍耐力が皆無なのである。

せっかくそれなりの字が書けるようになっても、これでは意味がない。ここから先生とボクの根競べが3年に渡って繰り広げられるのだが、今にして思うと本当に懇切丁寧な先生だったと思う。

当時の成績表の備考欄には、必ずボクの字に関する評価がついてきた。ここまでされると逃げ場がないので、最後の一年はめちゃめちゃ頑張って丁寧に字を書くことに努めたのだが、こうした取り組みを先生はきちんと評価してくださった。

そのままこの努力を続けていれば、今のようにはなっていなかったのだろうが、卒業して中学に進学すると、当然3年にわたったお目付役はいなくなる。さっさと放棄したのは言うまでもあるまい。

結局、中学でも高校でも、ボクの悪筆ぶりは先生方の間では困惑の元だったようだ。ちゃんと書いているときは、ちゃんとした字になるのだ。

「答案を見る限り根っからの悪筆というわけでもなさそうである。しかし、良いときと悪いときの落差が激しすぎる。これは一体どういうことか?」と先生方が頭をひねったのも無理なかろう。気紛れでやっているのだ。迷惑な生徒である。

もっとも会社員になってから「丁寧に書く」は一時的にしろ復活した。見積もりや請求書、諸々の伝票書きが日常業務の一部となるのだが、ここで雑に書いてはダメなのである。

当たり前の話だが、これらの書類は業務内容の報告であり伝達である。汚い字で書くなどもってのほかで、得意先に出す書類に至っては会社の看板に傷をつけかねない。こういうリスクはとことん排除するに限る。

内部的な書類だって同様で、汚い字で突っ込まれるなど論外どころか余計な仕事を増やすという、間抜けな事にしかならないのだ。

面倒くさがりなボクが、後に発生するであろう作業をわざわざ引き寄せることなどあり得ない。だから丁寧に書いた。我ながら小狡いとは思うが、これで変ないちゃもんから解放されるのなら話は別である。それでなくても色々衝突していたのだから。

デザイン系の学科に進学してから、この問題は別の形で表面化する。レタリングというヤツだ。烏口と定規を使って、正方形の中にきれいに文字を収める。周りがスイスイこなしていく中、ボク一人が置き去りにされた。

理由は簡単。正確さとムラのないきれいな平塗りが、ボクの中には全くなかったのである。ちなみに今もない。

これが手書きの文字とどう繋がるのか、疑問に思われる方も少なくないと思う。普通、別問題であり同時に語られる話ではないのだが、これがボクとなると話は別である。

再三述べたように、「丁寧にきれいに」ということは、ボクにとっては一苦労なのだ。字を書く段階でこけているのである。

こんな人に枠組みを与えて、その中で丁寧できれいな作業をしろという方が無茶なのだ。いや、逆ギレしているわけではありません。本来、当然出来て然るべきことがボクには出来なかった、というだけの話でそれはそれでボクなりに納得している。過去のツケが回ってきただけの話である。

字に比べれば絵など、ボクに言わせればアバウトなもんである。てきとーなコトをしていても、それなりになってしまうので始末に負えない。これを知っているから「丁寧にきれいに」から逃げ出してしまうのだ。

文字の歴史をひもとけば、絵から始まり様々な理由から情報の伝達手段や、記録として残すための手段として変化していったのは、今さら言うまでもあるまい。詳しいことは自分で調べてください。細々説明するのが面倒なのでどんどん飛ばす。

元は絵なのである。ボクはそこでストップしていると言ってもイイ。とことん原始的だ。

絵だってそれなりの歴史もあれば、技術の変遷などもあるのだが、これもじゃんじゃん飛ばす。説明しだすとキリがないし、そもそも調べ物をしなければいけないではないか。

一方、文字と絵が微妙な混じり具合をしている例も沢山ある。中世ヨーロッパの装飾写本などは最たるものだし、こうした装飾写本はアジア圏にもある。

宗教とは縁もゆかりもない分野では、日本で平安時代に大和絵から発生した葦手絵という実に楽しい手法まである。詳しいことは自分で調べなさい。

話が少し逸れるが、ヨーロッパと日本の最大の違いは、宗教の影響力であろう。ヨーロッパはキリスト教をベースに様々な分野で文化を発展させていったが、日本の場合は結構すぐに娯楽に走ってしまう。

中国や朝鮮半島、その他のアジア諸国に関してはあまり知らないので、敢えて言及を避ける。

書籍(木簡・竹簡等も含む)一つをとってもそうである。最初はもちろん新しい技術や思想・仏教の伝来、という形で登場したはずなのに、平安期に仮名文字が登場すると一気に娯楽に走る。源氏物語などはイイ例であろう。

その点、ヨーロッパは聖書が亡霊のように付きまとう。背後霊といった方がより正確なのかもしれない。とにかく厳しいのである。地理的な違いはもちろんあると思うが、日本ほど緩い土地というのも珍しいかもしれない。

江戸時代には浮世草子、草双紙、黄表紙といった書籍が出版され、貸本業によって都市部では幅広く楽しまれた形跡がある。

そもそも本というのは高価なものなので、おいそれと買えるようなモノではないのだ。そこで登場するのが貸本屋である。

この貸本文化(と言ってもいいのか?)が本を読むときの注意点を定着させた意味合いは大きい。頁は左下隅をもってくる、というルールはこの時に確立されたとも言われている。

読者がいるというのは、識字率の高さをも意味する。武士、商人などがそうだが、明治になって義務教育が導入されると識字率は更に跳ね上がる。

従軍中の兵士の手帳がよく公開されているが、あれを見るととんでもなく難しい漢字を使って、丁寧に書いているものなどザラである。句読点の使い方だってかなりレベルが高かったりする。

高級士官ではない。所謂、一兵卒で貧しい農村部から招集されたと思しき方の手帳で、こうしたケースは多々見られるのだ。少なくともボクよりは圧倒的に上である。

現代、このレベルの漢字と作文を書かせようとしたら、まず官僚共が怒り狂うだろうし、そもそも先生方だってかなりヤバい。子供のほうはどうにでもなりそうなところが笑えるのだが、まぁ良かろう。

とにかく大人が既にダメなのでどうしようもない。

「難しい漢字を読めるけど書けない」という人は少なくないと思うのだが(ボクもその一人だ)、この辺のバランスというのは意外と重要な気がする。

今こうしてMacで作文を書いている(打っているの方が正しい)のだが、字を書くという体感運動が、ものの見事に抜けている状態である。

ボクは絵を描くので、体感運動の重要性を勝手に高く評価しているのだが、これは字を書く行為にも言えるのではないかという気がしてきた。手書きの味がどうこうではなく、脳細胞と神経、筋肉の作用の話である。

キーボードを打つのと字を書くのと違いは、やはり脳と運動の差になって表れるのではないだろうか。

非常勤講師をしていた頃も、いま出向先で指導していることは「手を動かせ」である。メモでもラフでも同様なのだが、とにかく手で書くことを徹底しているところなのだ。

思考の整理である。もちろんある程度まで整理できなければ、コンピュータを使ってはダメ、とも言っている。

思考の整理は、ある程度の肉体運動を伴う作業の方が、広がりも可能性もあるとボクが勝手に思っているからであり、この考えが一般的だとは言わない。

ただ、脳と身体のバランスを考えると、こうした方が良いような気がするのだ。バランスは大事である。偏っているボクが言うのだから、まぁ大間違いではないと思う。

その点、コンピュータというのはとにかく便利すぎるのだ。恩恵はもちろん大きいのだが(おかげで拙いながらも、こうして作文を書いているわけだ)、その一方で色々な落とし物をしているケースは多々ある。

どちらが良いとか悪いとかいう話ではないと思うのだが、コンピュータに依存してしまうのには、何かしらの危うさを感じる。実際、この作文だってまともな整理などせずにダラダラ書いているから、こうして話がどんどん明後日の方向に行くのである。

というワケで話を戻す。

「字を見れば書いた人の性格が分かる」というのは、ある程度当たっていると思う。「ある程度」というのは、ボクのようにその時の状況に応じて「装う」ことをする人もいるから、一概には言えないのだ。

だが、几帳面な人の書く字はやはり読みやすい。こういう人が本気で丁寧に書くと、ボクなどは足下にも及ばない。

几帳面の一言で片付けてイイのかどうかはともかく、怠け者はもう最初からダメである。ちなみに奥さんは、几帳面の代表みたいな人なので、どうやっても読みやすい字にしかならない。

問題はボクと娘だ。ボクはもう出来上がってしまっているのでどうしようもないのだが、娘に関しては完全に盲点だった。

以前にも散々書いたと思うのだが、スマホをいじるのすら面倒くさがる子なのだ。そのくせ、自分本位に興味があることになるとのめり込む。

あれだけ面倒くさがりなのに、手編みは嬉々として几帳面にやるとなると、これはもうどうかしているとしか思えない。変な遺伝の仕方をしたもんである。

もちろん字は相当ひどい。左利きが災いしているところもあるのだが、それを差し引いてもやはりダメである。答案を書くときはそれなりにやっているようだが、基本がなっていないので面白い字にしかならん。

だからと言って、ボクは突っ込める立場にない。娘をして「お父さんの字、汚くて読めない」と言われているのだ。こうなると頼みの綱は奥さんだけである。

が、彼女は根が几帳面なので、なぜこのような事態になるのかが理解できないらしい。もっともな話である。ボクが過去にやらかしたことを娘が再現しているだけなのだから。

「親の因果が子に報い」というのはこんなんを言うのだろうか?違う気もするけど。

エカキが字を語るなどという大それた事をしたわけだが、やっぱりエカキはエカキなので、それほど深く掘れなかったなぁ。まぁ、毎度のことなのでこれはしゃぁなしである。

字に関しては専門家ではないのだが、アホな知識は腐るほどある。結局、要点を整理できていないだけで、これまたボクの性格が見事に反映されたというコトでオチにしておこう(おちてないし)。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!