はぐれDEATH[30]はぐれは成り行きで生きる
── 藤原ヨウコウ ──

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成り行き任せで生きてきたからはぐれになった、という説も大いにありそうだが、何から何まで成り行きに任せていたわけではない。殆ど成り行きだけど。

「節目節目で何らかの決断を下す」というのが一般的ではないかと想像しているのだが、この段階ですでに間違っていると指摘されてもボクは驚かない。ボクの世間知らずは底なしなのである。

だからといって、このことを言い訳にするつもりは更々ない。知らないことを知っていることにできるほど、ボクは自信家ではない。「知っているつもりが勘違いだった」などはザラにあるので少々のことでは驚かない。

大胆なのか小心者なのか、得体の知れないのがボクである。ボク自身よく分かってないし。

最初に決断したのは小学校4年生くらいに「大学へ何がなんでも行く」と決めた。理由は単純で、技術系の会社員になりたかったからだ。

そもそも就職というのは、「技術系の会社員になる」としか思っていなかったのだ。他にも職業があるのは知っていたが、どれもこれもいわゆる専門職だけなのだ。





何しろまわりは親父と同じ会社の人ばかりである。同級生には農家だのなんだのいたが、ボクの世間知らずの底なしさは“=無知”そのものなのである。

かてて加えて、思い込みの激しさも尋常ではない。会社員=技術屋という概念しかボクのなかにはなかった。こうなると、もう大学はマストの条件となる。親父しか見ていないのだ。我ながらなかなかスゴいと思う(笑)

小学生の時によく「将来なりたい職業は?」というのがあったが、ボクの場合は筆頭が会社員である。さすがにこれでは可愛げの欠片もないと思ったので「画家」とか「考古学者」とかも入れていたのだが、これらはあくまでも夢のまた夢で、当時のボクには現実性など皆無としか思えなかった。

いや、憧れはあったのだが、まさか今こんな稼業をしているとは夢にも思わなかったしね。小賢しいといえば小賢しいガキではあるが、ここにボクの小心者ぶりが見事に見てとれる。冒険とか博打とは本来縁遠い人なのだ。はぐれたけど。

てなワケで、大学に入るためのロードマップはソッコーで出来てしまい、高校受験の時にはそれなりの苦労をすることになった。

ボクが京都に来るまで過ごしていたのは広島県福山市。ボクが高校受験をした頃は、かの悪名高い「総合選抜制」という制度が公立高校に課せられていて、かつての名門校がことごとく凋落していた時期でもある。

今は盛り返してるようだが、とにかく学力の平均化が眼目だったので、行っても志望する大学に行けるかどうかすら怪しかったのだ。この悪夢のような呪縛から逃れていたのは、広島大付属高校、福山校と一部の私学だけである。ちなみに当時、福山には広大付属に肉薄できる私学はなかった。

広島市内の某有名私立進学校に行くか、岡山のボクが行った高校へ行くかの二択である。広大付属はさすがにハードルが高すぎた。

そこで岡山の私学を受験することになったのだが、ここでボクの普段の成績が問題になった。マトモに勉強していなかったのだ。とんだ片手落ちもいいところなのだが、計画というのは立案通りに進まないものである。

ロードマップはどこへ行ったとツッコミがジャンジャン入りそうだが、兎にも角にも半ば強引に志望校を受験し合格した。詳細は省くがなりふり構っているような状態ではなかったので、我ながら相当無茶をした(笑)いや、インチキはしていません、念のため。

大学は前にも書いた気がするのでパス。タナボタ合格だ。大学院も同様。

院で印刷の研究をしていたので、就職先はというともう完全に大手印刷会社の二択で、幸い片一方に引っかかった。この時もあんまり気負わなかったと思っている。

ちなみに、なぜ採用になったのかは未だによく分からない。それでも、小学生の頃に思い描いたロードマップは、完成しかけたのだ。退職さえしなければ(笑)

退職についても前に書いた気がするので、どんどん飛ばす。自業自得である。

で、結局「あり得ない」はずだったこの稼業に入るのだが、これまたどこかで書いた気がするのでパス。まぁとにかくとことん受け身なのだ。行き当たりばったり、とも言う。

さすがにこればかりは成り行きで済ませられなかったので、それなりの抵抗は試みた。出版社の持ち込みは必須なので、デビュー前からやっていたのだが、最近は「メールでサンプル送ってください」というケースが増えてきたので萎えている。

少なくともボクは、リアルに対面しないと頼める仕事も頼む気にはなれない。逆もまた然りである。それでも、メールなり電話なりで依頼されたお仕事を断ったことは皆無に等しいし、機会があれば必ず担当さんに会うようにしている。

こういう前時代的なやりとりが、相手にとっては邪魔くさいのかもしれないが、一応筋だけは通しておきたいのだ。受け身とはいえ、受けっぱなしに済ませていいことではないと思うからだ。

ボク本人は成り行きで済まされるのだが、この成り行きに巻き込まれたり、巻き込んだりした人は、かなりの被害を被っているはずである。邪推かもしれないけど。

「筋を通す」じゃ済まないことだってやらかしている可能性を、ボクは否定しない。

どこでどう転んでいるのかまで、鈍感極まりないボクが分かるはずもない。大抵すっかり忘れた頃に言われて(しかも本人は何かをやらかしたという認識すらないのだ)「え?」となるのが関の山で、ボクが知らないところで何を言われているのかなんて、興味すらわかない。

それが成り行きならそれはそれでしゃあなしだ。正直、弁解するのすら面倒くさい。

開き直っているワケではない。ボクに関する諸々の事象は自覚しているにしろ無自覚にしろ、ボクが発信源であり、その結果がどうなるかなどという高等な生き方などしていない。

基本、目の前のことで手一杯なのだ。特にこの稼業に入ってからその傾向は強くなった。

あたり前の話である。明日は何も保証されていないのだ。そんな環境で将来のロードマップを再構築するなど、ボクに言わせれば時間の無駄、労力の無意味な浪費、愚の骨頂極まりない堂々巡りの思考ゲームに過ぎず、結局どう死ぬかという、究極的な未来像にしか辿り着かないのだ。

ここまでアホ全開な人も珍しいかもしれないが、深遠な哲学的考察などボクとは無縁の世界である。宗教に至っては論外だ。いや、他人の信仰心は否定しません。ボクが無神論者なだけで。

運命などという得体の知れない何かにも興味はない。とことん唯物論者なのだ。なにしろ、生命の起源ですら確率論で片付けかねない人である。

成り行きで生きる、というのは今目の前で起きている事象を受け入れるか拒むかの二択でしかなく、ボクは大抵楽な方を選ぶのだ。その結果こうなっただけのことであり、それ以上でも以下でもない。

それでも何かしらの意思なり意図なりが(自覚していないにも関わらず)あるとしたら、それは絵を描き続けていることと、読書を続けていることぐらいだ。

この二つだけは、ボクの生活に常にあり将来もあり続けるだろう。「三つ子の魂百まで」というが、これを地で行ってるのが我ながら笑える。

遺伝だの育った環境だの、要因は色々あると思うが、これに関しては別稿に譲る。ちょっと調べたらけっこう根が深かったのだ。

計算違いと言えば娘ぐらいか。まさかここまで見事にボクと奥さんが反映されるとは……まぁ、当たり前と言えば当たり前なんですが、目の当たりにすると時々ドキッとしますよ。これまた成り行きの一言で片づけるおとおさんだったりする(笑)

まぁ、とにかく成り行きで生きていると、このようなダメな人になるのだが、これまたしゃあなしだ。よし、今回はキレイにオチがついた!


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!