実を言うと、漫画に関しては普段の読書体験よりもかなり遅い。しかも、初めての邂逅はかなりディープだった。
そもそもコミックスというか単行本の存在を知らなかったし、漫画そのものに関しても、特に興味深かったわけではない。「そんな本もあるんやなぁ」とうっすら思っていた程度だ。
家にあった本で満足していたし、未読の本も山程あったので、そっちにかかりっきりだったのだ。ボクが買い漁った本ではない。両親が与えてくれた本もあれば、両親の本もあった。好き勝手、手当たり次第に読んでいたし、ラインナップもそれなりにバラエティーに富んでいた。
「吉川英治全集」などは最たるもので「いつになったら読破できるんやろう?」と思っていたぐらいだ。
ついでに言えば、図書館の実在を確認したのは小学校の高学年になってからだ。学校の図書室は一瞥しただけで「家の方が沢山あるわ」とあっさり見放した。今にして思えば、なかなか贅沢な環境である。
●衝撃的だった横山光輝の『バビル2世』
初めて手にした漫画もお袋が与えてくれたものだった。横山光輝の『バビル2世』、しかもなぜか4巻からである。
「1巻から読まんと分からんやん」と思ったのだがすぐに夢中になった。この段階で1〜3巻はもう後回しである。とにかく続きを読みたいのだが、連載中だったのでまとめ読みといういつもの手が使えない。じりじりしながら新刊を待ちわびる、という体験もこの時が初めてである。
ここからは朧気な記憶を頼りに書くので、事実と違っていたらご勘弁いただきたい。手元に実物がない上にググるのも面倒だからだ。それでもキョーレツなインパクトを受けたのは事実だ。
まず絵がキレイだった。もっともここに関してはお袋の価値観も混じっているので、ボクが意図して選択したモノではないことだけは断言しておく。ただ、絵に関しては既に好き嫌いがはっきりしていたので、その点ではいいチョイスをしてくれたと思う。
とにかく線がキレイなのだ。もちろん手塚治虫の線もキレイなのだが、残念ながら手塚治虫に関していえばボクはかなり不幸な出会い方をしてしまったので、実質上の個人的な評価そのものは大学に入るまで後回しになった。この辺は端折る。書き出すとキリがないことになるのは目に見えてるからだ。
線もキレイなら造形も素晴らしかった。『鉄人28号』で既にその片鱗は見せているし、『バビル2世』が終わった次の作品『マーズ』でもその造形美はいかんなく発揮されているのだが、個人的にはやはり『バビル2世』が一番バランスが良かったように思う。
あくまでも主観です。とにかくそれぐらい惚れ込んでいたのだ。
なかでもロプロスには驚かされた。始めの頃は鳥に見えるように(無理があるけど)擬装されていたのだが、ヨミとの攻防戦で擬装がはがされ、金属部分が露出したのにはかなりビビった。
いや、最初からロボットであることは示唆されていたし、実際そんな行動をしていたのだが、一皮めくれば完全にロボットそのものという展開には度肝を抜かれた。
その点ポセイドンは、最初から分かりやすかった。鉄人28号の正統な系譜の上に則った、言わばベーシックなロボットとして終始活躍したのだ。
ロボットといえばアイザック・アシモフの「ロボット三原則」が思い起こされるが、三つのしもべに関していえば、かなり無茶なことをしている。
敵であるなら容赦なく殺すのだ。もちろんバビル2世の意思に基づいてはいるのだが、目的のためなら人を殺しても自己葛藤など絶対に起きない。もう完全に兵器である。こういう潔さも一つの魅力だと思う。メインコンピューターですら、侵入者をあっさり殺している。
彼ら(?)が守るべきなのは漠とした人類ではなく、バビル2世その人だけなのだ。というか、バビルの継承者の保護が最優先される。だから継承者を見つける時も確認する時も、徹底的に調べ上げるのだ。
条件をオールクリアしたものだけが主人であり、守るべき存在である。もっとも、継承者問題に関してはかなりハードルが高いようだが、地球外生命体のもたらしたテクノロジーをよく使うことが条件でもあるので、十把一絡げに「ロボット三原則」と同列に比較することはできない。条件が違いすぎる。
初代が「好きなように使っていい」と言いながらも、ヨミを排除したのは初代の意思なのか、メインコンピューターの自律的な判断なのかイマイチ憶えていないのだが、とにかくヨミは継承者として選ばれなかった。
脱走を試みたからかもしれないが、とにかく精緻な条件をクリアできなければ、守るべき存在として認識してもらえないのである。
だからといって、ただ守るだけではない。メインコンピューターはバビル2世に説教を垂れる場面もあれば、質問をはぐらかすこともする。一筋縄ではいかない(笑)
ここで注目すべきはロデムであろう。メインコンピューターの目の届かないところで、バビル2世に様々なアドバイスをしている。
ロプロスやポセイドンよりもコミュニケーション能力は圧倒的に高いし、知能に関してもストーリー上表面に表れている部分だけで判断するなら、ダントツである。姿形に関しても他の二体とは明らかに違う。何しろ可塑性なのだ。どんな構造やねん……むしろ、造形物としてどう作られたのか興味がわく。
殺傷能力だってロプロスやポセイドンよりも直接的である。そもそも飛び道具を持っていないのだ。自らの体を変形させて覆い被さったり、首を絞めたりとかなり生で確実にしとめる。もちろん噛むし(爆)
近年急速に発達し実働している人工知能の分野で、よく耳にするのが「人工知能の自我(意識)」である。特にディープラーニングをベースにしたAIでは、様々な意見があるようだ。
このへん、先にも書いたが『バビル2世』に登場するメインコンピューターにしろ、三つのしもべにしろ、漠とした人類を対象にしていないところがキモであろう。
守るべき対象を個人に集約することにより、判断や行動はより自由度を増すし明確になる。作者が意図したのかどうかは分からないが、見ようによっては非常に恐ろしいことでもある。だから、後継者選びが極めて重要となるのだろう。
今の世の中を見渡しても、こうした慎重且つ精緻な後継者選びはほとんどあり得ない。絵空事と笑って流すのもいいが、個人的にはもう少し見習った方がイイのではないかとも思ったりする。あまりに杜撰すぎるし……。
設定も今にして思えば相当きめ細かい。超能力、自律学習型コンピューター(しかも自己修復も出来る)、遺伝子解析、ロボット、地球外生命体(ウィルス)、空飛ぶ要塞、等々。
超能力の解釈の仕方は愁眉だったと思う。能力そのものは備わっていても、その能力を駆使するためのエネルギー源は、超能力者本人の体力(生命力といった方がイイのか?)そのものなのだ。自由好き勝手に使えるもんではない。使えば使っただけ疲労する。超人的な体力を備えているにもかかわらずである。
その他ひとつずつのガジェットに関しても、かなり踏み込んだことをしている。バベルの塔など、もう何でもありなのだが(何しろ気象コントロールすらしてしまうのだ)、ちゃんとした説得力がある。それも説明的ではなくストーリーの中で自然に語られるので、すっと頭に入るのだ。
特にヨミが送り込んだ超能力者とサイボーグ(?)が、バベルの塔に侵入を試みる攻防戦は迫力満点だった。ここでメインコンピューターは、主人公をさしおいて大活躍をする。AIが管理する迷路型要塞戦は、この当時すでに漫画の形で見事に表現されているのだ。
ふと思いだしたのだが、映画『バイオハザード』の舞台となったアンブレラ社の地下研究所「ハイプ」と、そこのメインコンピューター「レッド・クイーン」の組み合わせは、バベルの塔とメインコンピューターのそれと大差ないし、侵入者への対処の仕方も(理由は異なるが)容赦ない点で同様である。
『バビル2世』のメインコンピューターの、機能と魅力を語り出すとキリがないのだが、今でいうDNA解析もすれば治療(バビル2世はバベルの塔の防衛戦で二度も重症を負っている)までやってしまう。バビル2世を治療しながら、バベルの塔の防衛、修理、情報収集と大活躍である。
あとから知ったのだが、こうした設定そのものは特に目新しいものではなく、当時のSF小説の世界でそれなりに展開されていたようだ。
それでも『バビル2世』の完成度は、十二分に匹敵するものだと今でも思っている。ましてやSF小説などまったく読んでいなかった時に、こんなものに出くわした時の衝撃は察していただきたい。
かてて加えてやはり横山光輝の絵の力も、見事としかいいようがない。ワイドスクリーンバロック並みにネタをテンコ盛りしているのだが、絵がこうした大ネタ、小ネタの塊をしっかりと支えているので、読む方はかなり気楽である。
これは漫画という特殊な表現方法の、いいとこ取りをしまくったイイ例のひとつだと思う。
こんな作品が漫画の初体験となったのだ。ちなみにアニメ版は見ていないし、見る気もなかった。もうどうでもよかったのだ。当時のテレビアニメで、原作の骨太なストーリーが再現されるとは想像できなかった。
実は同時期に、放映・連載されていた手塚治虫の『海のトリトン』『ミクロイドS』もアニメは見ていない。共に原作の方を読んでいる。これが手塚治虫との不幸な出会いであり、ボクが手塚治虫から遠ざかった最大の理由でもある。
マズい。ややこしいところに首を突っ込みかけている。手塚治虫に関してはまたの機会に。
横山光輝の『バビル2世』は、ボクにとって本当に衝撃的だった。『伊賀の影丸』も『鉄人28号』も『マーズ』も読んだが、やはりボクの中では『バビル2世』が飛び抜けて評価が高い。
この一作で、ボクの漫画遍歴はいきなり頓挫する。同級生の間で流行っていた漫画には、当然見向きもしなかった。どれを見ても到底『バビル2世』のレベルに達していなかったのだ。だからまた小説の世界にあっさり戻った。
●はぐれは「マーガレット派」!?
SF小説に行きそうなもんだが、ナゼかそっち方面は避けていたフシがある。どこかでまた落胆するのを恐れていたのかもしれない。
コナン・ドイルからジュブナイル版の「ルパン」シリーズ(『奇岩島』には驚いた)、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティー(この辺からちゃんとした翻訳ものを読み始めている)へ向かうことになった。前にも書いたかもしれないが、横溝正史作品は怖くて読めなかった。
SFらしき作品に初めて接したのは、バローズの「火星シリーズ」だったと思う。完全に表紙買いである(笑)。武部本一郎という人を知ったのもこの作品で、この後、武部本一郎の熱狂的なファンになる。「こういう絵を描く人がいるんや」と素直に驚いた。
その後、SF小説を選ぶ時の最大のポイントが、表紙の絵になったのは言うまでもなかろう。
話が大分逸れた。話を漫画に戻す。転機はお袋が買い始めた「別冊マーガレット」と池田理代子の『オルフェウスの窓』である。
池田理代子は『ベルサイユのばら』を読んでいたので、唐突ではなかったのだが、周囲が大騒ぎしていたので、例によって例の如くイマイチのれなかった。『オルフェウスの窓』は割と最初の頃からゆっくり読んでいたので、素直に入れたような気がする。まさかあそこまで続くとは思わなかったけど。
「別冊マーガレット」で、くらもちふさこの『いつもポケットにショパン』に出会ったのは幸いだった。特にエンディングに向かう伏線の張り方には、度肝を抜かれた(もちろん、最終回まで伏線とは気がつかなかったのだが)。
この一作でくらもちふさこの大ファンになったのだが、『バベル二世』の苦い思い出がある。くらもちふさこのその後の作品を、注意深く見守ったのは言うまでもないのだが、この時の思いは杞憂に終わった。新作の度にグレードアップしてくれた。
後で知ったのだが、当時の少女漫画は「マーガレット派」と「花とゆめ派」の二大潮流があったらしい。後者に関してボクはリアルタイムで体験していない。辛うじて引っ掛かったのは萩尾望都の『銀の三角』(しかもハヤカワ書房版の単行本だっ!)だけである。
「少女漫画家がSFマガジンに連載していた」というだけの理由で読んでみた。これまた度肝を抜かれたのだが、萩尾望都にのめり込むことはなかった。なぜかマーガレット路線の方が居心地が良かったのだ。ボクの少女漫画の主流は、こうして出来上がった。
ここに『子連れ狼』と『じゃりン子チエ』が加わり、やっと手塚治虫が登場することになるのだが、これはまたいつか。
【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/
http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/
装画・挿絵で口に糊するエカキ。お仕事常時募集中。というか、くれっ!