「人工の被創造物に自我はあるか?」というネタのSF小説は、わりとオーソドックスでありながら、様々な想像を沸き立たせてくれる。ロボットなんかは、本当にネタの宝庫である。
最近はAIに押されつつあるようだが、自律で物理的に移動できればもうロボットと言ってもいい気がする。一方で任意の場所に固定される単純作業に特化したロボットもあるワケで、こいつはこいつで何らかの拍子に自我に目覚めるというネタもある。
自我の定義そのものをイマイチ理解していないボクにとっては、哲学的であれ生理学的であれ心理的であれ、基本なんでもありである。自我と自意識も違いがイマイチ分からん。
そもそも自我という観念が内面に属すのか、それとも周りの対象物との相対性に属すのか、それともそも両方なのかすらよく分からん。もっと言えば「高度な知性にのみ存在する」のかすら結構疑っている。自分を省みるに少なくとも、ボクが高度な知性の生命体とは思えないからだ(笑)
「猫は呼んでもこない」とよく言うが、これはこれで一種の自我がありそうな気がする。猫がありなら哺乳類はもちろんありだし、植物にいたっては菌類にすらありそうな気がしてくる。菌類がありなら単細胞生物にだって、あっても不思議じゃない気すらする。
妄想はとどまるところを知らず、やがて鉱物にもあるような気もしてくる。そうなると有機物だろうが無機物だろうが光だろうが重力だろうが自我は存在し、構築する素材それぞれに自我があれば、本体は集合的自我と言ってもいいような気がする上に、宇宙そのものが集合的自我ではないかとも思えてくるから恐ろしい。
アホの妄想はやがてさらに壮大になるのだが、話が思いっきり逸れてきたので端折る。ロボットの話や。
ご多聞に漏れず(?)ボクはロボット好きである。リアルかどうかはあまり関係ない。「ロボット」であるかどうかが重要なのだ。
ちなみにボクのロボットの定義は極めて広範で、鉄腕アトムやポセイドンのような分かりやすいヤツから、『2001年宇宙の旅』に出てくるHALのような人工知能まで含む。鉄人28号のように外部からのコントロールされるものもありだ。モビル・スーツはちょっと違う気がする。あれはハイテク鎧やな。
もちろん人型である必要はない。『バビル二世』に出てくるロプロスのような鳥型なんてのは全然オッケーだし、メカゴジラも大アリである。もちろん、アリ型ロボットもアリだ!
別に人間が作ったものでなくても構わない。ロボットがロボットを作るというネタはSF小説では本当に腐るほどあるし、実際オートメーションで作られているロボットだって市販されている。
ちなみにオートメーションという生産工程だって、人が介在していなければ(管理は別として)一つのロボットと言ってもイイと思っている。
ももち(すでに何度か出てきたが、猫である)に買ってやったゴキブリ型ロボットなんてのは、安い上に障害物にぶつかると勝手に方向を変えて、電池が切れるまで動いてくれる。おもちゃ屋さんで売ってます。
値段は忘れたけど、ボクがももちに買い与えることが出来たくらいだから大した値段じゃない。万を超えるものは基本買わないし(笑)要は廉価で大量生産されているものが、市場に出回っているというとこがキモなのだ。
ちなみにロボコンだって結構好きである。汎用型ではないけど、あれはあれで面白い。いつからかは知らないけど、二足歩行の格闘型ロボットのコンテストもあるようだ。こっちはまともに見たことがないので、評価のしようがないが。
「神は自らの姿に似せて人を創った」というような一節が、なんかに書いてあったような気がするが(聖書か?)人が人型のロボットを作ろうとするのは、一種のロマンでありながら、コンプレックスの反動でもあるような気がする。
もちろん、人型である必然性というか蓋然性は機能的にも大いにあるのだが、個人的にはひねくれた見方しかできない。そもそもボクが神を信じていないので、人型ロボットに対する見方はそれなりに冷めたものにしかならない。
こうしたボクの見方が、ある方面で完成されたのはやっぱり『バビル二世』なのだ。
『バビル二世』に出てくるロボットにしろメインコンピュータにしろ、主人につかえる僕としての役割を果たしている。忠実かどうかはかなり疑わしい部分もあるのだが、基本的な設定は主人を守り仕えるという点だろう。
これはそのように設定して作られたから当たり前の話なのだが、従属するという部分だけを取り出せば、一種の奴隷状態だ。
アシモフの「ロボット三原則」なんてのは正にこの点をついているし、作中でこの三原則そのものの可否にすら言及するのだから面白い。
ネタバレになるので詳細は省くが、三原則に悩むロボットまで出てくる。この辺は『鋼鉄都市』『はだかの太陽』『夜明けのロボット』『ロボットと帝国』の四冊を通読いただければ幸いである。
『われはロボット』に行かないところが、はぐれの真骨頂である。と言うのはウソで、この四冊は結果的にシリーズ物になってしまい、最初から最後まで一体のロボットが登場するのだが、こいつがなかなか興味深いのだ。
もう古典に分類されてしまうのだろうし、作中に出てくるガジェットも少々古くさいが、それでもストーリーそのものは今もって健在である。
これに対して、最初から人をなんとも思わないロボットが出てくる小説もある。酷いのになると人類は地上から排除する対象でしかなかったりする。映画なら『ターミネーター』が代表か?
ここら辺の設定をややこしくしてくれるのが、フィリップ・K・ディックである。『ブレード・ランナー』の原作者として思い浮かべる人も多いと思うが、原作の『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』(タイトルの段階で既におかしいし)は、映画版よりもディープである。
映画は映画で上手い具合にポイントを拾い上げてると思うし、傑作だと思うが、原作のやるせなさというか、陰鬱な心象風景は人である主人公、被造物としてのネクサス6、ともに病に等しいので読了すると確実に鬱になれる(笑)
ここまでドロドロになるのは、もちろんディックにとって深刻な文化的・社会的な背景と葛藤があるわけだが、正直この島国以外で住んだことがないボクとしては、やはりフィクションとして片付ける以外に手はない。
キリスト教なり、ユダヤ教なり、イスラム教なり、世界の宗教的な影響というのは日常生活にかなり深く根差している。そう考えるのが妥当であろうし自然だと思う。
この三つの宗教に共通するのは絶対的な神の存在であり、教義から生まれる行動規範である。特に後者は、良くも悪くも使えたりするので厄介極まりない。
だからといって、日本がこうした絶対神から完全に自由かというと、アホな国家神道があったりするので、手放しで批判することも出来ないのだ。実際、これでアジアを蹂躙した過去があるんだから。
とりあえず国家神道は横に置くが、神仏習合に代表されるように日本の神の扱いは、上記した三つの宗教と比べるとかなり雑である。八百万じゃ済まない気がするが、それでも混乱しないのがこの国の不思議なところである。
前にも書いた気がするが、死んだ人すら神になっちゃう国である。絶対神を信じる皆様からすればビックリ仰天なのだろうが、日本はこれでずっとやってきたのだ。
日本ネタに関しては別稿にゆずりたい。この国はアホなネタの宝庫なので、ちょいちょい小出しにしていきたい(笑)
ところで、欧米には宗教とはまたちょっと異なる、錬金術の歴史もある。ホムンクルスなんてのはロボットじゃないけど、人の手による被造物という点から見れば似たようなもんだし(!)、錬金術が科学の祖となったという説を採用するなら、クローン人間だってものすごい矛盾に満ちた被造物になる。
いちおう建前上は「倫理的にどうよ」というところで歯止めをかけているようだが、実在したとしてもボクはあんまり驚かない。やるヤツはやるのだ。
医療の世界では、ある種の人体改造はとっくの昔から行われている。患部の切除術なんてのは最たるものだし、移植なんか手術と言えば聞こえはいいが、ボクみたいに「改造」と言い方を変えれば、かなり印象は変わるはずである。
要は機能しなくなった(あるいは周辺部位に悪い影響を与える可能性がある)部位を切り取ったり、交換したりするワケだ。輸血なんか「足りなくなったので適合する血液を足しておきます」だ。
失血死しかけた経験があるボクが、何となく違和感を感じたのは、無意識にこうしたことを思っていたからかもしれない。
話が逸れついでに。フランケンシュタインの怪物も一種の人体改造であろう。複数の人間のバラバラになった部位を繋げ合わせる、というのは人体の再構築に過ぎないのだが(!)、ここで自我の問題が表面化する。
ストーリーに関するところは端折るが、要は自己と他者の比較であり、或いは社会の中での自己評価であろう。ややこしい事この上ないのだが、フランケンシュタインの怪物の物語の核心部は正にここにあり、ロボットの自己葛藤なり自我の問題は、既にこの段階で提起されている。もちろん結果論ですが。
移植はもちろんだが、再生細胞の応用分野はもう可能性の塊のようなもんで、理屈が分からなくても(想像は出来ますが)十分ワクワク出来る。
こうしたアプローチを、ボクは別に悪いコトだとは思っていない。特に身体障害者や老齢者には、高度なテクノロジーのサポートで日常生活を謳歌して欲しいと心から思っている。
なかでも若齢者で深刻な病を患い健常な営みができない人には、心の底からこうしたテクノロジーの恩恵を受けて欲しい。
若いからこそ、生きることで生まれる可能性の芽を摘み取って欲しくないのだ。少なくとも「自由に動ける」という状態はサポートすべきではないだろうか?
これはボク自身の体験からきているので、かなり眉唾かもしれないが「歩けない」というのは、もう本当に絶望的な気分にさせてくれるのだ。
ボクの場合は、まだ自己再生が可能だったのでどうにかしているが、一定の年齢を超えれば、自己再生すら不可能になる。
少子高齢化社会が現実になっているのに、ナゼかこの分野が活性化しないで、相も変わらずマンパワーに頼っている方がおかしいのである。
技術的な問題は十分クリアできるし、技術が日進月歩なのは歴史が証明している。大量生産(もちろんセミ・オーダーを前提にだが)が可能ならコストも下がるし、コストが下がれば、こうした技術の恩恵を受けることが出来る人が増えるのは自明の理であろう。
コンタクトレンズなんてのは、その最たるもののような気がするのだが、気のせいだろうか?
めちゃめちゃ話が逸れた。と言いつつ、現実レベルでロボットの話をし始めると、ボクはどうしてもここに行き着くのだ。ご容赦願いたい。
さて話を戻す。ロボットを人間の鏡として見ることにより、虚実様々な解釈の仕方ができるのが魅力の一つと言えよう。
この辺はSF小説の得意分野だし、突拍子もないものから限りなくリアルなものまでずらっと揃っている。中でもとっておきなのは「不死」ネタだ。
部品が壊れたり、機能しなくなったり誤作動するようになったら、原因を突き止めて部品を交換するなり、プログラムのアップデートをすればいいだけの話で、ロボットの機能が停止するというのは単純に物理的に処理が出来たりする。
逆に、物理的にアップデートが可能であれば、人よりもずっと長い期間機能することだって出来る。消耗品なんかは定期的に交換すればいいだけの話だ。
部品だって製造が中止されても、代替手段さえあれば置き換えは可能であり、完全な機能停止状態を生み出す方が困難な気すらしてくる。
この辺は生産コストと費用対効果、需要と供給の問題になるのでアホなエカキにはちょっと想像しづらくなる、ということは白状しておこう(笑)
ここに再利用とかが加わると歯止めがきかなくなるはずで、『バビル二世』では5000年前から三つのしもべもメインコンピュータも機能してるわ、自己修復するわと、それこそ不死身そのものである。もっとも、ロプロスは事情があって完全に破壊されてしまうのだが。
手塚治虫の『火の鳥』なんてのは、その点実に象徴的で死期が迫ると火の中に自ら飛び込み、新たな生を受け甦るというリサイクル(?)による不死を体現している。これが不死なのかどうかは、議論の余地が大いにあると思うが参考にはなるだろう。
機能停止した本体から部品を回収して、そのまま再利用という手もあれば、素材に一度戻してリサイクルという手もある。
素材そのものに多様性があれば、当然の事ながらリサイクルできるケースは増えるだろうし、馬鹿の一つ憶えのような使い捨て消費を前提としない素材開発が出来れば、応用範囲は飛躍的に増える。
別にロボットに限った話ではないのだが、ロボットを取り巻く技術開発の場は想像以上に広いような気がする。
特に天然資源はおろか、人的資源すら減る一方の我が国なんかは、本来なら切実な問題なはずで、アホな原発政策よりも優先すべきことは腐るほどあるはずなのだ。
というか、個人的にはアホなコトしかできない人間よりもも、不眠不休でマジメに国家を運営・管理してくれるAIの方が余程マシな気がしてくる。ものすごくシビアな行政になるかもしれないけど。
ハードウェア的には問題ないはずなので、問題はソフトだ。ここで悪意のある人間(確信犯であろうが無自覚であろうが)が介在したらお終いなのだが、実はここが一番リスキーだというコト自体、ある意味笑える。
また話が逸れた。一般的なロボットの定義からボクが逸脱しているのは十分理解しているのだが、逸脱すればこれだけ面白い(?)ことが妄想できるのだ。
もちろん、様々な情報源(主として本だが)は欠かせないが、好奇心というのはこんなもんだとボクは思っている。「ロボット」という言葉だけで、じつはまだまだ遊べるのだが、今回はここまで。
補足だが今回は「記憶」については敢えて触れなかった。実は「自我」と深く関わってくるはずなのだが、正直作文にできるほどの知識がボクにはない。なんとなく想像していることはあるのだが、現段階では無理。また機会があればその時に。
ところで、これは本当にロボットの話として成立したのか? もしかしたらAIにこの文中から重要と思われる単語や文脈を抜き出させ、再構築させたらまともな作文になるかもしれない(笑)
【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com/
http://blog.livedoor.jp/yowkow_yoshimi/
最近、本業で口に糊できないエカキ。これでエカキと言ってイイのか正直不安になってきている気の弱いぼーず。お仕事させてください…m(_ _)m