はぐれDEATH[33]精神鍛錬なんか無縁なはぐれが居合を続けるワケ
── 藤原ヨウコウ ──

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●時代劇の挿絵にチャレンジしているが

大分昔、日本刀が上手く描けなくて困り切っていた。特に刀身のあのカーブ。日本刀だけのために、普段なら絶対にしないデッサンもすれば模写までしたのだが、応用がまったく効かないのだ。これは実に困る。

リアリティーは不要だが、説得力は欲しい。考えに考えた末に、実際にボクが刀を持ってみればどうかと思いついて、奥さんに頼み込んで安い模造刀を買ってきた。

さすがに家の前で振り回すのはどうかと思ったので、狭い部屋の中で夜な夜な振り回していたのだが、効果覿面。あれだけ苦労した日本刀の微妙なカーブが、あっさり描けるようになった。実体験の重要さに気がついたのは、この時が初めてだ。

そもそも時代劇の挿絵に乗り込もうとして挑戦し始めたのだが、一時期を除いて今に至るまで、いわゆるチャンバラネタの時代劇のお仕事はまったく来ない。伝奇時代劇はちょこちょこやらせて頂いたのだが、王道路線は未だにゼロだ。

おっと、いま小説NON(祥伝社)で連載させていただいている、夢枕獏先生の『JAGAE 信長伝奇考』があった。これもどちらかというと伝奇ネタに近いので、露骨な剣劇シーンはほとんどない。あってもネタバレになりそうなので避けるし(笑)





動機は極めて不純で、当時最前線で活躍されておられた挿絵画家の先生達が高齢化していたので、後を襲おうと思ったのだ。分かりやすいにも程がある理由だが、この計算はものの見事に外れた。

そもそも、剣豪ネタの時代劇が減っているのである。人情ものの方が今は多いらしい。数少ない剣豪ものに、ボクが積極的に参戦するということは基本あり得ない。この辺のところは前に書いた気がするのでパス。

etudeではそれなりに描いていたし、ポートフォリオにも入れていたのだが、採用されることは皆無である。はぐれの目論見なんぞは、所詮この程度だ。

ちなみに、模造刀を振り回していた頃は完全に我流である。上記したように、狭い部屋の中で振り回すので、どうしてもコンパクトに振らざるを得ない。

抜刀から斬激までを6畳の狭い部屋(しかもそこここにややこしいものが散らばってたり、山をなしていたりする)でしようと思えば、自ずと最小限の動きにならざるを得ない。

ここで居合にいけば良さそうなものだが、人に何かを習うのは大の苦手な上に、そこまでする必要があるとは到底思えなかったので、我流で通した。そもそも居合と言っても、流派が腐るほどあって何がどういいのかさっぱり分からなかったし、剣術そのものの歴史もよく分からん。

いわゆる「日本刀」というヤツだって、一般に想像するものよりも種類がやたらと多い。時代によっても呼称が変わるし、作刀方法による種類もめちゃめちゃ多い。とにかく、掘り出すとキリがないのでさくっと端折る。

日本刀というヤツは極東の島国・日本の、他に違わず独特な変遷を遂げて今の形になった。特に「折れず、曲がらず、よく切れる」といった三つの相反する性質を、同時に達成することを追求するのが、日本刀の不思議さそのものなのだが。

戦国期には鎧の上から力任せに殴りつけたり、刀そのものの長さや兵の体力任せで斬るというのが一般的だったようだが、致命傷に至ることはそれほどなかったようだ。

特に鎧が鉄砲による射撃を前提に進展してからは、特にその傾向は強まる。確実に致命傷に至らすには、鎧通しという小刀の一種で鎧の隙間から止めを刺すというのが通例だったみたい。。

ちなみに、この時代は袈裟切りが主流だったようだ。一般に介者剣術とよばれる。桃山時代末期から江戸時代にかけて隆盛をほこった剣術は、こうした介者剣術の無駄を徹底的に省いた理詰めの方法論である。

こうした流れとちょっと異なるのが薩摩の示現流だが、これも端折る。

江戸時代に入ると、幕府が帯刀する刀の長さを規制するとともに、鎧の上から斬るというコト自体がなくなる。当然、剣術もそういう方向に流れていくわけだが、それが現代に続く剣道なりなんなりに繋がる。

籠手切りとか、もっと進化する指切りなんてのは、鎧相手じゃないとどうにもならんからな。と言っても、江戸初期には鎖襦袢を着物の下に着て歩くなどということもあったようだ。実戦的な部分はもちろんあるのだが、どちらかというと流行という側面の方が強かったようだ。

ただ「人を殺傷すために最適化された方法・道具」というところだけは、個人的には譲れない。もちろん、剣術の延長にある剣道も、ボク自身が関わるのは避けてきた。

もっとも「活人剣、殺人刀」という概念はあるようだが、この辺はもうさっぱり分からん。武器は武器である。

まぁ、よく「精神を養う」とか「人格形成」とかいう言葉が使われるし、実際そういう側面があるのは否定しない。ただ、ここでボクの悪いクセが出る。源流に向かってしまうのだ。

行き着くところは勝ち負けであり、更に言えば生死の世界である。勝負事が嫌いな上に、死に向かう方法論をボクが容認できないのは言うまでもあるまい。

中高の格闘技の授業では剣道を選択していたのだが、正直あまり気持ちのイイもんではなかった。竹刀で叩かれるのも叩くのも気が進まないのだ。

それでも勝負事が好きな好戦的な同級生はいるわけで、そんなヤツに好き勝手勝たせるのも癪だったので、それなりの工夫はした。詳細は省く。まぁネコ騙しみたいなもんだ(笑)。精神性のカケラもないのは、言うまでもあるまい。

もしこの作文を読んでいる剣道関係者がいて、不快に感じたら素直にお詫びする。だが、これはボク個人の考えであって、剣道なりなんなりの格闘技全般を完全否定しているわけではない。

要はボクの捉え方が異常なだけの話である。ただの個人的な好き嫌いなのだ。どうかご容赦いただきたい。話が思いっきり逸れた……。

ただ、こうした考えがボクの絵には露骨に表れる。結果、殺伐とした絵にしかならない。日本刀をやめて、関節技シリーズをetudeで展開したのだが、やっぱりダメだった。これでボクが積極的なアプローチを自らに課すことをやめたのは言うまでもあるまい。

いや、依頼があれば描きますよ。ていうかお仕事させてくれっ!

●続けることの恐ろしさというやつは

伏見に来て事情が多少変わった。まともに歩くこともままならない状態になり、お散歩だの体幹トレーニングだのを始めたのは、前述したので省く。

お散歩コースで野良のにゃんと遊ぶスポットがあるのだが、ここは釣りのおっちゃん達の釣り場でもあり、たまり場でもある。この釣りのおっちゃんの中に剣道と居合の先生がいた。

三度の脳梗塞を乗り越えた強者である。とはいえ、歳が歳なので身辺の整理をし始めたらしい。そこへボクというカモが出てきたのだ。

知識だけはそれなりにあるので、話し相手としては十分だったのだろう。ここで終わってくれれば落着なのだが、そうはいかなかった。身辺整理の品の中に居合刀があったのだ。

ボクは断ったのだが、間の悪いことに釣りの閑休期である。周りのおっちゃん達が面白がって、どこからか木刀まで持ち出してくる始末。もちろん師匠も釣りが出来ないので暇を持て余している。

かなり頑張って抵抗したのだが、成り行きというのは恐ろしいもので、結局、八人目の弟子になってしまった……。

それでも、最初「譲る」と言ってくれていた刀は固辞した。どう考えても、ボクの手にあまるし、過去の経験から飾りにしかならないのは目に見えていたからだ。

丹精込めて誂えた刀である。とてもではないが受け取る気にはなれなかった。その代わりと言ってはなんだが、ちゃんとした(!)木刀を頂き、居合の初歩だけをご教示願うことにした。

きちんとした流派なのだが、名前は控えさせていただきたい。看板に傷がつく(笑)

驚いたのは初歩の抜刀であった。ボクが我流で試していた方法と、基本、変わらないのだ。人が考えることなど、所詮はこの程度なのかもしれないが、限られた空間というのは、もうほとんど肩幅プラスアルファでしかないのだ。

更に付け加えれば、天井の高さだってある。ボクが自分でやっていたのは基本正座か膝立ちの状態である。まともに立って振りかぶると天井に当たるのだ。極めて物理的な理由に他ならないのだが、実際ご教示いただいた居合の初歩は、この問題を洗練して解決している。

もちろん、ボクのやり方は無駄だらけなので、過去の経験はさっさと捨てて師匠の言うことだけの反復に専念することにした。

動作も無駄なら力の入り方も無駄だらけ。おまけに基礎体力がないと来ている。かてて加えて、ボクは要領のいい人ではないので、基礎中の基礎をひたすら反復する。さすがに師匠も「これは想像以上に時間がかかる」と気づいたらしい。普通の人なら三日で出来ることが、ボクがやると一か月以上掛かるのだ。

教えてもらう前に、散々この点については注意していたのだが、どうやら想像を絶するとろさだったようだ。おまけに、例の溜まり場でやっていたので妙なチャチャをいれるヤツが出てきて、師匠の神経を逆撫でしたらしい。

もちろん、どんくさいボクに責任はあるのだが、素人同然のボクの居合もどきを見て「あれは居合じゃない」と言うのも、人として正直どうかと思う。

どれだけ経験があって技術があるのか知らないが、こんなケツの穴の小さいことを言う人間に、居合の意義だの心得だの道徳だのを言われてもボクが耳をかすはずがない。

ましてや、人間形成がどうのと言われたら、ボクなら確実にキレる。先にも書いたが、所詮は人を殺傷することを目的にした方法論である。こんなことで振り回されるのは馬鹿らしいにも程がある。

みんながみんなそうだとは思わないが、せめてボクの知らない所でこの手のアホなコトはやって欲しかった。

それはともかく、気の毒なのは師匠である。不肖の弟子とはいえ侮辱されたのだ。これにはさすがのボクも頭を抱えた。全責任はボクにある。

ボクだけが侮辱されるなら話は別だが、厄介なのは居合に限らず所謂「道」がつくものには、必ずついて回る看板と陰湿な対立関係、更にはそこから発生する歪な価値観である。

幸い師匠はこの手の所から身を離してはいるのだが(だから教えてもらうことにしたのだ)、それでもわざわざ首を突っ込んできて、神経を逆撫でするようなことを言う馬鹿はいるのだ。

この事がボクの耳に入ってから、苦悩したのは言うまでもあるまい。今のままでは師匠に対する周囲の風当たりは強くなる一方だし、だからといって習ったことを捨てる気にもならん。

手取り足取りきめ細かに教えていただいているのだ。ただボクの鈍くささが大きなネックになっている。道場でもあれば話は別なのだろうが、そもそも道場がないのだからどうしようもない。

もちろんそんなことは百も承知していたのだが、まさかこのようのな事態を招くとは想像もしていなかった。

苦肉の策だが、門外不出として基礎だけを自主練習することにした。師匠がどう思っているのかは正直よく分からん。逃げ出したと思われても仕方がないのだが、ボクとしてはこうする以外の手はないのである。

師匠はともかくボクがこれで懲りたかというと、そんなことはまったくなく、今もしつこく部屋で一人練習をしている。ただ剣道なり何なりの看板に対する嫌悪感は、以前にも増したのは事実である。はぐれとしては、当然の帰結なのであるが。

今のボクに出来るのは、師匠が教えてくれたことを可能な限り高度な状態に持っていくことだけである。初歩とはいえ、基礎がすべて詰まっている。基礎が十分に出来れば、応用はおまけみたいなものだと言うことをボクは絵で体験している。ひたすら基礎を反復して、身体に叩き込むことだけが今の目標である。

ただ先述したように、居合なり剣道なりに対する嫌悪感は、ほとんどアレルギーと言ってもイイような状態になってしまった。ましてや刀となるともう論外である。

個人的な見解だが、結論から言ってしまえば、刀を使う屋内なり屋外での確実な殺傷方法は刺突に集約される。それも胴体が一番確実である。

一番的がでかい上に動きが鈍い。頭や手は的としては小さい上に動きも細かいので、こんな所を狙うのはアホである。更に、なまじ斬ろうなどと考えるのは愚の骨頂で、刀を使った殺傷方法としては刺突ほど確実なものはない。これは師匠も言っていた(だから好きなのだ)。

まず速度である。刀を振る動きそのものより、刺突の方が圧倒的に早いし労力も少ない。居合では抜刀と斬撃一体になった技があるが、初太刀を外されると結構悲惨なことになる。

居合にしろ刺突にしろ、間合いの問題はあるが、これは刀を使う以上は同じである。更に次の動作に入る速度も、刺突の方が圧倒的に早い。刀の動きそのものが直線的で最小限だからだ。

さらに、空間の制約からもかなり解放される。ここに足捌きが加わると手に負えない。刺突が直線的と書いたが、それは単に刀の動きだけで、足を絡められると全体の動きは変幻自在となる。

おまけに刀身なり剣先なりを無視して、柄頭でいきなり突くという手もあったりする。抜刀するより早いのは言うまでもなかろう。一動作抜けるんだから。当たり所が悪ければ死に直結する。これも師匠が教えてくれた。

さらに、抜刀もしなければ柄でも突かず、拳なり掌底なりでいきなり突くという手もある。これまた師匠の教えだ。こうなるともう身も蓋もない。刀の存在意義すら怪しくなる。

更に師匠曰く「戦闘状態にならないようにするのが一番」。理を突き詰めていけば当然そうなるし、公言して憚らないのが師匠のいいところである。それでも万が一やばくなったら「後ろも振り返らず走って逃げろ」だ。

居合を教えてもらう前に、こういうコトを師匠から聞いたから、ボクは弟子になった。

今は師匠からいただいた居合用のちゃんとした木刀から、釣り仲間のおっちゃんが持ってきた、得体のしれないとんでもなく重たい木刀に切り替えている。

最初はとてもではないが振ることすらままならなかったのだが、最近はどうにかこうにかなりはじめている。続けることの恐ろしさというのは、こういうところで出るのだ。

これを振ってちゃんとした木刀を振ると、当たり前の話だが無駄な力を必要としない。そもそも重くて長い木刀を振ってる段階で、無駄な力が入らないように気をつけているのだ。それでもちゃんとなっているかどうかは別の話である。

まぁ、いい運動にはなっている。始めの頃悩まされた筋肉痛もなくなったし。刀は必要ない。得体のしれない木刀は1kg前後あるのだ。下手な模造刀よりも重かったりする。これで十分である。

精神鍛錬などボクには無縁である。ボクが居合を続けているのは、単に下半身の鍛錬に過ぎない。というか、居合はおまけで上体の動きに関わらず安定した体幹と下半身を得るのが目的だったりする。

没義道にも程があるが、はぐれというのはこんなもんだ、呵々♪


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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最近、本業で口に糊できないエカキ。これでエカキと言ってイイのか正直不安になってきている気の弱いぼーず。お仕事させてください…m(_ _)m