はぐれDEATH[49]はぐれが“ひらめき”について考えた
── 藤原ヨウコウ ──

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ボクの場合、基本アホなコトしかひらめかないのは当然である。

一般的に「ひらめき」というヤツは、「インスピレーション」とも言われる。ある人達は「天の声」という例えを使ったりもする。もちろん寓意だと思いたい。本気でそう思っている人も、もしかしたら少なくないかもしれない。

もちろん、こうした人達の考えをボクが否定することはない。どう思おうが個人の勝手である。ボクは全然そんな風に考えませんが。

所詮はシナプス結合による結果の一つに過ぎない。唯物論者としては当然の帰結である。

「偶然」すら否定してしまう人なので、まぁしゃぁなしだ。





「ひらめいた」と感じるのは、突如それまで接続したことがなかったシナプス結合が起こったとすら思わない。稀な接続なのかもしれないが、本人が気がついていなかっただけで、「ひらめき」と認識できるのは単にその時に気がついただけの話だ。

ただ、前提条件はある。

新しい知識・経験の積み重ねが、新たなシナプス結合を促進するのは当然であろう。無からは何も生じない。少なくとも、生命体だって無から生じたわけではない。諸条件が整わなければ、生命の誕生はあり得ない。

これは進化でも何でもなく単なる自然現象であり、こうした大きな事象の中から人も逃れることは出来ないし、その中にいる限り当然のことながら限界はある。もっとも、人一人があっさり突破できるほど狭くはないけどね。

宇宙だって我々に測定できないだけで(あるいは測定の方法そのものが間違っている)、想像を絶する広さを持ちながらも、それなりの限界はある気がする。

それは空間に限らず、時間ですらそうだろう。我々の理解を超える法則は宇宙に腐るほどある。

「まだ解明されていない」事象ですら、人が「?」と思って検証してもまだ解明されていないだけで、まだ気がついていない事象の方が圧倒的に多いだろう。

話を戻して。前にも書いたが、五感から得られる無意識の情報だって、「ひらめき」に欠かせないのは言うまでもあるまい。むしろ、五感からの情報の方が重要な気すらする。

ある程度の周期はあるにせよ、我々を取り巻く環境そのものが停滞したり、変化しないなどということはあり得ない。日々、何らかの変化があるのが自然である。

こうした変化(それがどれほど些細であれ、劇的であれ)に気付けるかどうかによって、ひらめきは量も質も高度になると思っている。あくまでも私感です。

劇的な変化はひらめきを通り越して、ある種のパニックすら起こす。東日本大震災や阪神淡路大地震などは記憶に新しいだろう。

なにしろインフラがあっさり崩壊したのだ。東日本大震災にいたっては、福島第一原発の事故まで起きている。これで冷静でいられる方が、むしろおかしいだろう。

「ひらめき」というにはあまりにアホな流言飛語が飛び交い、いまもまだ誹謗中傷が止む気配がないというのは、それまでの日々の生活をあっさり覆されたからに他ならない。

とりあえず、原発設置地域や大手電力会社の話は脇に置くし、「安全神話」とやらもほって置く。どちらも早々簡単に片付く問題ではないし、そもそも政府・行政・自治体・電力会社が素直に建設的な安全策を早急に講じるとは到底思えないからだ。

何しろこの国は資本主義国家なので、資本が優先されるのは当たり前の話だからだ。

70年代の公害問題だってそれなりに時間はかかったし、未だにすべて解決されたわけではない。時間はまだまだ掛かるだろう。また話が逸れた。

現代人の五感の感度は、恐らく平均すれば年々右肩下がりなのではないか、という疑念についても、どこかで書いたような気がするので詳細は省く。

要するに、自然の情報よりも人工的な情報の方が刺激が強いので、五感そのものが人工的な情報に最適化されつつあるのではないか、というのが主旨だが、人工的な情報というのは人の手で編集されたり改変されたもので、生の自然の情報とは明らかに質が違う。

いいか悪いかはともかく、どこの誰がどういじくったのか分からん情報であることだけは確かである。このような二次・三次情報から得られる「ひらめき」などたかが知れてる、とボクは傲慢にも程があるほど思っているので、基本無視である。

だからと言って他人の話に耳を貸さないわけではない。相手次第である。

高度に思考を重ね導き出された情報は、人工的とはいえ、しばしば新しい見方を示してくれるからだ。というか、そういう人としかあまりお喋りをしないんですがね。

とにかく「ひらめき」を生むであろう情報は、自然だろうが人工だろうが、片っ端から叩き込む。

ももち(以前から登場する猫ね)だって「ひらめき」のネタ満載だし、おねえちゃん(以前から登場する娘ね)だってもちろんそうだ。どこに何が転がっているのかは分からんのだ。

すぐに「ひらめき」に繋がることを期待することは、僕の場合あり得ない。

むしろ、醸造する時間は長ければなはいほどいいと思っている。お酒や漬物みたいだが、実際そっちの方から得られる(大抵後から気がつくのですが)ひらめきの方が質は高い。

それでも、「ひらめき」のすべてが使い物になるかどうかはかなり疑問である。実際、ボクの場合は9割方使えない。いや、1割も怪しい気がする。

だから徹底的に検証するし、考える。

これはあくまでもお仕事の場合ですね。日常生活でこんなことをしていたら、ソッコーで狂うわっ!

ちなみに、この駄文も思いつきだけで書いているので、質に関してはかなり怪しい(笑)。精査などまったくしてないし。さすがに推敲はしますが、かなりいい加減である。

で、「ひらめき」とやらが重視されるのはもちろんお仕事に限定されるし、その限定された場では大抵の場合、原稿に「ひらめき」のネタは転がっているので、気楽と言えば気楽なのですが、どうにもそれでけで満足出来ないのがボクという人の厄介なところだ。

基本「原稿原理主義」なので、きちんと原稿を読めば済むはずであり、実際その通りなのだ。それでも満足出来ないのは、もうワガママ以外のなにものでもない。「まだ何かあるんちゃうか?」と思ってしまうのだ。

もっと分かりやすく酷い例えをすれば、「映らなくなったテレビでも叩けばどうにかなりそう」という、昭和の発想そのものだったりする。実際、それでどうにかなってたし、PCですらちょっと調子が悪いと、未だにボクは叩いたりしてるし。

シナプス結合とエラそうな言い方をしても、しょせんは電線が繋がるかどうかの話で(!)少々の接触不良などは、叩けばその場はどうにかなるもである。

「ひらめき」だってこの程度に荒っぽいものだからこそ「天の声」という比喩が生まれるに過ぎない。

だからこそ、日頃どれだけ情報をため込んでおくかが重要になる。いくら叩いても中で動くネタが少なければ、ひらめきようがないではないか。

と、まぁ難しいのやら荒っぽいのやらよく分からない結果にしかならなかったが、はぐれのひらめきなどこの程度である。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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最近、本業で口に糊できないエカキ。これでエカキと言ってイイのか正直不安になってきている気の弱いぼーず。お仕事させてください…m(_ _)m