●ボクの伏見の範囲が狭すぎる
伏見(正確には中書島)に住んで二年が過ぎたのだが、つい最近になって気がついたコトがある。ボクの伏見観は、東は桃山山地、西は新高瀬川、北は丹波橋通り、南は宇治川という極めて狭い範囲であることだ。
以前、京都人の洛中洛外感・距離感についてボロカスに書いたのだが、正直申し訳ないぐらいの狭さである。
ボクの中での京都と伏見の南北の明確な境界線は名神高速道路だったのだが、副業で名神高速の北側(竹田)に原チャで通わなくならなければなくなって、はたと気がついたのだ。
まず断っておくが、ボクは京都と伏見を明確に区別している。もちろん、それぞれの特色を最大限に評価した上での話である。
以前にも書いたが、ある時期まで実際に、行政区分上「伏見市」というのが存在していた。どういう基準で「伏見市」ができたのかは不明だが、歴史的な流れから京都市とは異なる区分が、素直で無理がなかったのではないだろうか?ちなみにこの知識は後付けである。
ボクの感覚でも、伏見は京都市とは別個に評価すべきだと思っていた。ただの勘であるが。特にこれといった基準値があったワケでも何でもない。そもそも京都駅以南に行くことは、滅多になかったからなぁ。
何しろ元々の拠点は左京区北部、北区である。せいぜいが今出川通辺りまでが活動圏内だったので、京都駅ですら「かなり南」という感覚である。
だから、京都駅以南はほぼ未知の領域。せいぜい名神高速に乗るための、通過点に過ぎなかった。
京都駅にしろ名神高速にしろ、ボクにとっては遠距離移動以外の機能はまったくない。日常生活や大阪に行く程度なら頑張っても四条くらいで、実際その程度の行動範囲しか持ち合わせていなかったし、京都駅〜名神高速間はボクの中で見事に空白の地域であったことは、素直に白状しておく。
こんな状態なので、伏見の地理・知識・感覚はすっぽり抜け落ちていた。この感覚はいわゆる「洛中観」に酷似しているのは、言うまでもないだろう。この状態で伏見に住むとなると、やはり気になるのが名神高速の存在である。
重ねて言うが、ボクにとっては遠距離移動以外の機能はまったくなく、基本、無縁の存在である。だから日常生活をベースにした伏見観は、上述したように「東は桃山山地、西は新高瀬川、北は丹波橋通り、南は宇治川」という極めて歪な状態になってしまった。
更に西は、新高瀬川から向こうは南区だと信じ切っていたのも大間違いだった。ちなみに、東は未だに変わらず桃山山地だ。
この地図を見ていただければ、ボクの伏見観がいかに歪であるかは、一目瞭然である。
赤い部分がボクの伏見の範囲。驚くべきは、伏見稲荷すらこの範囲外だ!狭すぎるにも程がある……_| ̄|○;
先日、ちょろっと、伏見稲荷に生まれて初めて行ったのだが、それでもやっぱり個人的にはせいぜいが「伏見のハズレのハズレ」にしかならなかった。ちなみに、上賀茂ですら京都のハズレという認識である。
元々、ボクは徒歩かチャリでしか移動していない。大阪に出る時は京阪だし、洛中に行く時はチャリ+市営地下鉄、もしくは市バス(最近はこのパターンの方が多い)である。いわゆる日常生活圏が、そのままボクの伏見観になっているだけの話である。
いままでさんざん書いていることだが、京都市内の都市計画(道路)は平安時代からさして変わっていないし、この当時の移動手段はほぼ徒歩(もちろん例外はある)だと言ってもいい。
もっとも別に京都に限った話ではなく、古い都市計画が残っているところはどこもそうだ。
特に太平洋戦争後の、急激な開発から取り残されたところ(戦災に遭っていないと更に)はどこもそうだろう。京都以外でボクが実際に体験した所と言えば、倉敷である。
倉敷は水運の街である。ちょっと伏見っぽいかも。江戸時代に天領だったので、武士よりも商人・町人の方が圧倒的に多い。城下町とはまた異なる風情なのだが、京都との圧倒的な違いは、公家が不在だった点だろう。
おまけに碁盤の目ではない。というか、ボク自身京都に来るまでは碁盤の目の都市計画は体験したことがない。
伏見の町並は豊臣秀吉が桃山城築城の際に都市計画も行い、この時にやたらと直線的な町並になったようだ。水運を中心とした物流の面で、徹底的に整備したのも秀吉。大阪、奈良、京都(洛中)を結ぶ交通の要衝である。
ちなみに、この範囲の特徴的な町並は酒造所と、昔ながらの町家がまだ残っているところだろう。さすがに伏見港に往時の姿はない。
治水と陸運で埋め立てられたりして、今は相当規模が小さくなっている。後は水路沿いにあの有名な寺田屋さんが残っているくらいで、旅籠関係もほとんどない。それでもボクの嗜好にあった、都合のいい場所だ。
「西の新高瀬川まで」というのは、これ以西からこうした景観が著しく損なわれる上に、京都府が京都駅南側の大規模商工業施設の誘致・開発をしているようなことを小耳に挟んだせいもある。実際、中小の工場や物流拠点が多く存在する。
こうしたことから、何となくこの地域を勝手に南区と思い込んでいた。もちろん、実際には伏見区の一部も含まれているのであるが。
名神高速京都南インターに近いこの場所は、物流面でも極めて有利な場所だし、いわゆる京都人からすれば「京都市ではない」という理由で、比較的開発がしやすかったという理由もありそうだ。
余談だが、京都南インターのすぐそばには、ラブホが密集して建ち並んでいる。すぐそばに城南宮という、神聖な場所があるにもかかわらずである。この事実だけで、景観などハナから無視しているのは容易に推察していただけると思う。
更に新高瀬川の西には阪神高速京都線が通っており、更に西には大阪とのメイン・ルートの一つ国道1号線が通っている。
ちなみに、ボクは阪神高速京都線を利用したことはない。知らないうちに出来ていて、初めてこの道を目にした時「なんじゃ、この道路は???」と戸惑ったぐらいだ。
正直、記憶が怪しいのだが、京都駅南側の開発が本格的に始まり、それにつれて幹線道路がジャンジャン整備されていったのは、ボクが会社員時代の時代で、フリーになった頃には、新しい道がやたらとできていて驚いたのは憶えている。
京阪電車が地下に移動して、それまで三条までしか通っていなかった川端通りが、一気に東海道線を貫いて南まで延びたのが、一番のショックだったような気がする。
鴨川沿いに走る京阪電車というのは、個人的にはなかなか好ましかったし、特に日が暮れると電車の明かりが鴨川を照らして、とてもキレイだったのだ。
洛中の話をしてどうする。伏見や。
●窓から桃山山地が一望できる
とにかく、ほとんど初めての土地なのだが、結果的には上賀茂に次いで居心地が良く、景観もいい場所におさまったので、余計に新高瀬川以西の景観から伏見とは思えなかったし、実を言うと内心まだ認めていないところがあったりするのだ。
極端な話「水路と川がなければ伏見ではない」という、偏狭にもほどがある思いがあったりするので質が悪い。それぐらいボクにとっては、特徴的で愛すべき景観なのだ。
部屋が東の角部屋なので、窓から桃山山地が一望できるというのは実に嬉しい。目を少し下に降ろせば水路も丸見えだし、緑も一杯。
ありがたいことに、中書島近辺の京阪電車は地上を通っている。海こそないが、雰囲気はボクが生まれ育って慣れ親しんだ土地に、洛中よりよく似ているのも恐らく影響しているだろう。
個人的にはこれで伏見を完結させても別に構わないのだが、上述したように、以前に京都人のことをボロカスに書いたので、ここは素直に反省しよう。西はともかく北は桃山山地・京阪電車・JR奈良線に沿った伏見稲荷までは、素直に北上させることができる。
この辺りは原チャに乗り始めてちょろちょろうろついたのだが、なかなかいい感じである。
伏見稲荷も、行くまでは根拠もなく内心馬鹿にしていたのだが、行ってビックリ。鬱蒼とした緑に囲まれた、千本鳥居沿いの参道には心を打たれた。
緑と朱のコントラストもさりながら、複雑に起伏した地形もボクの好みにぴったりである。「なかなかいい場所を選んで整備したなぁ」と素直に感動した。
境内の西側に隣接する道の名前が「師団街道」というのには、びっくりしたけど。どうやら、大日本帝国陸軍第十六師団がこの近所にあって、これがこの道路の名前の由来らしい。
ボクにとって重要なのは、桃山山地の山裾に沿った環境なのだろう。実際、現在の高瀬川あたりくらいまで、緩やかに下がっている。正確には竹田街道より二、三本東の通り。
GoogleMapで調べたのだが、通りの名前が載っていない。付近の店舗から調べようと思ったのだが、「○○通西入ル(東入ル)○○筋下ル(上ル)」という伝統的な表記が見事にないので、さっぱり分からん。
なにしろ、まだこの辺の通りや筋の名前はまだちゃんと頭に入っていない。洛中なら、かなり細い道でも分かるのですが。
実はこの「○○通西入ル(東入ル)○○筋下ル(上ル)」という表記が、通りや筋の名前を知っていると一番分かりやすいのだが、公文書の住所記載で出来なくなったらしく(うろ覚えなので本当かどうか不明)、いつの間にかめちゃめちゃ減った。
さすがに河原町近辺の繁華街や、鉾町がある辺りはまだなんとなく残っているのだが。
京阪・近鉄を境に東に行くと、町名が大名の名前だったりする。桃山城を中心に、斜面に沿って大名屋敷町があった名残らしい。
らしい、というのはこの辺は高級住宅地で(実際そうだけど)個人的にイマイチ足を踏み入れる気にならないし、ちゃんと調べてもいないからだ。普段の生活ともあまり関わりのない場所、という理由もある。
それでも、ボクが住んでいる近辺とはまた趣の異なる、落ち着きと静かさがあるし、それはそれでいいもんである。
ちなみに、南限の宇治川はマストである。今は宇治川の南に広々とした土地になっているが、元は巨椋池。戦前の干拓事業でなくなった。
もっともこの干拓は、ポンプで排水して無理矢理池の底に至るという、無茶ぶりだったらしい。
おかげで、Wikiによると「1953年の昭和28年台風第13号の大洪水で宇治川の堤防が決壊した。これにより干拓前の巨椋池全域を含む2880ヘクタールが浸水し、干拓地に巨椋池が「復活」する災害が起こった。」そうな。被災された皆様には気の毒だが、さぞや壮観であったろう。
巨椋池に関しては、治水・水運絡みでどうも桃山時代辺りから色々と人工的に手を入れているらしいのだが、詳細は省く。ちょろっと掘りかけたのだが、ゾロゾロ関連資料が出てきたのでやめた。興味のある方は自分で調べて下さい。
個人的には往事の巨椋池の姿を勝手にイメージして、それを「巨椋池」と思っているので、どうも今の姿がピンと来ないのだ。そのうち慣れるのかもしれな
で、宇治川(巨椋池)の南は宇治、という認識になる。もちろん、実際は違います。これまた宇治川より以南には、まったくと言っていいほど行ったことがないから、というこれまた偏狭な経験値に基づく認識であって、それ以上でもそれ以下でもない。
とまぁ、ボクの伏見観は、主に経験値と勝手な想像だけで、論理性のカケラもない。実際、伏見稲荷が抜けていたという間抜けな事実もある。
この際だから白状するが、山科区もボク的には京都の外である。だって東山より東だから(!)。住んでいる皆様に大変申し訳ないのだが、余所者の言うことなので勘弁していただきたい。あくまでもボクの感覚的なものであって、実際の歴代行政区や歴史・文化とはまったく関係ない。
ただ、これだけは言える。東と北に山がないとボクはイマイチ落ち着かない、という間抜けにもほどがある感覚である。いや、感情と言ってもいいかもしれない。それくらい自分でも得体がしれない。
原因は生まれ育った福山にあるのは明白だが、福山を離れて35年近くになるのだ。未だにこういう感覚が残っているというのは、いったいいかなるものなのだろう?
しつこ過ぎるのか、未練がましいのか、余程ひねているのか、記憶がやたらとキョーレツなのか……。
記憶は怪しいな。頭悪いし、もの忘れ激しいし。
それにしても、まさかこのような形で以前に書いた洛中・洛外感に対する悪罵が我が身に返ってくるとは思わなかった。素直に反省しよう。撤回はしないけど(笑)
【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com