はぐれDEATH[73]はぐれが妄想する日本の近世・近代・現代の大きな断絶とかなんとか
── 藤原ヨウコウ ──

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以前から書いているように、ボクは明治維新そのものには否定的な立場を取っている。詳細は前に書いたと思うので省く。

いちばん怖いと思ったのは、江戸期の庶民生活に関わる色んな都市伝説(?)だ。「江戸しぐさ」なんてのはその筆頭にあげてもいいだろう。このような不可解な論がひととき展開されたのは、いわゆる「史料」が極端に不足しており、解明には「科学的・学問的・記録的」に議論の余地なく証明されるべきであるという考え方が根底にある。

「科学的・学問的・記録的」解明そのものについて、ボクが異論を唱える気はない。他人に何かを説明したり証明しようとすれば、必要なことだと思っているからだ。

ただ「不可欠」というところまでは踏み込まない。ボクは学者じゃないし、そんなことにかかずらう気は毛頭ないからだ。

それでも、江戸末期から明治中期にかけて活躍した、月岡芳年を研究した身としては、やはり色々なことを考えざるを得ない。





ボクは「浮世絵師」としての芳年が、「近代挿絵の祖」という立場になってしまった(!)変遷を辿ったに過ぎないが、それでも同時期の狩野芳崖よりも高く評価するのは、ひとえに「欧米人が評価しなかった」という一点である。

狩野芳崖がフェノロサによって高く評価され、国内でも「近代日本画の祖」とまで呼ばれるようになったことへの、反発心が強いからだろう。この「欧米に評価されれば偉い」的な発想が、現代日本でも根強く残っているのは言うまでもなかろう。

日本人はいつから自らの国の文化や人を評価するのをやめたのかは、正直よく分からない。ただ明治維新という大きな文化大革命で(文化テロと言ってもいい)今のボクでも、ある程度その機微をうかがい知れるようになったのは、皮肉としか言いようがない。

前にも書いたと思うのだが、芳年について少しおさらい。

歌川国芳門下で浮世絵師としてのキャリアをスタートさせた芳年は、師である国芳や、間接的には北斎のように、洋風の様式を伝統的な浮世絵版画の世界に積極的に取り入れていたのだが、この傾向が一気に加速するのが明治維新以降である。

もちろん、欧米の知識が手に入れやすくなったというのもあるだろうが、驚くべきは、彼は表現において徹頭徹尾「浮世絵版画様式」を貫いた点であろう。

初期の作品と晩年の作品を比較すれば、「どこが伝統的な浮世絵版画様式やねん」と思われる方も少なくないと思うが、これはあまりに表層的な評価に過ぎない。

初期の代表作『英名二十八衆句』(落合芳幾との競作)と、晩年の代表作『月百姿』を比較するのが一番分かりやすい。浮世絵版画の技術的方法論そのものはまったく変わっていない。せいぜい顔料が変わったくらいかな?

芳年が画期的だったのは「写実的写生を通じて線を整理していく」という方法論を、浮世絵版画に反映させ定着させた点にある。

これはボク自身が「線」に執着しているからかもしれないが、『北斎漫画』のような絵手本を見ながら修練していく伝統的な方法論からすれば、極めて異彩を放っている。もちろん「絵手本を見て描く」という、ある種の「型」があったからこそ、線を整理するにあたって独特の解釈ができたのかもしれない。

絵に限らず「型」とか「手本」というのは、学習上それなりの効果はある。実際ボクだって絵を描きだした頃(いつかは知らん)は、親父の描いた下手くそな○○の絵をせっせと複写したもんである。

これは日本に限らず世界共通と言ってもいいだろう。ヨーロッパの絵画にだって、複写という学習の歴史は古くからあるし、有名な画家が先達の絵を複写した例は腐るほどある。

別に忠実に再現する必要はないのだ。手本となる絵のエッセンスをどこまで習得できるか(その結果、本物そっくりになってしまうこともあるだろう)が重要であり、この過程で得た技術を身体に叩き込むのが目的なのだ。

上記したような「科学的・学問的・記録的」説明など、エカキには不要であり(言い切ってしまっていいのか?)絵を描くという「体技」として昇華できればそれでいいのだ。

芳年の恐ろしいところは、「理」(西欧的写実表現)と「術」(体技)という相反するふたつのベクトルを、融合した点にこそある。実際、この無茶なアプローチで芳年は発狂しているのだ。

あたり前である。当時は相容れない二つの矛盾した「考え」と「技」を、半ば強引に結びつけようとしたのだから。そして、そのアプローチの結果は、当時の庶民の嗜好と何となくシンクロしているのである。

もっと分かりやすい言い方をすれば、あくまでも庶民の需要を満たしていた点である。急激な変化は浮世絵師にも不可能だし、受け止める庶民にも不可能なのだ。この時間の長さそのものが、当時の一般的な速度だったのだろう。今から考えれば、それでも十分過ぎるくらいゆっくりしているのだが。

現代の我々には想像もつかないだろう。なぜなら、我々の生活には既に欧米の文化が深く浸透しており、例えば「写生」という考え方そのものに、なんの疑問も持たないからだ。

「写実」など、現代ではむしろ手垢のついた常識以前の考えになっているといってもいいだろう。絵を描けない人でも写真を撮れば、それなりに「写実的な表現」はできる。あくまでも「それなり」である。

「写真=写実」というのは、表現の世界ではあまりに浅薄すぎる考え方であり、重要なのは「どう見るか」という作り手の目線そのものである。この目線が狂っていれば、どれだけ写真を撮ってもつまらないモノにしかならないし、目線が独特で優れていれば、絵を描くのが苦手でもちゃんと表現としては成立する。

おそらく割とスタンダードな「写真論」だと思うのだが、フィルムからデジタルにその場を譲った写真の世界では、より一層求められる基礎的な要素だとボクは思っている。

話が逸れた……。芳年の発狂を伴う困難きわまりない過程が、現代では簡単にできてしまう、という環境の違いを念頭に置かないと、それこそ芳年の偉業は正しく評価できない。

逆に、現代人の考えで明治や近世の世界を想像したり模倣したりしようとすれば、それこそ発狂しかねない事態を生むかもしれない。それぐらいのギャップがあることをきちんと覚悟しないと、歴史の解釈など不可能だと言い切ってもいい。

「史料優先主義」的な考え方そのものに問題があるわけではない。問題は肝心の史料がない時である。「史料優先主義」では、史料がなければ何もできないという袋小路にすぐぶち当たる。

現代の歴史的な考察において、直接的な史料がなくても、間接的な史料による状況証拠的な考察がやっとある程度認められ始めているが、状況証拠は状況証拠であって、これだけに頼るのはもちろん問題である。

間接的とはいえ、その分野に限って言えば直接的な史料があれば、それなりの説得力は持つだろう。先史時代以前の研究などは最たるものだろう。記録がないんだもん。掘って出てくるものから推測するしかないではないか。

話を近代に戻す……。庶民が本当にあっさり西欧の思想にどっぷり浸かってしまった、というのは正直想像しづらい。日常生活が明治になってがらっと変わった、というのもあり得ないだろう。

庶民の日常にとっての近代は、「断髪令」(正確には「散髪脱刀令」明治4年8月9日(1871年9月23日)から始まったと言ってもいいのだが、これを頑なに拒んだ人達も多くいたことを考慮に入れるべきである。

まずこの近代化は、庶民の自主的な発想というよりも、当時の政府による法令である点だろう。

都市部や西欧と馴染みのある地域の人々や、西欧文化と接点があった人々は、それほど抵抗がなかったかもしれないが、このような法令を出してでも日本の近代化を形から進ませようとする政府の目論見は露骨に見えるし、それこそ伝統的な日常生活や風習を、「野蛮」の一言で切り捨てかねない、堅固な意思すら見え隠れする。

「どうしてここまでする必要があったのか?」ということは、自分で考えましょう。中学の歴史の授業でちゃんと基礎は教わっているはずです。

「日常生活があっさり覆る」というのは、自然災害のみではなくこのような人為的なことでも起こるし、当然パニックになるのが普通だと思う。

しつこいようだが、非凡な人よりも平凡な人の方が圧倒的に多いのだ。平凡な日常生活にいきなり横槍を入れられれば、反発したり戸惑ったりするのが普通だろう。なにしろそれまで普通だったことを、いきなり否定されるのだ。

しかも「断髪令」の場合は、ほとんど見かけだけの話であり(「廃刀令」は簡単にはいかなかったようだが)それこそ「意味分からん」と思われても不思議ではない。

いま「洋装禁止令」(なんて陳腐な命名!)など出されたら、普通は困るはずだ。それこそ「あり得ない」の一言で片付けられるのがオチである。実際、無意味だし。

こういう角度から見ると、明治の近代化政策がどれほど庶民にとって摩訶不思議で、意味不明なことだったかを想像するのはそれほど難しくないだろう。それでも明治の歴代政府はやり遂げたし、結局は庶民の生活だってこうして現代に至っているのだ。

くどいようだが、法令が出たからと言って一朝一夕でころっと変わるほど、日常生活というのは簡単なものではない。それでも庶民のレベルまで行き渡らせたという事実は、覆しようがないではないか。法令はあくまでもキッカケに過ぎない。

だが、日本の近世と近代に大きな断絶を感じるのは、正にこの人為的なキッカケ(あくまでも一例です)があったからであり、この断絶を現代人が軽く飛び越えて、近世の価値観なり日常を受け入れるのはほぼ不可能であろう。

先にも書いたが、もう日常生活そのものが違いすぎるのである。もちろん考え方やモノの見方、感じ方だって違うだろう。新宿を和服で歩けば、大抵の通行人は振り返ったりまじまじと見たりする。これはボクの実体験である。

まぁボクがぼーず頭だというおまけも付くのだろうが、和服を着て普通に感じられるのは、せいぜい冠婚葬祭や卒業式、成人式、祭りのような特別な行事があったときぐらいで、日常生活で和服を着ている人などほとんどいないだろう。頑張ってもよそ行きがせいぜいである。

もっとも、この稿を書いている今ボクが着ているのは作務衣と綿入れだが、これだっていわゆる「和服」に比べればまだハードルは低いし、それなりに着ている人がいるからまだマシな方だ。

これと同じように、和服から洋服への切り替えが庶民レベルまで行き渡るのは、やはり太平洋戦争後であろう。並列して履き物も変わる。洋服に下駄・草履はさすがにないと思う。和服に靴は割とあったようだが。

「徴兵されて初めて靴を履いた」という証言は少なくない。もちろん、いわゆる貧困層に多い例だ。ちなみに、江戸幕府の洋式歩兵隊が草鞋履きであったのは、単純にコストの問題だろう。靴職人がいないという分かりやすい理由だと思う。

この国に限っていえば、「伝統」とやらは非日常であり、日常として「伝統」と密着している人は圧倒的に少ないはずだし、その「伝統」だってどこまで遡っていいのか正直さっぱり分からない。

「明治以来の伝統」という言い方だってできるし、「弘法大師様以来」という言い方だってできる分野は明らかに存在する。だが、それが社会一般に日常的かと問われれば、やはり「いやいやいや」というのが普通であろう。

「科学的・学問的・記録的」証明を伴う、明治以前の庶民生活を再現するのはほぼ不可能であり、それなりの想像力はやはり必要になる。

だからと言って、「江戸しぐさ」のような都市伝説を蔓延させたり「ニッポンすごい」を連呼したりするのは、正直勘弁して欲しい。後者に至っては再三書いているように、現場に後継者がいないのが実情であり、こうした現実を抜いて語ること自体が、もう既に思考停止に陥っているとしか思えない。

それでも「明治以前の庶民生活の中に、何か自分の生活にとって有意義なことがあるのではないか?」と思ってしまう。ボクの場合は、膝関節痛である。

歩けない、という恐ろしい目に遭ったから思いついただけなのかもしれないが、とにかく歩行困難というのは、めちゃめちゃ不便この上ない。自由に動けない、というのが、ボクにとって絶望しか生まないのは、以前にも書いたのでさっさと飛ばす。

膝関節(軟骨が正確)は実際もうすり減っているし、痛みもある。どうすれば膝に負担が掛からないように歩けるのか、ということがボクの日常生活の中ではかなり重要だし、だから歩き方を変えたり履くものを変えたりして、可能な限り動物(!)の自然な運動律に沿った方向へ訓練しているのだが、なにしろ史料がない。

せいぜい、浮世絵なり古い絵画を見るのが限界である。武術の世界ですら相当怪しい。

また最近「居合」を始めたのだが(日が昇る前の時間にしか練習できないから、日照時間が短い期間しか無理なのだ)、最近「古武術」とやらに少々気を取られている。

もっとも現代の古武術なので、どこまで信用していいのやらさっぱり分からん。ここで出てくるのがいわゆる「ナンバ」と言われるものだ。一般には「ナンバ歩き」と呼ばれ、同じ側の手と足を同時に出して歩くと思われている。

ただ「この歩き方の認識そのものが間違っている」と言いながら、「ナンバ」を肯定する人々が多いのが、古武術の世界の人達である。何しろ「古武術介護」なる方法論まであるのだ。

例によって例の如くテレビは見ないわ、流行には疎いわで、つい最近まで全然知らなかったのだが、見たり聞いたりしているとそれなりの効果はあるようだ。だからと言って。即「ナンバ」を肯定するほどボクは素直ではない。

ボクが知る限り、古武術介護の方法論で施術者本人の膝の使い方そのものに言及したり、専門的に解説したものはほとんどない。皆無ではないのだ。イントロ程度は出てくるが、関節痛とはそれほど関係ない。

どちらかというと、体幹を軸に全身を使う運動律に特化している印象が強い。要は上半身への力の伝え方が主なのだが、肝心要の下半身(しつこいようだが特に膝)となると、健常な膝をベースにしか話は進まないのだ。ここで古武術介護にはさっさと見切りをつけた。

こうなると元となる古武術だが、これまた膝に関しては恐ろしく曖昧である。もちろん膝の使い方そのものは、要所要所で出てくるのだが、どれもこれも使い物にならん。

唯一それらしきものを見つけたのが、「趺踞」(ふきょ)というヤツだ。ググっていただければすぐに動画なり画像なりが出てくる。と、書いてマジメに検索したが、分かりやすい例がなかった。YouTubeで見た気がするんだけどなぁ。

片膝立ちの状態(右足を立てる)から、左足の踵を肛門のあたりにおいて、右足裏を左足の脹ら脛の下につけて、右膝も宙に浮かす。仕方ないので自分でやって写真を撮ったので、参考にしていただきたい(なるかっ!)

https://bn.dgcr.com/archives/2019/03/29/images/001
これが「趺踞」(ふきょ)だっ!

「趺踞」そのものは相当膝に悪そうな姿勢なのだが、実際にやってみると太腿全体の筋肉と下腹筋がめちゃめちゃ必要な上に、平衡感覚もかなりいる。とにかく不安定極まりない姿勢である。

この不安定さを利用するのが趺踞の方法論なのだが、ボクが注目したのは太腿の筋力と下腹筋、平衡感覚である。もちろん体幹も含む。じゃないと、平衡を保てないではないか。更に股関節がかなり柔らかくないと無理。

もちろん「ナンバ」も関わってくるのだが、「重力に逆らわない」ような体捌きである。ボクが教えてもらった居合でも、坐位からの抜刀があるのだが、正座した状態から立位に変化する時は、前屈みにならず太腿の内側の筋肉を主に使う。

こうすることで、上体がぶれずに立ち上がれる(上半身は自由に動ける)のだが、どうも筋肉の使い方としてはよく似ている。が、「重力に逆らわない」というのはどこにもない。太腿の内側の筋肉を使い、膝を支点に持ち上げてるだけだのだ。

そもそも「重力に逆らわない」坐位から立位への移動は、どう考えても不自然極まりない。地球上のありとあらゆるものは、水中や海中を別にすれば重力に支配されているのだ。

更にこの「趺踞」とやらも、元を辿れば口伝に近い最も古い方法らしく、かくとした史料が残っているわけではない。あくまでも色々な状況証拠から再現してみた、というのが実態のようだ。

こうなると、結局、歩き方の原点に戻るしかないではないか。要するに素足での徒歩である。

このへんは以前に詳しく書いたので軽く流すが、踵から着地をしない(踵もほとんど接地しない)で歩く、という結論にしかならない。

さらに素足での歩行となると、近世どころか軽く類人猿やお猿さんまで一気に遡れる。ここまで来るとさすがに相当しなやかになるし、膝への負担も少なくなる。

もちろん、体幹の強靱さと本来あるべき筋力(多すぎても少なすぎてもダメ)が必要なのは言うまでもあるまい。特に野生動物の動き方は参考になる。もっとも、寿命が大きく関わってくる。

足(膝)を痛めれば、特に野生動物の場合は死を意味するし、痛むまで生きているかどうかの保証もまったくない。無駄に(!)寿命が延びた現代人ならではの疾患と言ってもいいかもしれない。

となると、古武術で膝の使い方が出てこないのも何となく理解できる。要は摩耗する前に寿命が尽きてしまうのだろう。もちろん、松尾芭蕉のように長寿を全うしながら人生の短くない期間を旅に費やした人もいるが(これはそこそこ記録があるのでセーフな案件)、やはり稀な例だと思う。

もちろん、こうした結論は何かの史料に基づいた「科学的・学問的・記録的」証明から、程遠いものであることは言うまでもあるまい。運動生理学の分野では何かあるのかもしれないが、さすがにそこまで手を出す気にはなれない。

そもそも今回のお題は「庶民」であって、記録に一番残りづらい階層でもあるし、運動生理学とはちょっと視点がずれる。

以前にも書いたが、「術」から「道」へと変わったのは、これまた明治時代である。殺傷技術から教育的効用を目指したところから、「道」が使われるようになったようだ。

その嚆矢が、嘉納治五郎と講道館柔道であろう。柔術がベースになっているのは言うまでもないが、彼がわざわざ「道」を使ったのはなぜだろう?

一つには、明治維新以降に行われるようになった武術興業であろう。要は見世物である。上述した廃刀令も影響はあるだろう。

柔術・剣術を含む様々な武術が時代遅れの価値観となり、それぞれの流派や武術そのものが衰退していたことも大きな理由ではないだろうか。講道館柔道という命名に関しては諸説あるようだが、この名称がある種の新趣向として社会に広まった可能性は高い。

実際、明治末期から大正期に、武術から武道への名称変更が実際に行われたようだ。こうした動きは戦後さらに加速する。

もっとも分かりやすい例が合気道であろう。創始者である植芝盛平は、大東流合気柔術から、その技の多くを引き継いでいる。「合気道」という呼称は昭和23年(1948年)2月9日、財団法人合気会の文部省による認可の時点という説が有力なようだ。さらには、GHQによる武道禁止政策も影響していたようだ。

「術」と「道」との大きな違いは、精神的鍛錬や教育的効用が加わったものを「道」とする点であろう。

さらに特徴的なのは、多くの武術がいわゆる「立ち合い」を禁じていたのに対し、武道では「試合」という形式で「立ち会い」を許可しているところにも見て取れる。西欧のスポーツを参考にしたのだろうが、戦闘技術としての武技をソフィストケートした一例ではないだろうか。

明治維新にしろ日中戦争から太平洋戦争にしろ、多くの人の血が流れた人為的な大惨事の後に、このような動きが顕著にあらわれるのも、中途半端な西欧化と、その本来の思想・哲学を昇華し切れていないこの国の形であり、庶民であるように思えて仕方がない。

もっと言えば、現代は未だに近代の思想から脱却できていないし、近世庶民の思想や行動は完全に分断されたような形になっている。

この結論に関して言えばまったく「科学的・学問的・記録的」証明がなされていないことを、素直に白状しておく。あくまでボクの憶測(いや妄想だな)に過ぎない。

ただ、日本という国において(アジア諸国も続くのだが)これ程まで短期間の内に、価値観から日常生活に至るまで、がらっと変化した時代も珍しいのだが(もっとも近代は西欧における産業革命とその影響による劇的な変化を契機として色々なムーブメントを生み出している)、ここまであっさりしなやかに受け止められたのには、やはり先史以前から続く大陸からの文化・技術の流入があったことと無関係ではないだろう。

近代以前と以降とにある大きな違いは、異文化なり技術なりがこの国に最適化する時間が明治以前(正確には黒船来航以前)にたっぷりあったのに、明治以降は急激すぎる変化を、上記したように昇華し切れていない点だろう。時間が短すぎるのだ。というか、この国や人々には時間が足りなすぎるのだと思う。

この加速と庶民の日常生活・風習の間に歪みが生じているのは、近年に至っては世界規模と言ってもいいだろう。

デジタルの世界では特に顕著である。本来の理や有用性・有害性ありとあらゆることを丸呑みに出来ているだろうか?

ボクを含め多くの人が、ただ「便利だから」とか「楽だから」という、うわべだけの機能をありがたがっているだけではないか? だから「AI脅威論」のような間抜け極まりない議論が、まことしやかに囁き始められる。

これはもうほとんど黒船来航と共に浮かび上がった、大英帝国の脅威論に等しい価値しかないし、そもそも何に勝とうとしているのだろう? というか、勝つことそのものに意味があるのか? もっと言えば勝負事ですべてを片付けていいのだろうか? どう考えても歪にしか見えないのはボクだけだろうか?

庶民が宇宙を支配することを夢見ているのか、それとも神(しつこいようですが、ボクは無神論者です)の領域へ、庶民は現実に行きたがっているのだろうか?

普通、そこまで考えないでしょう。日々の生活をまっとうできたりできなかったり、というのが関の山で、とてもではないが宇宙だの神だのに意識を集中することはほぼ皆無だろう(便宜上、神を使うことはあっても)。

更に言えば、現代は近代ほど断絶しているわけではない。見ようによっては近代の延長線をキレイに辿っている。そうして考えると、近代と近世の断絶は余計に際だって見えてくる。むしろ庶民の生活の方が緩やかだろう。

先端思想・技術の恩恵を受けるのは、やはり一握りの人達に限られるからだが、記録は例によって例の如く、この「一握りの人達」の例しか取り上げない。これをもって近代を定義するのは、あまりに危険すぎる。特に日本の場合は。

近代は産業革命からスタートするが、本場ヨーロッパの場合、労働問題、賃金問題(富の配布に関する問題はマルクス・エンゲルスが詳しい)、さらには普通選挙・婦人参政権まで、時系列的に次々と勃発するのだが、日本はこれらの結果を適当な時期に(政府にとって都合のいい時期)輸入しただけであり、政府が認可しなかった共産主義運動に至っては(もっともかなり歪曲した形で国内に入っているようだが)反政府運動として弾圧している。

なにしろ、一時は廃仏毀釈令まで出した国家である。思想弾圧など屁とも思わなかっただろう。もっとも、廃仏毀釈令は早い段階で撤回している。無理がありすぎたのだ。

自由民権運動ですら弾圧しているのだ。もっともこっちは運動家の行動の悪さもあるのだが。一言で言えば、テロリズムによる自由民権運動なのだが、どう考えても矛盾している。これは戦前の共産主義運動にも見られるし、もっと遡れば江戸幕府の開国政策に反対した、一部の人々が起こした刃傷沙汰までいける。その結果が明治維新なのだが。

ちなみに、「二匹目の泥鰌」としか思えない武装蜂起は、終戦直前まで散々起きている。もう数え出すとキリがないし、義務教育の段階で基礎は習っているはずなので省く。

米騒動を例に出してもいいのだが、こちらは武装蜂起というにはあまりに素朴すぎるし、武装と言える程大層なものを持っていなかったからだ(一部は除く)。ただ当時の庶民が率先して起こした騒動としては、ある意味珍しい例の一つだろう。米騒動を近世以前の百姓一揆と同視するのは、明らかな誤解であることも一応付け加えておく。

近代どころか現代ですら、いわゆる「一般庶民」の記録が、どのレベルまであるのかボクは知らない。そもそも何を持って「記録」とするのか。もっとも、この辺はデジタル技術の恩恵をかなり受けていることだけは事実だろう。世界中のサーバに記録された、個人のつぶやきからなんから含めれば圧倒的な量になると思う。真偽は別だ。

ちょっと時代は飛ぶが、中世の庶民生活について実績を上げた網野善彦先生は、膨大な資料からその一端を見せてくれたのだが、これだって発表当時は「史実と異なる」「資料にない」と袋だたきに遭っている。

網野先生の場合は、資料をクロスオーバーに捉えて、その接点から紐解いたのだが、この方法論そのものが否定された時期がつい最近まであったし、今だって完全に認められた方法論ではない。

近代の庶民について妄想を始めれば、ここに書いたことなど正直、氷山の一角に過ぎないのだが、この作文自体がもう既に破綻しかけているので、このへんで止める。

言いたいのは、美辞麗句に飾られたテロリズムに庶民はいつも巻き込まれるし、辛酸をなめざるを得ないという事実である。近代は正にこうした暴力が横行していた時代だったし、それは今でも変わらない。この国でもだ。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com