はぐれDEATH[78]「役に立たない学問」と決めつける愚行
── 藤原ヨウコウ ──

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●無能・無責任・強欲のバブル世代

先日「『役に立たない学問』を学んでしまった人文系“ワープア博士”を救うには……?」という記事に出くわした。詳細は下記。

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190415-00011484-bunshun-soci


私感ですが、「役に立たない学問」という括りが気にくわない。読めば分かるが、「修学後、就職困難な学問」ということなのだ。

しかし、本気で就職前提で学問を選ぶのなら、文系ほぼ全滅やん。修士・博士に行けば行くほど、どんどん道は狭くなる。これは理系も同様である。特に基礎理論に特化すると、現状で就職はほぼ不可能なのではないか?

むしろ就職を前提とするなら、いわゆる「手に職」系になるだろうし、そうなると可能な限り早く現場に出て、独学で専門知識を得るのが一番合理的なように思う。資格が必要なら専門学校という選択肢もアリだろう。だが、ここにボクがなんの面白みも感じないことを、素直に白状しておく。

平均寿命がどんどん長くなっている中での修学期間は、高卒まででたったの12年。どれだけ生きられるかはともかく、今の日本人の平均寿命(知らんけど)からすれば、ほんの少しに過ぎない。残りの人生は全部仕事かというと、今のご時世それほど甘くない。

大学を出てすんなり就職できたとしても、充実した(価値観の個人差はあるだろうが)社会人人生をまっとうできるのは、本当にわずかだろう。それどころか、いつクビになっても不思議ではないような、酷い社会情勢ですらある。

労働環境は政府がどんどん劣悪になるよう推奨しているようなもんだし、実際雇用側はやりたい放題である。挙げ句の果てには、「人手が足りない」と悲鳴を上げるわ、「外国人労働者をどんどん雇用しましょう」という、無責任なことまで言い出す始末。

この二つに共通しているのは、「低賃金・長労働」という雇用側の一方的な意見しか反映されていない点である。

日本人だろうが外国人だろうが、労働に対する報酬をきちんと支払うべきなのに、それを頭から否定する。もちろん、上前は幹部クラスで山分けというアホな意図に過ぎないのだろうが、こうした見え見えな馬鹿さ加減が「ばれていない」と思っている節が多々あるので怖い。

ちなみに、現在の企業で幹部クラスとなると大体ボクぐらいの年代になる。いわゆる「バブル世代」だ。





バブルのアホさについては以前にも少し書いたが、価値観が明らかに狂っているのだ。ボクだけに関して言えば、同期は技術屋を除けばほぼ全員アホである。「こんなやつらと仕事するんかい」と、ガックリしたのを今でも鮮明に覚えている。

この手の連中の考えることは一目瞭然なので、さくっと片付けるが「無能・無責任・強欲」だと思えば、まぁ大間違いではない。我ながら酷い評価だとは思うが、30年近く経っても連中の価値観がさして変化していない状態を見ると、こうならざるを得ない。

バブル期に崩壊した労働環境は、なんの手当てもないまま、ひたすら悪化・劣化しているのが現状だと思う。早い段階で手を打てば、ここまで悪くならなかったと思うが、もうほぼ死に体だ。

ここに外国人労働者となると、話はさらにややこしくなるので、今回はパス。ただ、政府が思うようなお花畑の未来は120%あり得ない。

●基礎理論がないと全滅

話を学問に戻す。ボクは修士修了だが(インチキ臭いけど)、幸いバブル期だったうえに工学系の大学だったので、就職時の苦労はなかったに等しい。だから、素直に上記した内容と比較はできない。

インチキ臭いなりにでっち上げた、論文というにはあまりに情けない作文を書く上で、学問の楽しさを初めて知ったのだが(遅いっ!)、これだって当時の先生が仕向けてくれたおかげだ。幸せな例なのだろうと思う。

理系の基礎理論研究がとかく疎かにされがちだが、「基礎抜きでまともな応用技術ができるわけがない」という、わざわざ声高に言う必要のないことすら理解できていない人が多すぎる。それを知ってて、目を背けている人も相当数に及ぶだろう。技術大国が聞いて呆れるわ。

手先の応用が短命なのは、もう十分過ぎるほど事例が集まっているはずである。にもかかわらず、基礎理論から目を背けるという愚行をやめようとしない。アホの極みである。

ちなみにボクの論文はロスト・テクノロジー史なので、今の印刷現場ではもっと役に立たない(笑)。そもそも現場でのボクの経験だって、完全にロスト・テクノロジー化してるし。

今の就職における一般的な価値観(あくまでもボク個人の想像ですが)からすれば、ボクの論文なり経験は明らかに「役に立たない」部類の極地に位置するだろう。そもそも印刷という産業が怪しくなっているのだ。まぁ、何だかんだで生き残るのだろうが、印刷の基礎理論がないところはほぼ全滅だろう。

「基礎理論がないと全滅」というのは乱暴すぎないか、と思われるかもしれないが、「基礎理論」の扱い方で、それぞれの業種・企業の理念のレベルは見えてしまうモノなのだ。もっと分かりやすく言えば、四則演算の扱いだけでもレベルは露骨に出てくる。

理論というには程遠い、四則演算すらロクにできない人材が、大学にゾロゾロ存在するのは周知の事実だし、そのせいで分数の割り算を大学で講義(?)するなどというアホなことが起きているのだ。

こんな状態で、理系・文系にかかわらず、4年間の在学中に既出の基礎理論の習得など不可能なのは目に見えているし、新たな基礎理論となるともうこれは本当に、一部の学生どころか教員の手に委ねざるを得ない。

教育・研究機関としての本来の大学のキャパとは、まったく異なる低レベルの修学まで大学が引き受けるのは筋違いにも程がある。

ところが、大学も営利機関として考えれば、出来の悪い学生をじゃんじゃん集めて高い授業料を納めさせ、卒業の資格さえ与えておけば、後は卒業者数の量だけがじゃんじゃん増えていき、その中のたった一人でも有名人が出て、大学の名前を出してもらったら、それだけで広報もできてしまうのだ。

こんな美味しい経営も珍しい気がするが、これがまかり通っているのだから怖い。もちろん、それなりの教育はするのだろうが、それこそ「理念」が建前になっているのだ。まともに専門分野の基礎理論なりなんなりを、きちんとマスターさせてから卒業を認めているとは、正直、ボクには思えない。

「役に立つ」とは、別の見方をすれば「成果が出る」である。じゃ、ここでいう成果って何??? もちろんボクにはさっぱり分からない。

あくまでも推測だが「将来、確実にお金になる」という、身も蓋もないものだけを指しているのか?

短期ならある程度の見通しはつくかもしれないが、長期となると話はまったく異なる。このへんは、株価をざっと眺めればある程度把握出来るはずである。可能であれば、企業レベルではなく業種レベルで過去100年ほど遡れば一目瞭然だろう。

もっとも、近年の統計は色々と怪しそうだが、同時代の歴史と照らし合わせればより分かりやすくなる。別に難しいことを言ってるワケじゃない。株価までチェックするのが面倒なら、景気に関する歴史を眺めるだけでも、ある程度の知見があれば簡単に分かるだろう。

明治以降の日本経済は、分かりやすいにも程がある。ある時期、ものすごい勢いで「経済的」に役に立っていた産業が、今や見る影もないなどという例はいくらでもある。

当時最先端だった基礎理論は、現在では役に立たないどころか、根底から覆されているケースだって腐るほどある。

それでも順序というのは必ずあって、「今役に立たないから」という理由で放棄していいことにはならない。

ちょっとマニアックかもしれないが、ニュートンの理論がアインシュタインによって部分的に覆されてはいるものの(アインシュタイン以前にも度々つつかれている)、だからといって、ニュートンの理論そのものを完全に排除できないのだ。

通常空間における「エネルギー保存の法則」を無視した技術などあり得ないし。アインシュタインの相対性理論だって、今はフルボッコ状態である。

というか、そもそも相対性理論が我々の日常にとって、直接役に立つかどうかすら表面上は相当怪しいのだが、実はこれがけっこう馬鹿にならなかったりするのが現実である。詳細は省くけれど。

日本に住んでいれば、地質学だって無視は出来ない。なにしろ、4つのプレートがせめぎ合う場所にあるのが日本なのだ。

地震と言えばかなり分かりやすくなるとは思うが、プレート移動のメカニズムは本来、地震レベルで片付けられるような話ではない。地震なんてのは、本当におまけみたいなもんだ。

このプレート移動のメカニズムだって、今のところ「定説」はあるが、確定しているわけではない。あくまでも、今得られるデータから導き出されたものにすぎない。地球が誕生した時から記録していれば話は別かもしれないが、これはもうあり得なさすぎる話なのでパス。

これはちょいちょい出しているネタだが、深海だって推測の域を超えていないケースの方が圧倒的に多いのだ。「我々は宇宙のことよりも、地球の深海のことの方が分かっていない」という、名言すらあるぐらいである。

話が少々でかくなりすぎたきらいがあるが、基礎理論というのはこんなもんだ。分かっていなかったら、応用などできるはずない。

●理工学ですらこの体たらく

地震の話が出たので、一例として耐震構造にネタを持っていってみよう。

日本が地震大国の一つであることくらいは、ご理解いただけると思う。阪神淡路大震災・東日本大震災のあとで、建築物の耐震技術は本当に劇的に進歩したのだろうか? 耐震基準は高くなりましたよ。でも、それはあくまでも行政が示した数字に他ならない。

揺れに対する基礎といえば、もちろん建築物の構造そのものがそうだが、これだって素材や質量・縦横の移動エネルギーやそれに伴う慣性力、素材同士の摩擦係数、構造力学、高層建築に至っては共振作用に関することまで計算に入れないとどうしようもない。

これで全部ではありません。ここに書いたのは今ボクが思いついたことだけです。多分、もっと計算に入れなければいけない要素は沢山あると思う。

基礎の基礎まで話を持っていけば、そもそもここまで地盤が怪しい場所に、人が建築物を作って住むこと自体おかしいのだ。いや、ボクも住んでいる一人だけどさ。

耐震基準の数値は、どこまでいっても数字に過ぎない。実際「想定外」の一言で基準値を上げただけの話で、現在想定されている基準値だって相当怪しいもんだ。

ここに過去2万年ほどの地形変化と、若干の人工的な干拓事業を加えると、軟弱な地盤が移動する地盤の上に乗ってるだけで、びっくりするぐらいそういう場所に人口が密集してたりするのも事実なのだ。

見ようによっては役に立つことこの上ない成果なのだが、実質レベルではほとんど役に立たない。別の「役に立つ」理由で開発され、整備された土地を、全否定できないという現実があるからだ。

このへんの話は、ここ数年、都市基盤の脆弱性という点で一部議論があるようだが、実施レベルとなるとほぼ機能していないのが実情だろう。

こうなってくると、「役に立つ学問」とやらも怪しくなってくる。あくまでも短期レベルでの話として解釈すべきだろう。ちなみに、上記した例は敢えて理工学に限った。「役に立つ」といわれる理工学ですら、この体たらくなのだ。

そもそも「役に立つ」だって、就職する時のほんの一瞬であり、変化する社会情勢や技術に関してインプットを続けていないと、すぐに「役に立たない」になってしまうのだ。

雇用側だって、「役に立つ学問」をじゃんじゃん変えるのが当たり前であり、恒久的に「役に立つ学問」など、そういう意味では存在しない。生涯「役に立つ学問」など、ほとんど「不老不死」に等しい愚か極まりない発想だ。

●学問にはゴールがない

「役に立たない学問」とかいう記事の話に戻る。

ボクの経験からすると、研究職に関する就職難は別に今始まった話ではない。学問が専門化・尖鋭化すれば、一般社会から乖離するのは当然の帰結である。遠回しな言い方が思いつかないので、ばっさりいくが「特殊」にしかならないのだ。

決して「専門」とは思ってくれない。なぜか「特殊」というカテゴリーに入れられてしまうのだ。そして、このカテゴリーの受け皿がない、というのがこの記事の主題なのだろう。

実際、大学に残るなり別の研究機関に移動する、という手はあるのだが、この恩恵にあずかれる人は本当に少ない。実力とか実績すら頼りにならない。

ボクに言わせれば、「運が強いかどうか」という、身も蓋もない結論にしかならない。まぁ「世渡り上手」という別の技術を駆使するという手もあるのかもしれないが、ボクには未知の領域なので割愛する。

運良く研究機関に残れても、その施設に「不要」と判断されればお終いである。要は矮小で度量の狭い頭の悪い「大人の都合」である。

そして、おねえちゃん(編集部注:はぐれの娘さん)は、まさにこの「役に立たない学問」に突き進んでいる。ボクがそう仕向けたのもあるけど、人生と就職を天秤にかけたら、ボク的には人生の方が圧倒的に上なのだ。就職だっていつクビになるか分からない怪しいご時世なのだ。それなら、好きなことをとことんして欲しい。

ボクは近世末期から近代、奧さん(編集部注:はぐれの配偶者)は安土桃山時代を、それぞれの分野でやっているので、よそのご家庭に比べればある意味、学問そのものに対する敷居が低いのだろう。

むしろ「学問以外の何がある」という勢いだ。「生涯学習」という言葉がまことしやかにメディアに現れる遥か前から、「学問は死ぬまで続けてなんぼ」という考えが、我が家にはある。まぁ、やっぱり変な家なのだろう。

それでも奧さんは、就職時に相当苦労している。その奧さんがどんな気持ちで今のおねえちゃんを見ているのか、正直分からないのだが、この記事で述べられていることはほぼ奧さんが実体験してるので、それなりにケツを叩いているはずである。もっとも「あの」おねえちゃんなので、どこまで効果があるかは怪しいが。

そんなおねえちゃんが志しているのが(あくまでも今のところ)、先史〜縄文期の日本らしい。役に立たないことこの上ないではないか。だが、ボクは「それでイイ」と思っている。第二外国語は迷わず中国語。なかなかに男前である。

需要云々に関しては、おねえちゃんがボクの背中をイヤというほど見ているし、口を酸っぱくして「覚悟せぇ」とも言ってる。

もちろん、ボクや奧さんとは専門分野が違うのだが、得体のしれない専門書を次から次に読んでは、じゃんじゃん本を増やすという、両親の行為を子供の時から見て育ち、それが「普通」と思っている節のある子である。

学問にはゴールがないことぐらいは、薄々気づいているはずだ。

もっと言えば、文系・理系などという括りで片付けられないのも先史時代の特徴だし、本来は分けて考えるべきではないのだ。文系・理系の違いなど、ほとんど利き手レベルと思った方がいいぐらいである。別に先史時代に限った話ではない、ということも付け加えておく。本来はそれで正解なのだ。

これまた前にも書いたが、一つの「ナゼ?」が解決すると、次の「ナゼ?」が漏れなくついてくるもんで、この「ナゼ?」をひたすら追い続けるのが学問の根源だと思う。

むしろ「ナゼ?」と思えないことの方が、ボクには恐ろしい。「ナゼ?」が続けば、いずれ理系も文系も関係なくなるのだ。少なくともボクはそうである。日本の印刷史一つとっても、理系の知識と文系の知識は必須になる。

更に定点観測というのが、基本、不可能な分野でもある。スタート地点はあるにしろ、研究(?)に着手した当時の見方と今とではまったく異なる。というか、「当時と変わらない」方がどう考えてもおかしいのだ。

●大学に行く理由は学問するため

話を戻す。「受け皿」がこの国にないのは厳然たる事実である。他の国のことは知らん。それなりにあるような情報も入ってくるが、真に受ける気は毛頭ない。実際に見たり経験したわけじゃないし。

少し厳しい意見かもしれないが、受け皿がないことを前提に学問をする覚悟があるかどうかが、最大の岐路なのではないだろうか?

記事中では低すぎる年収や奨学金の返還、生活費という面が強調されているが、これって「役に立たない学問」特有の問題なのだろうか?

そもそも、大学に行かずさっさと手に職を付けて就職した方が、生活費の面では圧倒的に有利だろう。特に特殊技術系は、就労開始年齢が早ければ早いほど身につきやすい。

若さを最大限に生かすとすれば、これが一番手っ取り早い。将来は知らん。頑張って習得した技術が、未来永劫通用すると思ったら大間違いである。それこそ、その人次第だろう。こっちはこっちで、相応の覚悟が必要なのは言うまでもあるまい。

ってか、大学に行く理由ってなに? 学問をするためですよ。就職はあくまでも後付けでしかないはずなのに、これが完全に逆転しているし、「一流企業就職率トップ大学」などというアホな記事が、メディアでもてはやされるようなこと自体が、既に「大学」という高等教育・研究機関をないがしろにしているも同然なのだ。

『大学は出たけれど』という、小津安二郎の映画があるが、1929年(昭和4年)公開ですよ。野村芳太郎版は1955年(昭和30年)公開。前者はボクの親父が生まれる前だし、後者はボクが生まれる前。この時点でネタになるほど、その時の景気次第で、「大学卒業者の就職有利」説は崩壊しているのだ。

ここまでは、あくまでも大学卒業から5〜10年の話である。それより先となると、さらに見えなくなるのは当然の話で、しつこく言っているように、覚悟は最低限必要になる。

生半可な覚悟なら、将来を夢見るのはさっさとやめた方がいい。もっといえば、確固たる覚悟をもってしても、上手くいくかどうかなんてのは誰にも分からないのだ。もう役に立つ立たないの話ではないのだ。

とにかく潤いがなさすぎやん、今の世の中。特に学門方面。切なすぎるよ。


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com