はぐれDEATH[81]その「得体の知れないもの」を絵にしろと言われて〈その2〉
── 藤原ヨウコウ ──

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これは相当引っ張れそうなネタになってきた。もっとも、ボクが存命ならの話です(笑)

「人は一生に一度、名作を書ける」みたいな話を聞いたことがあるのだが(ネットでググったが出典は不明)、まぁおそらく自叙伝とか私小説的なもんだろう。もちろん、ボクは頭からこの言説を否定する。そもそも作文ができないんだから。

「人は必ず名作になるネタを持っている」なら腑に落ちる。個々の経験なり価値観というのは千差万別であり、それこそフラットなものはあり得ない。だからと言って、ボクが今やっている案件を正当化するつもりはない。むしろ、徹底的に否定したいぐらいなのだ。

そもそも、名作なるものを目指すどころか、「これはやってもイイのか?」と疑心暗鬼になっているぐらいで、世の中に出していいのかどうかと問われたら、「やめた方がエエんとちゃうかなぁ? いや絶対に出さん方が吉」と断言したくなる状態である。

[4813] その「得体の知れないもの」を絵にしろと言われて
https://bn.dgcr.com/archives/20190621110000.html






●八

そのラフもどきは、担当さんの予想の斜め上を華麗に飛んでいったようだ。あたりまえである。ある程度整理したとはいえ、内容が支離滅裂なのである。それでもネタはそうとう削って、核心部分だけを可能な限り抽出したのだが、これが逆に難易度を上げているのだ。

何しろ説明すべき部分まで目一杯そぎ落としたのだから、これで「分かってくれ」と言う方が無茶である。そもそも、全体の最も重要なモチーフの造形を決めかねているのだ。何となくイメージはできているが、まだ決定には至っていない。やるべきコトは明白なのだが、どう絵に落とすかとなると、こんな乱雑な状態では無理である。

そんなこんなで、先日やっと打ち合わせができたのだが、恐ろしいコトに(ここは寛大といった方が適切かもしれない)「このまま進めましょう」となってしまった。いつものパターンである・・・_| ̄|○;

最初は「文字を追うのが限界で中身が頭に入ってこない」という感想だった。よりによって、ボクの文字を追うとは……まぁ、こっちも「分からんやろうなぁ…」とハナから思っていたので、打ち合わせ時に口頭で補足説明はした。

問題は、「口頭」でしか説明できない(しかも中途半端)という状態である。中途半端にしかならなかったのは、ボクの言語化能力が著しく低いことに起因する。このへんは散々書き散らしているので、さっさと話を先に進める。

●九

頭の中にビジュアル化されたイメージはある。ラフもどきを作る過程で、梅雨のカビよろしく、脳内に得体のしれないイメージが繁茂していて、これを整理するだけでも手一杯なのだ。

しかも、整理した端からまた繁茂するから始末に負えない。こんな状態では、どうやっても言語化などという、ボクにとっては高度過ぎるコトができるはずがない。

どうでもいいネタに関しては、一度それなりに締めくくったはずのラフもどきの状態よりも、今はさらにカオスな状態になっているのだ。我ながら「よくもまぁ次から次にアホなコトばっかり思いつくわ」とあきれ果てているのだが、例によって例の如く、アホネタのオンパレードは止まるところを知らない。

現実的な話として「印刷可能な枚数」というのは、採算上、当然ある。さすがにここは元印刷屋なので、言われる前にさっさと計算してしまい「まぁこれくらいなら」という実数を弾き出したのだが、ラフもどきの段階で既に予定枚数の倍になっている。

薄めて薄めてこのていたらくである。本格的なラフとなると、今まで抑えていたネタを一気大放出する気満々なので(そこが既におかしい)、今の倍どころかどこまで増えるのかは、ボクにも推測できないのだ。これで採算性云々になると、手に負えない。

もちろん、こうした事情は説明した。できればここで諦めて欲しかったのだが、「やりようでどうにでもなるから」と、こっちのキモが冷えるようなことを言いだしたのでびっくりした。

ボクとしては当たり前の話だが、今やっている創作もどきに、起承転結などという高尚且つ高度な形式を構築できているはずもない。本来なら、ラフもどきの手前の企画段階で、ある程度煮詰めておく作業を「ボクが無能である」という理由だけでぶっ飛ばしているのだ。

これだけでも十分危ないのに、自ら戒めと嫌悪感むき出しで厳重に封印していた扉を、むりやり開いているのだ。どれだけ頑張っても「枠もどき」のレベルが限界。それでもこの「枠もどき内」で、じゃんじゃんネタが出てくるのでヤバい。

ボクの中の、得体のしれないモノすべてを暴露する気など当然ない。絶対に知られたり、見られたくないコトの方が圧倒的に多いのだ。

それこそ慎重にフィルタリングをしているのだが(無意識にも相当排除している)、それでも現実レベルで見れば、圧倒的に質も量もヤバいネタが満載なのである。

「枠もどき」を設定していて、なおかつフィルタリングまでしているのに、まだどれだけ出てくるのか自分でも分からないというのは、正直、頭がどうかしているとしか思えない。

これだけは正直に白状しておくが、知識量とは直接関係ない。むしろ、間接的な妄想ネタの方が圧倒的に多い。

にもかかわらず、悪いクセは止まらない。例の「素朴な疑問」の発露である。このモードに突入すると、完全にコントロール不能になる。

さすがに本業で、こんなコトを延々するはずもなく、する必要もないのだ。作家さんがちゃんと書いてくれてるから。ボクの無知を補填するためだけの調べ物や確認なので、当然のコトながら限定的になる。知っているからといってスルーできるほど、ボクは自分の記憶力を信用してないしね。

ところが今回の一連の作業には、この大事な大事なベースとなる「きちんと書かれた物語」がまるっと抜けているのだ。当然のコトながら、アホな知の好奇心にブレーキがかかるはずもない。「素朴な疑問」にはそもそもブレーキなんか存在しないのだ。

●拾

「素朴な疑問」に関しては今までも散々書いているのだが、このきっかけを作って下さったのは高校時代の古文・漢文の恩師である。今でも教育者として立派な態度だと思っているし、実際ボクも娘にこの問いかけを散々している。ももち(注:飼い猫)にはしてないな。ヤツは勝手にやるし(笑)

教育の方法論としては、これほどシンプルで明解な問題意識の提起は他に類をみない。ヤバいのはこれを丸っと鵜呑みにした、ボクという歪な個人に帰する。

怠け者のクセにこういうことになると、ナゼか飽きないのだ。むしろどんどんのめり込んでいく。学者や研究者ならまだイイのだが、ボクはあくまでもエカキであり、それ以上でもそれ以下でもない。

無駄に広範な知識を得ようとするのは、エカキという立場上、邪魔にはならないのだが、別にしなくてもイイことではある。これが今やっている創作もどきとなると、話はまったく別になる。

そもそも「あるモノを出す」だけでイイはずなのに、ないものにまで好奇心の赴くまま手を出すと、本当にどうしようもなくなる。それでなくても整理できていないのに、アホな本能と好奇心が突き動かす「素朴な疑問」は、更なるカオスを生み出す。

新たな知識は新たな妄想を爆発的に増やすのが常であり、作業中にやってはいけない、ナンバーワンの危険さを持っているのだ。

呆れつつも是認せざるを得ないのは、ボクの脆い神経に余計なストレスを与えたくないからだ。それでなくても既にズダボロなのだ。アホな本能と好奇心にストップをかけるのは、ボクの神経にとっては異常なまでのストレスを伴う。

もう創作もどきの段階で、十分過ぎるぐらいストレス過多になっているのだ。こんな時に、このほとんど本能的な行動(条件反射といったほうが正確なのかもしれない)にブレーキを掛けるなどもってのほかで、ある程度の隙間を与えておかないと、ボクは確実にダメになる。思っていた以上に、こうした欲に関しては際限がないようなのだ。

上記した恩師ならもう大喜びで、「その調子!」と言ってくれそうだが(実際ボクが他の人を見て同じコトをしていたら、やはりベタ褒めするだろう)、何しろサイコで猟奇的な狂気をもっていると、本当に始末に負えない。

●拾壱

実際、心療内科の先生も匙を投げている(笑:っている場合ではない)

あまり二項対立構造を持ち出したくないのだが、得意は常に弱点をも伴うもので、現代神経内科学においてこれを否定することができないのだ。

つい最近盛り上がりを見せている「幼少期のADHD問題」でも明らかなように、「弱点はむしろ特技とすべきである」という論点は、正にここをついている。もっとも薬物投与を伴う治療に対する反論なので、ボクの場合と同等に述べるのは筋違いだろう。

https://selectaus.com/adhd-is-gift/?fbclid=IwAR3GlEhGJyYbhK-iGdMHBGbkwR3jVxU9D9EXmy4gYtYEn0GQs5kCmzcyf_Q


と、安心して他人事のように眺めていたのだが、なんと恐ろしいコトに矛先がこっちに向いた。お薬を減らすことになったのだ。

まず最初に、ボクの薬物に関する態度を明確にしておきたい。

そもそも、薬物など必要はないのだ。そんなものに頼らなくても、生物は生きることができる。薬物が必要なのは、種として明らかに不必要とされた時であり、自然界では「死」という形でその個の終焉を意味するにすぎない。

幼児期に薬物投与などもってのほかである。どれだけ強烈な副作用があると思ってんねん。ボクに言わせれば、医者の薬頼みほど恐ろしいコトはない。

副作用に関してはボク自身が実体験しているので、わざわざ専門の臨床例を持ち出す必要すらない。

詳細はあまりに面倒臭く、ヤヤこしいのでじゃんじゃん省くが、神経系の薬物はすさまじい副作用があるのだ。依存性も高い。もうちょっとした麻薬並みの破壊力をもっている。

こんなものを幼児期に投与すれば、まともに育つ子ですらおかしくなる。人生そのものを壊しかねない、危険な代物なのである。

ボクに言わせれば「子供のADHD」ほどアホらしい話はない。子供に「じっと静かにしてろ」と強要することそのものが、すでに間違っているのだ。医者以前の問題であり、これは親が背負うべき問題だと個人的には思っている。

……完全に火に油を注いだな。

以前にも書いたが、小学生から高校卒業に至るまで、通信簿に延々「落ち着きがない」と書かれ続けたボクは、ボクの両親の態度を見ているのでよけいにそう感じるのかもしれないが(じっさい今になってもまったく治ってないしね)、娘にだって、あまつさえももちにすら「じっとせい」は、ほとんど言ったことがない。

言ったことはありますよ。でもそれは、ある程度年齢を重ねた上で、相当敷居の低い「じっとせい」であり、あくまでも周囲への配慮をそれなりに促すための「じっとせい」に過ぎない。

この程度のコトは親が教えないと、それこそ傍若無人で無遠慮なイヤな人間になる。ボクが「親の責任」と言い切るのは、あくまでもこの程度の配慮を促すレベルであり、これ以上のものを求める気にはなれない。

両親だけで抱えるのは難しい事例だって、腐るほどあるのだ。例えばボクである。恐らく両親だけなら、今よりも厄介なことになっていただろうが、ボクは幼少期を両親の一族の元で過ごすという僥倖に恵まれたので、これで済んだのだ。済んだといってもこれである。

前にも少し書いたが、一族はいまだに同じ所に住み続けているし、もうどこまで血縁なのかすら怪しいぐらい、変な集中の仕方をしているのだ。こうした一族縁者が、総掛かりで幼少期のボクの面倒をみてくれたのだ。

こんなん、当時でも相当珍しい部類だろうし、現代となるともう異世界の話と言い切っていいぐらいだ。

「地域住民の協力」を促す運動が広がっているようだが、これはこれで様々な問題を内包している。一族縁者内だけでも、それなりの困難を伴うのが普通である。むしろウチの一族がおかしいだけなのかもしれない(この可能性をボクは否定しない)。なにしろ、ポジティブ思考しかないのだ。こんな集団、相当珍しいであろう……。

話が逸れたが、幼児期というのはそんなもんである(ずいぶんバッサリいったな)。無茶してなんぼなのだ。無理矢理押さえつけたりはもってのほかで、神経系の薬物投与など論外である。

炎上覚悟で書くが、出産後の生息率だって自然界からすれば今の日本は異常なのだ。本来なら、先天的な病気があれば即「死」と直面する。

これまた無責任に言っているわけではない。実際ボクが「このままだと3か月保たない」と、生まれた時に診断されて、両親が治療拒否をしているからだ。

これまた一族が総掛かりで、両親をバックアップした上での話だ。「死んだらそれがこの子の寿命。下手にX線治療など、生まれたての子にしても長じて苦しむのはこの子である」という総意をもって治療拒否に至ったのだ。両親だけで抱えきれる話ではない。めちゃくちゃ手のかかる子やんか、ボクは……。

ボクが娘を得て何にホッとしたかと言って、「バカみたいな健康優良児」という、ボクとは真反対の生まれ方をしてくれたからだ。もちろん、リスクは覚悟していたが、いよいよになった時の対策は奧さんにも内緒で立てていた。

ももちですらロクに薬など打たせていない。生まれた年だけ、一応それなりの混合ワクチンは打ってもらったがこれっきりである。それでもお外で大暴れして、がつがつ食べて、機嫌よくく〜すか眠って元気百倍である。

去年は一時期、本当に体調が悪くなったのだが、お医者さんも原因が特定できなかったらしい。ボクは上記したように「寿命なら仕方ないから覚悟だけしろ」と言って、奧さんを猛烈に怒らせた。

ちなみに、当のももちは自力で見事に復活。今も相変わらずいたずら三昧の日々を送っている。どうもまだ地域の女王の座を譲る気はないようだ。「エエ加減、引退せぇよ」とも思うのだが、ももちがそう考えているならボクは尊重しますよ。

親というものは、ここまで覚悟しないといけないのだ。もっとも、育児に関しては何もやっていないに等しいのだが。そもそも、生きるか死ぬかの瀬戸際に育児がどうこうなどという悠長なことなど言っていられないのだ。

●拾弐

脱線にも程があるな。

とにかく、神経系の薬物の危険性はボク自身がよく知っている。にもかかわらず、役所がいきなり「処方量の上限」をカットしてきたのだ。もちろん、薬物乱用や依存対策なのだろうが、ここまであっさり手のひらをひっくり返されると、それでなくてもビビりのボクなどはもうストレス過多になる。

薬の量を減らすことにかけては、ほぼ3年周期ぐらいで徐々に減らしているのだが、これはボクのケースであり他の患者さんみんなに通用するわけではない。そっこーで副作用から解放されて、脱薬物を果たす患者さんもいれば、薬物だけではなく電気療法まで必要とされるケースだってあるのだ。

自動車の速度制限と同じ感覚でやられると、こっちはたまったもんではない。

それこそ厚労省の意向で製造禁止になったお薬も、ボクの投薬履歴の中にあったし、この時はどの薬で代替するかで一か月以上も地獄を見たのだ。

それでなくても、創作もどきで神経がズダボロなのだ。お医者さんもこうした状況を診てくれていたので、先延ばしにしてくれていたのだが、どうやら圧力が勝ったらしい。落胆と同時に先生には正直感謝しましたよ。

それでも、不安要素が増えたことには変わりない。ほとんど唯一の生命線だったのだ。

実際、お薬が減ったことによる副作用は既に出ている。今は創作もどき作業を一度ストップしているので、この程度で済んでいるが、それでも明らかに危険な状態になっている。

今まで薬で抑えられていた神経の感度が、一気に跳ね上がったのだ。しかも悪い方にだ。

それでなくても、集中力持続時間が生命体として、致命的なぐらい長いのだ。だから薬で抑えていた。自助努力などやるだけ無駄。天性なのでどうしようもない。

さらに、起床時の覚醒度が明らかに早くなっている。これまた危険な状態である。起きたらすぐにアクセル全開が可能なのだが、神経にかかる負担は半端ではない。間違っても羨ましいと思ってはいけません。こんなことさえ、お薬でどうにかこうにか制御していたのだ。

通常、人は目が覚めて一時間ぐらい掛けて、ゆっくりと覚醒していくのが自然なのだ。実際、そうなるようになっている。目が覚めてすぐにアクセル全開など論外のはずなのだが、ボクはこれが通常だったりする。だから神経がぶっ壊れたのだ。

朝さっさと起きてソッコー作業に入り、あまつさえ時間を忘れて作業など、自殺行為に等しいのだが、ボクは止めることができないのだ。集中し過ぎてしまうので、何もかもが忘却の彼方に去ってしまう。

何度も「今日はここまで」と思いながらも、気がついたら手が動いているなどザラであり、これがあるから本業は基本「午前中で全部片付ける」習慣を身につけたのだ。

が、本業ではないのだ。創作などしたことがないに等しいボクが、本業同様の習慣を持ち込めるかというと、そんなことはもちろん無理である。不器用さもここに極まれりなのだが、何しろ「午前中」習慣だってむりやり後付けしたようなもんで、本来は持ち合わせていない習慣なのである。

あ、読者の大半の皆様(どんだけの人が読んでるのか知らないけど)は、このようなアホなコトにはなっていないはずなので心配無用です。ボクが生物として異常すぎるのだ。不自然過ぎると言っても過言ではない。

今は幸いなことに、本業が若干立て込んでいるのでまだマシだが、それでもお薬が変わった翌日には、いつの間にか耳鳴りがしていた。いつから始まったのかは分からない。

作業が一段落してホッとして、しばらく経ってから初めて気がついたのだ。今だって、わざわざ気がつく方向に自分を向けないと、ケロッと忘れてるしね。実際、ここまで書いて思いだしたら、耳鳴りがしてるし。

耳鳴りでこの体たらくである。食事はもちろん忘れる。買い物も忘れる。いつ寝たかも忘れる。いつ起きたのかも忘れる。何もかもが後から気がつくのだが、気がついた時は致命的に遅かったりするので、怠け者のボクはそっこーで「なかったコト」にしてそのままほったらかしにする。

●拾参

それなりの理由があって一度棚上げにはしているが、無駄にやる気満々なのも事実で、ちょっとしたことで創作もどきネタを思いついたり、またゾロ調べ物をしたりして、またまた時間を忘れる。

これなんか典型的な例。
https://sorae.info/030201/2019_6_24_habitablezone.html


おかげで重力の基礎から素粒子まで、まんべんなく調べまくって一日終わりましたよ。いまさらのように、質量と運動量のネタまでわざわざ持ってきて、さらにネタを増やす。それでも保留にしてる調べ物リストはとんでもないコトになっている。

ネットのニュースだけでも、この程度のネタはほぼ毎日転がり込んでくる。テレビもなければ新聞もない。せめてネット上で世間様の動きぐらいは軽くさらっておかないと、本当に浮世離れしてしまうのだが、ボクのような反応をイチイチしていたら本当にきりがなくなる。

棚上げしてこれですよ。それにまだ盛り込めていないネタの量は、上記したようにカオスなまでに増え続けている。一応、今は「無駄なネタは可能な限り省こう」と殊勝なことを考えてはいるが、いざ作業となると自信はない。多分、ムキになって詰め込みまくった上に、さらに増量がオチであろう。

本格作業は秋に入るまで、という線は絶対に譲れないので、これまた無理をしそうな雰囲気がぷんぷんしてる。

申し訳ないが、高尚な思想や哲学とも、美の再構築などという得体のしれない概念とも縁遠い。ボクは愚直に「自分の中にある得体のしれないもの」をただ絵にしようとしているだけの話である。

それだけなのに、ここまでワケが分からない状態になるとやはり怖い。やってる本人が一番ビビっているのだ。中身も行為そのものも、恐怖以外のなにものでもない。

本当に上澄みしかさらう気しかないのだ。掘り下げるなどもってのほかだ。自分を振り返る気もなければ、それこそオリジナリティーを求める気もまったくないし、これで後々どうこうとかいうコトすら考えていない。

未来予測としてあるのは、「できるまで命がもつのか?」という、極めてアホな疑念だけである。無事、生きていたらその時はその時、と完全に放棄していたりもするので厄介である。

厄介で、面倒臭くて、本当にどうしようもない人であることは、百も承知しているのだが、こればかりはどうしようもないのだ。そもそもボク自身が弱り果ててるのだ。誰がいつ見放そうが不思議でもなんでもない。この程度の自覚も覚悟もある。

それでも担当さんは、今現在「このまま行け」とありがたくも言ってくださっているのだ。うんと言わねば仕方がないし、それなりの成果だってボクなりでしかないが見せたい。

この寛大な担当さんに見放されることがあっても、ボクはまず恨むことはないだろう。むしろ「よくぞここまでつきあってくださった」と、感謝こそすれ恨むなど筋違いもいいところである。すべての元凶はボクなのだから。

完全に病人の世界なのだが、実際ボクは病んでいるのでどうしようもない。

さて、色々オチは本当にあるのか?

編集部注:はぐれDEATHシリーズは、時系列を無視した連載です


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
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