もじもじトーク[114]日本語ワープロ専用機という時代があった
── 関口浩之 ──

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こんにちは。もじもじトークの関口浩之です。

僕は歴史を紐解くことが好きです。なぜなら、歴史を動かした先人や第一人者を深く知ると、学ぶべきものがたくさん出てくるからです。

そして、その時代の背景や文化を調べると、新しい気付きがたくさん出てきます。それって、学生の時に学んだ教科書には、全く出てこないものなんです。

もじもじトークの過去記事では、文字の誕生、活版印刷、写真植字、タイプライター、宇宙の歴史などに関するものが多かったような気がします。

さて、今日のもじもじトークは、「1980年代に独自の進化を遂げた日本語ワープロ専用機」をお送りします。





●手書きで書類を作成していた時代

もじもじトークの読者の中には、今まで、手書きで書類を作成した経験があまりないって人、結構いるかもしれませんね。

「だって、学生時代に書いた卒業論文も、社会人になってからの社内文書も、手書きで書く必要ないじゃん。パソコンやタブレットがあるし……」ということですよね。

昔ばなしをするのは、ダメなおじさんの要素のひとつと言われてますが、少年時代の手書き原稿の昔話をしますね!

僕が小中学生だった1960年代後半から1970年代前半は、もっぱら手書きの時代でした。だって、パソコンもワープロもない時代ですから。コピー機もなかったと思います。テスト問題用紙や学校からの案内文書は、先生がガリ版で書いていました。正式には謄写版(とうしゃばん)といいます。

えっ、ガリ版って何? ガリ版を知らない人もいると思うので、ガリ版印刷機や仕組みが分かる写真を何枚か掲載しますね。じゃ~ん!
http://bit.ly/2mphVFr


僕、ガリ版、大好きです。中学生の時、学級新聞を作りました。ガリ版は「ヤスリ版」の上に、「ロウ原紙」をのせ、「鉄筆」でガリガリと書きながら、版を作ります。風情があっていいでしょう!

筆圧が強過ぎると、ロウ原紙が破れてしまうので注意しましょう。また、筆圧が弱すぎると、その文字は印刷されません。ちょうど良い筆圧の範囲で、ロウ原紙にエッジングするのが重要なのです。慣れるまで難しいけど楽しいです。文字だけでなく、飾り罫やイラストを描くこともできます。

版作りが完成したら印刷です。ガリ版印刷機にロウ原紙を挟んで、インクをのせたローラーを転がします。すると、下に敷いた紙に、鉄筆で削られた部分からインクが紙に写ります。とてもシンプルな印刷手法ですよね。

ガリ版は「孔版」のひとつの方式です。孔版とは「版に微細な孔を多数開け、圧力によってそこを通過したインクを紙などに転写する方式」のことです。

シルクスクリーンも「孔版」のひとつ方式です。プリントゴッコも孔版のひとつです。プリントゴッゴの説明をすると長くなるので、またの機会に書きますね。押入れに、印刷可能なプリントゴッコがありますので。

●いつの年代まで手書きで文書作成していたか?

なぜ、ガリ版が学校で広く普及したかというと、当時、複写機がまだ普及していなかったからだと思います。なので、多くの人に同じものを配布するためには、自分で印刷するしかなかったのですね。

一方、商業印刷においては、活版印刷や写植を活用した印刷が普及していました。しかしながら、家庭や学校には、そんな機材はなかったので、自分でガリ版印刷するか、手書き原稿を複写機でコピーするしかなかったのです。

さて、僕は高校生になると、両親にねだってタイプライターを購入してもらいました。なので、英語の文書作成においては、手書きではなく、タイプライターで書類を作れるようになったのです。

でも、日本語の文書作成は、僕が社会人になる1980年代半ばまで、手書きでした。大学の卒業論文も手書きだったし。

みなさんは、いつまで、手書きで文書作成していましたか? 明確に記憶していますか? 僕は1984年から手書きで文書作成することが極端に少なくなりました。

●日本語ワープロ専用機の誕生

社内書類を手書きで作成することが激減した年は、企業によりまちまちだと思います。僕が明確に1984年と断言できるのは、日本語ワープロ専用機等を開発しているメーカーに入社したからなのです。

日本語ワープロの1号機は、1978年に東芝から発売された日本語ワードプロセッサー「JW-10」です。9月26日が発売日だったので、その日は「ワープロの日」と制定されたようです。

当時の「データーショー」や「ビジネスシヨウ」行くと、ワープロ専用機の新商品も並んでいたのを思い出しました。

日本初の日本語ワードプロセッサーは、こんな感じでした。

東芝未来科学館サイト
https://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/history/ichigoki/1978word_pro/index_j.htm


なんか、すごいでしょ。大きな机一個分あります。キーボードから文字を入力すると、モニターに「かな漢字変換」された候補が表示されます。

プリンタ(たしか、ドットプリンタ)で、すぐに文書が印刷できることも、当時、非常に画期的なことだったのです。価格は630万円でした。びっくりですよね。

その後、富士通、NEC、シャープ、キヤノンなどが、ワープロ市場に参入しました。1981年に、JDLの文作くんが138万円のワープロを発売し、その頃から、日本語ワープロ専用機が企業に本格的に浸透していったのです。

当時、「プリンタが搭載された日本語ワープロが約100万円で買える!」ということが、大きな話題になったのです。

社内文書や提案書、見積書などが、ポールペンと修正液を使用せずに作成できることは、大革命だったのです。

社会人になった1984年当時、大企業では、ワープロ課とかいう部署がありました。各部の稟議書や企画書の手書きの下書きを、ワープロ課へ持参するのですが、ワープロの台数が限られていると順番待ちになっちゃうんです。そんな光景を実際に目にしました。

1980年代後半、ワープロの低価格がどんどん進みました。各社から続々と発売された日本語ワープロ(日本語ワードプロセッサー)の名称を、Wikipediaから抜粋してみました。

さて、皆さん、いくつ、記憶に残っていますか。

○OASYS(富士通)
○書院(シャープ)
○文豪(NEC)
○TOSWORD、Rupo(東芝)
○ワードボーイ、キヤノワード(Canon)
○パナワード(パナソニック)
○カシオワード(カシオ計算機)
○サンワード、ワープロ博士(三洋電機)
○ワードパル(日立製作所)
○文作くん(JDL)
○ヒットビットワード(ソニー)
○ピコワード(ブラザー工業)
○ワードバンク(セイコーエプソン)
○ワープロエース(ミノルタ)
○マイリポート(リコー)
○レターメイト(沖電気)
○レタコン(ぺんてる)
○ワーディックス(横河電機)

当時、ワープロ専用機を製造していたメーカーは、パーツは外部調達していたけどプリント基板や筐体、キーボードを独自開発していました。

さらには、独自OSを開発し、その上で動くアプリケーションソフトもすべて独自開発ということをやっていました。まさに、日本語ワープロが、ガラケー文化のように、ガラパゴス状態だったのです。

例えば、罫線の概念が、あるメーカーでは文字記号罫線だけど、他メーカーはグラフィック罫線だったりしました。記録媒体フロッピーディスクのフォーマットが独自仕様だったり、キーボード配列も各社独自仕様でした。

キーボードにはファンクションキーがたくさんあって、「均等割付」「ルビ」「罫線」など、機能毎にボタンが配置されてました。各社、独自の生態系で進化をしていったのです。

各社のデータ保存形式はまちまちで、メーカー間の互換性はありませんでした。なので、ワープロ専用機市場が下降し始めた頃から、「リッチテキストコンバーター」という変換ソフトが流行りました。

例えば、OASYSのデータを一太郎の形式に変換できるというということです。それなりの金額のソフトウェアだったと記憶してます。

変換は完全ではありませんでした。文字変換については、JISコードなので変換精度は高かったのですが、罫線や複雑な書式などは変換できないこともありました。

●突然死した日本語ワープロ専用機

1986年から1995年は、日本語ワープロ専用機の年間出荷台数が、毎年200万台を超えていました。2000年までの日本語ワープロの累計出荷台数は、3,000万台を超えたといわれています。

一世を風靡した日本語ワープロ専用機も、1995年以降に市場が一気が縮小し、2000年以降に新製品はほとんど発売されなりました。パソコンにワープロソフト一太郎やWordをインストールすれば、高度な文書作成が実現できるようになったからです。

日本語ワープロ専用機が大流行しているときに、「専用機には専用機の良さがある。『印刷』ボタンを押せば簡単に印刷できるし、『罫線』ボタンを押せば簡単に罫線が引ける。汎用機としてのパソコンとワープロソフトでは限界がある。当面、ワープロ専用機の市場は活況が続く」と書いてある記事を読んだことがあります。

インターネットが普及していない、そしてMS-DOS全盛期に、10年先にパソコンがここまで進化することを予見できなかったのだろうか……。

1995年のWindows95がリリースされたのを契機に、日本語ワープロ専用機は突然死したような状態になりました。昨今、ワープロソフトの存在は知っていても(Wordを知らない人はいないですよね)、ワープロ専用機の存在を知らない人が増えてきたような気がします。

●これまでの自分の仕事をちょっと振り返ってみた

僕が、パソコンや文字に関して、幅広く、そしてまあまあ詳しいかというと、小さい頃から家電やマイコンや看板が好きだったからかもしれません。

でも、本当のルーツは、社会人になった1984年から約10年間、電子機器メーカーでその分野の仕事をしていたからなのだと思います。

その10年間で、日本語ワープロ専用機、日本語DTPシステム、カラードットプリンタ、レーザープリンタ、電子ファイリングシステム、CADデータのラスタライザー(ベクトルデータのビットマップ変換)などの新規事業開発に携わっていました。

Windows95がリリースを控え、オープン化の波が確実に押し寄せてきてることを感じていた1995年10月に、ソフトバンク技研(現在のソフトバンク・テクノロジー)に転職しました。

約10年間勤務した電子機器メーカーには、今でも感謝しています。その間、いろんな貴重な体験したことはラッキーでした。

転職した直後、1995年10月にWindows95が発売され、パソコン量販店の支援プロモーションの仕事をしました。その後、1996年4月1日にサービス開始したYahoo! JAPANの検索エンジンの、データ構築プロジェクトリーダーも担当しました。

1980年代と1990年代は、ただ、がむしゃらに仕事をしていた時代でした。今になってみると、当時のひとつひとつの仕事の経験が点と点で繋がり、それらが有機的に繋がり平面になり、それら知識が立方体になったと感じています。

2年ぐらい前から、多くの人から「フォントおじさん」と呼ばれるなりました。

現在の「フォントおじさん」にいたるまで道のりは順調そうに見えますが、ここでは書けない、たくさんの困難な出来事や浮き沈みがありました(笑)

だけど、それらの出来事も含めて、化学反応としてできあがった有機化合物が「フォントおじさん」なのかもしれません。

「日本の文化である活字、文字、フォントの知恵や知見、そして歴史を後世に楽しく伝承する」ということを、ライフワークにできるといいなぁと思った、今日この頃です。

では、また、2週間後にお会いしましょう。


【せきぐち・ひろゆき】sekiguchi115@gmail.com
関口浩之(フォントおじさん)

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1960年生まれ。群馬県桐生市出身。1980年代に日本語DTPシステムやプリンタの製品企画に従事した後、1995年にソフトバンク技研(現 ソフトバンク・テクノロジー)へ入社。Yahoo! JAPANの立ち上げなど、この20年間、数々の新規事業プロジェクトに従事。

現在、フォントメーカー13社と業務提携したWebフォントサービス「FONTPLUS」のエバンジェリストとして、日本全国を飛び回っている。

日刊デジタルクリエイターズ、マイナビ IT Search+、Web担当者Forum、Schoo等のオンラインメディアや各種雑誌にて、文字やフォントの寄稿や講演に多数出演。CSS Niteベスト・セッション2017にて「ベスト10セッション」「ベスト・キャラ」を受賞。2018年も「ベスト10セッション」を受賞。フォントとデザインをテーマとした「FONTPLUS DAYセミナー」を主宰。趣味は天体写真とオーディオとテニス。

フォントおじさんが誕生するまで
https://html5experts.jp/shumpei-shiraishi/24207/


Webフォントってなに? 遅くないの? SEOにはどうなの?
「フォントおじさん」こと関口さんに聞いた。
https://webtan.impress.co.jp/e/2019/04/04/32138/