はぐれDEATH[99]はぐれが図書館へ行くと
── 藤原ヨウコウ ──

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もうこれは、ボク的には相当珍しい。公共図書館と言えば小・中・高・大の母校の図書館程度にしか行ったことがない。その体験だって、かなり怪しいこと極まりない。

「とにかく笑いネタを」とかつて宣言したものの、ボク自身がそんなに笑えない状態なので、何をやろうとしても簡単に暗黒面に転ぶ。「部屋に籠もって一人でくさくさしててもどないもならん」と気分転換を兼ねて、近所の公共図書館に足を運んでみた。(注:これは引越し前のお話、もちろんコロナ前)

入った瞬間に、「ああ、場違いな所に来てしまった」と、猛烈に後悔したコトは白状しておく。

想像以上に人が多かったのだ。平日のお昼ご飯時を狙って行ったのだが、めちゃめちゃ人がいる。ここでただでさえぐらついているメンタルに、相応のショックがあった。

ボクの図書館体験というのは、実にシンプルこの上なく「人がまばらで、膨大な本の背表紙を眺めながら、気になった本に手を出す」か、最初から狙って行くかのどちらかである。

後者はたいてい専門書だったり、発行部数そのものが少なすぎて高価で買えない本だったりする。まぁ専門書が高いのは昔からだし、そもそもマニアック過ぎるので大部数刷ったところで意味はない。





今回の図書館行は前者だった。人が多いというのは正直、ほぼ経験がない。そもそも学校付属の図書館は「人がまばらか、いないか」という経験しかないのだ。少なくともボクが通っていた学校ではそうだった。もしかしたら、そういう時間帯にしか行かなかったのかもしれないけど。

だから落ち着いてのんびりと、一冊づつ背表紙を眺めることができたのだが、それが公共図書館ではまったく通用しない。まず、書架の間を通るだけでも一手間かかる。立ち止まるとなると、周りの人の邪魔にならないよう注意しないといけない。当たり前の話だが、これで落ち着きは著しく損なわれる。

予測していたことだったのだが、老若男女が集っているのである。通り一遍の注意では、とてもではないが対応しきれない。自然と人が少ない方へ少ない方へ行くのだが、後から人は次々に訪れる。まぁそういう施設なのだから、「これを我慢できなきゃ来るな」にしかならない。

行きかけては人に阻まれ回り道をしたり、「をっ?」と思った本に手を出そうとすると人が来て、いったんその場を離れる。これを延々繰り返していた。さほど広い図書館ではないのだが、なんだかんだで二時間ほどねばった。で、なんと収穫0である。これにはがっくりきた。

今回、図書館に求めたのは「値段が高くて逆立ちしても買えない本」を行き当たりばったりで探すという、ごく普通(なのかなぁ?)のことだったのだが、ここでことごとく外れたのだ。一応、ことわっておくが、専門書では断じてない(と思う)。Amazonでも普通に取り扱っている本だ。高いけど。

最初は敢えて小説・文芸書の類は外していたのだが、あまりに目当てのものにかすりもしなくなると、自然とそちらのほうに足が向く。が、ここでも結果は同じ。というか、より悪くなった。

これはボクの嗜好の問題なのだが、とにかく広く本を扱っているので、ボクが読みそうな本はほぼ無い。辛うじて見つけても、すさまじい汚れにビビってしまい、けっきょく書架に戻す。別に潔癖症でも何でもないんですが、雑に扱われていると、そっちに気を取られて読もうという意欲が霧散するのだ。

それでも何冊か本に目星をつけたものの、いざ借りようかという段になって尻込みをしてしまった。理由は……情けなさすぎるので飛ばす。結果、収穫ゼロになったわけだ。

元々狙っていたのは伝記か評伝である。この手の本は意外と高いのだが、バリエーションはあるので、探すのにさほど苦労はあるまいと高をくくっていたことも白状しておく。が、これまた無いのだ。それこそ手垢のついたような伝記なり評伝はあるのだが、ちょっと脇にはずれただけで見事に無い。

相変わらず日本の近代史をねちっこく読んでいるのだが、お手軽な伝記・評伝はなかなか見当たらない。何しろ犬養毅関連の本が皆無だったのには驚いた。五・一五事件関連の本は一、二冊見たのだが、それ以外となるとさっぱりである。ちなみに二・二六事件の関連書籍も不気味なぐらい無かった。いや、あるにはあるが、ボクにはピンと来ないのばっかり。というか入門書の類ですね。

では、近代史そのものはどうかというと、「高校の日本史の教科書読んだ方がまだマシちゃうか?」と思うような、惨憺たる結果だった。歴史全般でも同様のことが言える。間口を広くしすぎなのだろう。確かに入門編としてはいいのだろうが、「もう一歩踏み込みたい」と思うと、明らかに内容が薄すぎる。

驚いたのは「平成史」と銘打つ本が、結構並んでいたことだ。驚いたけど手に取りもしなかった。ボクに言わせれば、「昭和史」でも充分怪しいのだ。検証が不充分なまま平成にいくなど、ボクに関して言えばあり得ない。そもそも、明治末期からしてボクの知識は相当怪しい。大正に至っては、本当に教科書レベルのことしか知らない。

犬養毅だって、実はここの空白を埋めるために探しているようなところがある。で、遡ればどうやっても明治末期に辿り着くのは目に見えているのだ。関連本の一冊や二冊あってもよさそうなものだが、ナゼか無い。頭山満とか古島一雄は一冊づつ見つけたが、孫文となるともう革命本しかない。

革命ネタで驚いたのは、ロシア革命関連の本がまったくなかったことだ。マルクスすらない。当然この系譜を遡ればヘーゲル哲学に至りそうなものだが、これまたない。間を飛ばして、いきなりソクラテスが出てきた時は目眩がした。でもなぜか、ハイデッガーが数冊あったりするので混乱に拍車が掛かる。

思想関連も似たようなもので、仏教全集みたいな本はあるが、個別となると飛び石状態になる。あまり見たくはなかったのだが、心理学系となるとフロイトとユングくらいで、後は心理学というより「心の持ちよう」みたいな本ばかりになる。

全集は小説でもそうだが、本当にスタンダード中のスタンダードしかなかったのには、正直がっかりした。実家にある本ばっかりだし、一通り全部読んでるからなぁ。

で、つらつら歩いていてふと思いついたのが「源氏物語」である。原本ではなく、明治期になって様々な作家が書いた方。「源氏ならさすがにあるだろう」と思ったのだが、ここでも見事に空振りした。谷崎版ですらない、というのはどうなん? もしかしたらめちゃめちゃマニアックなのか? 与謝野晶子版もなかったのにはたまげた。

ここに至り、自分が思っていた図書館に対する過剰なまでのイイ印象と、現実との落差に嫌気が差して、すごすごと帰宅の途についた。

ちょっと悔しかったので(!)帰りの道すがら、普通の本屋さんに寄ったのだが「これならまだ図書館の方がマシか」と、さらにがっかりした。とある小さないわゆる「街の本屋さん」で、取り次ぎの営業の方(なのか?)と店主と話している内容が、あまりにちんぷんかんぷん過ぎてがっかり倍増である。

出版不況、読者人口の激減は今もちょくちょくニュースで取り上げられるが、現場の生臭い会話を聞かされると「これはあかんな」と痛感した。

話を図書館に戻す。いわゆる閲覧コーナーは、さながら静かな病院の受付前状態。本を読んでいるならまだ理解できるのだが、いい歳こいた中年のおっさんが、イヤホンしてぼけっと椅子に座ったまま、という光景に出くわしてこれまた驚いた。もうこうなると、図書館がどうこうという話ではない。利用する側の問題である。

読書人口減少対策としての子供閲覧コーナーはそこそこ広いのだが、何せ平日の真昼である。それこそ閑古鳥が鳴いていて、目も当てられない。児童書はそこそこ充実していた。ボクが子供の頃に読んでいた本はもちろん、おねえちゃんが読んでいた本もいくらかあったので、ここではちょっとホッとした。

本の検索コーナーは、図書カード時代よりは確かに楽である。他の施設の蔵書まで引っ張り出してくれるのだが、今回は行った図書館に限定して検索をした。それでも見つからない。要するに収蔵していないということだ。

伏見という土地柄もあると思う。ボクは左京区の京大文化圏のことぐらいしか、京都市内では分からないのだが、やはり大学の存在は大きい。その代わりと言ってはなんだが、地域史についてはそれなりにあったように思う。

思う、というのはまともに見ていないからだ。ざっと背表紙を見渡した限り、ボクの興味を引きそうなものは見当たらなかった。まぁ、地域史のコーナーは最後の方に見ていたので、相当いい加減になっていたことは認めるにしても、まるでピンと来ないのだ。これなら地質学か、素直に日本史の本の方がボクには気が楽である。

総じて公共図書館という立場上、広く開かれたカバーの仕方をしているのだが、とにかく底が低すぎた。一番の泣き所は、イマイチ体系立って読み進めるような状態になっていないことかなぁ?

司書学のことはさっぱり分からないので的外れかもしれないが、初級編・中級編、できれば上級編と来てくれれば、まだボクでもどうにかなりそうなのだが、とにかくこうした構造になっていない。

もちろん、収蔵量の問題もあるだろう。無限に本を収蔵するのは不可能だし、予算だってもちろんあるだろうからその中でやり繰りしているのは理解できる。

ただ、日本史に関して言えば、NHK大河ドラマで取り上げられたネタの本がとにかくやたらと多いのには閉口した。分かりやすいといえば分かりやすいのだが、こっちは興味のカケラもないのだ。

あるとすれば、贔屓の女優さんが出てるかどうか、というレベルの話である。それでも需要はあるのだろう。こうして分断された本が、鎌倉時代から近代にずらっと並ぶ。犬養毅を探しても無駄なわけだ。

読書のありようを暗中模索している様が露呈しているような状態なのだが、これは本当に図書館なり出版社なりでどうこうできる問題ではないし、連携を取ってと言っても知れているだろう。「読まなくても済む」人が多いのだから、どうしようもない。

以前にちょっと触れたような気もするが、読書そのものを否定する人もいるのだ。そこへもってきて様々なメディア(と言っても大半はネット絡みだ)の乱立である。それこそ「読書に割りふれる時間はない」と言われても驚かない。

ボクのようにSNSですら面倒な人は、素直に別の選択肢を選ぶのだろうが、ボクの場合、仕事柄SNSの完全無視を決め込むわけにもいかない。相当、削ってるんですがね。それでもSNS経由のネタでは結構楽しんでいる。ボクの場合は、科学・物理系が多いかなぁ。

ボクは娯楽として読書を楽しんでいるに過ぎない。別に知識人になろうとかいった、大層な野望があるわけでもなんでもない。好奇心の赴くままに動きやすいのがボクの場合、読書だったというだけの話である。

確かにその過程でアホな知識は蓄積されているが、これが役にたっているとは到底思えない。「楽しく読んでお終い」でイイ。それくらいの敷居しかボクにはない。

今回の図書館行でがっくりきたのは、単純に今までのボクの読書量と傾向に図書館がついて来れなかった、というだけの話である。さすがにこの程度のコトは、頭の悪いボクでも分かる。

が、「知の宝庫」と勝手にボクが思い込んでいた図書館の、一側面を見せつけられて暗澹たる気分になったのも事実である。比較対象が悪すぎるのも原因の一つだろう。教育機関内の図書館と、地域の公共図書館を同列に考えるコト自体、既におかしいのだ。

色々と考えさせられたが、イマイチ納得できないのは、今のボク自身に問題があるのだろう。色んな意味で行き詰まってるからなぁ。

ううむ、笑えんネタになってしまった…


【フジワラヨウコウ/森山由海/藤原ヨウコウ】
YowKow Fujiwara/yoShimi moriyama
http://yowkow-yoshimi.tumblr.com