わが逃走[256]オモシロイ被写体の巻 その3/齋藤 浩

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さらに今回も、「尾道周辺を彷徨いつつ、さまざまな物件をオモシロがってきた話」を書きます。

何度も書いているが、尾道は構造美の宝庫だ。たとえ構造美の中に装飾的な要素があったとしても、
きちんと機能しているさまを見ることができる。そんな物件が少なくないし、実際、目に留まる。

尾道水道から山手へ、一気に伸びる階段。
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それらを結ぶ無数の路地。そのほとんどは、手作業による造形だ。階段は一段ずつ表情が違う。





神は細部にこそ宿るというが、この町の魅力は、そういった人の手により積み重ねられた美なのだろう。既成建材の集合では、ここまでの情緒は作り出せないのだ。

たとえばコレ。
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階段の隅っこを90ミリレンズでとらえると、幅の狭いもうひとつの階段があることに気づく。

ただのブロックだと言ってしまえばそれまでだが、ミニマルアートのような、記憶容量が少なかった頃のシーケンサーを使ったテクノポップのような、じわじわ来る力強さ。

もし私が小学生だったら、迷わずこっちの階段を登るだろう。だって、その方がオモシロそうだから。そして足を踏み外し、膝小僧をすりむくのだ。21世紀には、そういう思い出が足りない。せめて想像するだけでも、という気持ちでシャッターを切ったが、もっとギリギリ感があってもよかったかもしれない。次に行ったら、より落下しそうな構図を探してみようと思う。

ふと、脇を見ると、なんとも風雅な形状。
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和菓子の型ようだ。ここで桜餅食べたい。広島県だしもみじ饅頭でもいいな。

傾斜地の住宅へのアプローチにおける排水孔なのだが、職人さんがひとつずつ型抜きしている姿を想像すると、思わずため息が出る。

まさに建築と、町並との調和。機能とは装飾とはこうあるべき、という見本のような美物件である。ちなみにオモシロイものは、現場でオモシロがるべし。これを削り取って美術館で飾っても価値がないのだ。

階段を登り切って振り返ると、東西に横たわる尾道水道を渡船がゆく。この美しさたるや! 思わず撮っちゃうんだけど、まあ、普通の写真しか得られないんだな。で、足元を見る。すると、ステキな滑り止めパターンを発見した。
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いわゆるスタンピングというヤツだと思うのだが、全部手で圧してるのだろう、リズムが不規則で実にオモシロイ。さらに、鶏の足跡のようなものも重ねられている。おそらく全て手描きだろう。これは日本古来の文様ではないけれど、概念としての伝統的な美を感じずにはいられない。

坂道を下り、脇道に入る。すると…。
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階段に付く手すりの基部なのだが、おそらく植木鉢を型としているっぽい。それともバケツかな。このおおらかな造形のもつ力強さは、まさに無作為の美と言えましょう。

この道も、何十回と往復していたのに、この物件には気づかなかった。来るたびに新しい発見がある。これだから尾道散歩はやめられないのだ。

そして壁を見ると「消」の文字。
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これはモノクロだとわかりにくいな。カラーで正解。消火栓なのか防火用水なのか、そういったものがあるよという印なのか。

その目的を確認する間もなく尿意をもよおした私は、足早にその場を立ち去ったのだった。こんど行ったら確認しておきます。

また尾道に行く理由ができた。

つづく。
 

【さいとう・ひろし】
saito@tongpoographics.jp
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1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。