『第5回・夢見がちな人生の巻』にもゲスト出演してくれた私の25年来の友・ユキオこと清水幸夫が突然死にやがった。らしい。
なぜ「らしい」という表現をしたかというと、ありえないことなので、私自身まだ納得してないからだ。
インフルエンザ→肺炎→お亡くなり、という流れらしい。それもチープな感じだなあ。嘘ならもうちょっとマシな嘘つくべきだ。
お通夜にも行ったし、死顔も見た。入口には清水幸夫のお通夜って書いてあったし、祭壇にはユキオの写真が飾ってあった。でもそこにいたユキオは蝋人形みたいだったし、そもそも38歳の健康な男子がそう簡単に死ぬはずがないのだ。
そこにいる全ての人がナニモノかに雇われたエキストラなんじゃないか? いったい誰が? 何の為に? そんなことしたって誰も得をしないのだから、そんなことする奴はいない。ということは、やはりユキオは死んだということになる。のか?? といった具合に、脳内で結論の出ないナゾ解きがエンドレスでここ10日ばかり続いている。
なぜ「らしい」という表現をしたかというと、ありえないことなので、私自身まだ納得してないからだ。
インフルエンザ→肺炎→お亡くなり、という流れらしい。それもチープな感じだなあ。嘘ならもうちょっとマシな嘘つくべきだ。
お通夜にも行ったし、死顔も見た。入口には清水幸夫のお通夜って書いてあったし、祭壇にはユキオの写真が飾ってあった。でもそこにいたユキオは蝋人形みたいだったし、そもそも38歳の健康な男子がそう簡単に死ぬはずがないのだ。
そこにいる全ての人がナニモノかに雇われたエキストラなんじゃないか? いったい誰が? 何の為に? そんなことしたって誰も得をしないのだから、そんなことする奴はいない。ということは、やはりユキオは死んだということになる。のか?? といった具合に、脳内で結論の出ないナゾ解きがエンドレスでここ10日ばかり続いている。
ユキオはひと言でいえば、ひねくれものでいい加減なのんきで間の悪い奴だ。中学のときだって、陰でヘラヘラしてりゃいいのに表立ってヘラヘラしてるもんだから先生に目ェつけられたりしてたしなあ。
そのくせ、太宰治に赤川次郎の表紙をつけて読んでたりするようなカッコつけでもあるのだ。林間学校前日に盲腸で入院なんかするしなあ。不憫に思って土産に買ってきてやったサンショウウオの黒焼きは、結局食わなかったそうじゃないか。失礼な奴だ。
桜の木の下で、ウイスキーのボトルにウーロン茶入れて酔っぱらったふりして遊んでいるのをPTAのオバサンに見つかったときも、素直に説明すればスルーできたのに変につっかかるから問題になりかけたし。
お前一人が損する分には構わないが、周りに迷惑が及ぶってことを学んでほしかったな。
YMOのライブのときだってそうだ。1983年12月12日、日本武道館。初めてのライブがYMOの散開(解散のこと)だったので、嬉しさと寂しさが混じり合って緊張しながら九段下へ向かったオレ達だったが、会場が暗くなり御三方が登場、「tong-poo」の演奏が始まると同時に、ユキオの奴はそれに合わせて調子っぱずれにオレの耳元で歌いはじめたのだ。「tong-poo」はインスト曲なので当然歌詞はない。この場合の歌うとは、音程のずれたハミングを意味する。こんな感じだ。
「ダーダダダダダダーダダダダダダダダダダダーダダダダーダダダーダダダダダダーダダダダーダダダーダダダダーダダーダー…」
初めてYMOを生で聴けて嬉しいのはわかるが、だったら心で歌え。しかもなぜ「ダ」で歌う??
つーか、これは一生の思い出に残るコンサートなんだからな。「歌うな!」って言ったけど、しばらくするとまた歌い出すしさ。
結局「1983 YMO JAPAN TOUR」は、全曲ユキオのバッキングボーカル付きでオレの脳に記憶されてしまった。いまだにライブ盤『AFTER SERVICE』を聴いてもオマエの声がMIXされるのだ。どうしてくれる?
そういえばちょうどこの頃、小生意気な中坊だったオレ達は「ビックリハウス」やら「広告批評」なんかを読んで糸井さんのコピーに感激したりして「広告業界っていいよねー」なんて言ってたもんだ。オレはしばらく忘れてたけど、当時こんな会話があったらしい。
ユキオ「将来どんな仕事するかとかって具体的に考えてんの?」
オレ「美大出てデザイナーになって『tong-pooデザイン事務所』を開設して広告作る」
ユキオ「ヒロシは絵が描けるからいいけどさー。俺はどうすりゃいい?」
オレ「絵はなにも自分で描かなくてもいいんだ。ただ、必要な絵かそうでない絵かを見極めるには能力がいる。そっちを磨いて企画する人になれば?」
後年ユキオは「あんときはクヤシかったけど、ヒロシの言葉にスゲー感動したっていうか、俺も広告業界行けるじゃん! て思ったんだよ。チクショー、飲もうぜ」なんて言ってくれた。オレそんなこと言ったんだ。へー。イヤな中学生だな。
そしてユキオはこう続けた。「tong-pooデザイン事務所、早く設立しろよ。俺営業やるからさ」。気持ちは嬉しいが、オマエみたいな奴と会社作ったら接待交際費が異常にかかりそうだから、しばらくはナイな。なんて思ったけど言わなかった。オレってオトナ。
でも、なんだかんだでユキオは某広告代理店→毎日新聞社広告局と、初志貫徹したからエライよな。少なくとも、デザイナーになって本当にtong-poo graphicsを設立したオレと同じくらいエライ。
tong-poo graphicsとして仕事を始めて四年目だったか。毎日広告デザイン賞の授賞式でユキオに会った。主催者側と受賞者ってことで、あの会場で再会できたってことはスゲー嬉しかったし、ユキオもスゲー喜んでくれた。いい思い出だ。
今思えばそれが“動いてるユキオ”に会った最後だったのかな。その少し後に「俺、こんどデザイナーを紹介するページの担当になったから、ヒロシのこと載せたいんだよ。広告賞のことでタイムリーだし絶対イケるから、至急作品をファイルにまとめて送ってくれ」なんて電話をくれたので、慌てて20ページのポートフォリオを作って送ったのにそれっきりだったなあ。
一か月も過ぎた頃、まあ、どうせユキオだし。と諦めた訳だが、たぶんユキオは翌日にはそんなことすっかり忘れて別の仕事をしていたのだろう。オマエって昔から変わらないよな。いつだったか「飲もう! 俺が仕切るから」なんて突然電話くれるから、その日の予定は空けておいたのに結局何も言ってこなかったし。
ほんと、オマエってそういう奴だよな。で、その後メールのやりとりは数回あったと記憶してるが、しばらく疎遠になっちゃった。で、突然「死にました」だってさ。どういうことだ?
二十歳の頃だったか、「墓場まで持っていきたいアルバムは何か」なんて話をしながら飲んでいたとき、結局YMOの『テクノデリック』か『BGM』かで結論が出なかったことを思い出した。まあ、誰とこの話になっても同じ結果になるのだが。
そんな訳で、弟のマサオ君に『テクノデリック』を渡しておいた。あの世で聴くがいい。『BGM』はオレが持ってく。当分先のことになると思うけどね。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
< http://www.c-channel.com/c00563/
>
そのくせ、太宰治に赤川次郎の表紙をつけて読んでたりするようなカッコつけでもあるのだ。林間学校前日に盲腸で入院なんかするしなあ。不憫に思って土産に買ってきてやったサンショウウオの黒焼きは、結局食わなかったそうじゃないか。失礼な奴だ。
桜の木の下で、ウイスキーのボトルにウーロン茶入れて酔っぱらったふりして遊んでいるのをPTAのオバサンに見つかったときも、素直に説明すればスルーできたのに変につっかかるから問題になりかけたし。
お前一人が損する分には構わないが、周りに迷惑が及ぶってことを学んでほしかったな。
YMOのライブのときだってそうだ。1983年12月12日、日本武道館。初めてのライブがYMOの散開(解散のこと)だったので、嬉しさと寂しさが混じり合って緊張しながら九段下へ向かったオレ達だったが、会場が暗くなり御三方が登場、「tong-poo」の演奏が始まると同時に、ユキオの奴はそれに合わせて調子っぱずれにオレの耳元で歌いはじめたのだ。「tong-poo」はインスト曲なので当然歌詞はない。この場合の歌うとは、音程のずれたハミングを意味する。こんな感じだ。
「ダーダダダダダダーダダダダダダダダダダダーダダダダーダダダーダダダダダダーダダダダーダダダーダダダダーダダーダー…」
初めてYMOを生で聴けて嬉しいのはわかるが、だったら心で歌え。しかもなぜ「ダ」で歌う??
つーか、これは一生の思い出に残るコンサートなんだからな。「歌うな!」って言ったけど、しばらくするとまた歌い出すしさ。
結局「1983 YMO JAPAN TOUR」は、全曲ユキオのバッキングボーカル付きでオレの脳に記憶されてしまった。いまだにライブ盤『AFTER SERVICE』を聴いてもオマエの声がMIXされるのだ。どうしてくれる?
そういえばちょうどこの頃、小生意気な中坊だったオレ達は「ビックリハウス」やら「広告批評」なんかを読んで糸井さんのコピーに感激したりして「広告業界っていいよねー」なんて言ってたもんだ。オレはしばらく忘れてたけど、当時こんな会話があったらしい。
ユキオ「将来どんな仕事するかとかって具体的に考えてんの?」
オレ「美大出てデザイナーになって『tong-pooデザイン事務所』を開設して広告作る」
ユキオ「ヒロシは絵が描けるからいいけどさー。俺はどうすりゃいい?」
オレ「絵はなにも自分で描かなくてもいいんだ。ただ、必要な絵かそうでない絵かを見極めるには能力がいる。そっちを磨いて企画する人になれば?」
後年ユキオは「あんときはクヤシかったけど、ヒロシの言葉にスゲー感動したっていうか、俺も広告業界行けるじゃん! て思ったんだよ。チクショー、飲もうぜ」なんて言ってくれた。オレそんなこと言ったんだ。へー。イヤな中学生だな。
そしてユキオはこう続けた。「tong-pooデザイン事務所、早く設立しろよ。俺営業やるからさ」。気持ちは嬉しいが、オマエみたいな奴と会社作ったら接待交際費が異常にかかりそうだから、しばらくはナイな。なんて思ったけど言わなかった。オレってオトナ。
でも、なんだかんだでユキオは某広告代理店→毎日新聞社広告局と、初志貫徹したからエライよな。少なくとも、デザイナーになって本当にtong-poo graphicsを設立したオレと同じくらいエライ。
tong-poo graphicsとして仕事を始めて四年目だったか。毎日広告デザイン賞の授賞式でユキオに会った。主催者側と受賞者ってことで、あの会場で再会できたってことはスゲー嬉しかったし、ユキオもスゲー喜んでくれた。いい思い出だ。
今思えばそれが“動いてるユキオ”に会った最後だったのかな。その少し後に「俺、こんどデザイナーを紹介するページの担当になったから、ヒロシのこと載せたいんだよ。広告賞のことでタイムリーだし絶対イケるから、至急作品をファイルにまとめて送ってくれ」なんて電話をくれたので、慌てて20ページのポートフォリオを作って送ったのにそれっきりだったなあ。
一か月も過ぎた頃、まあ、どうせユキオだし。と諦めた訳だが、たぶんユキオは翌日にはそんなことすっかり忘れて別の仕事をしていたのだろう。オマエって昔から変わらないよな。いつだったか「飲もう! 俺が仕切るから」なんて突然電話くれるから、その日の予定は空けておいたのに結局何も言ってこなかったし。
ほんと、オマエってそういう奴だよな。で、その後メールのやりとりは数回あったと記憶してるが、しばらく疎遠になっちゃった。で、突然「死にました」だってさ。どういうことだ?
二十歳の頃だったか、「墓場まで持っていきたいアルバムは何か」なんて話をしながら飲んでいたとき、結局YMOの『テクノデリック』か『BGM』かで結論が出なかったことを思い出した。まあ、誰とこの話になっても同じ結果になるのだが。
そんな訳で、弟のマサオ君に『テクノデリック』を渡しておいた。あの世で聴くがいい。『BGM』はオレが持ってく。当分先のことになると思うけどね。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
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