その節は三回もの長きにわたり「キュビズム」ネタを引っ張ってしまい、失礼しました。編集長からもやんわりと「次はばかばかしいのでいこう」と釘をさされましたので、今までに取れたいちばん大きな耳くその話とか書こうと本気で考えたのですが、それはまだ時期尚早であると判断しまして、今回はスーパーカーでいきたいと思います。特に理由なんてないです。たまたまデザイナーのO氏と仕事中にこの話題になったもので……。
1■そもそも“ブーム”というものが存在した時代
最近『◯◯ブーム』ってないでしょ。「あらやだ、ちょっと前だけど、韓流ブームってあったじゃないの、ほら、ヨン様。」とか言われても、そういうのとあの日本中を熱狂させたスーパーカーブームって、ちょっと違うんだなあ。
時は1977年。ケータイもインターネットも当然存在しないあの頃、いちばんの情報源といえばテレビだった。学校での話題といえば、前日のテレビ番組がその大半を占めていたのだ。
CMから流行語が生まれ、歌番組からアイドルが生まれた。クラス全員ピンクレディが大好きだったし、クラス全員がドリフの東村山音頭を踊れたし、クラス全員がハトヤの電話番号を知っていたのだ。
そんな中で、突然クラス全員が夢中になってしまったもの。それがスーパーカーなのである。
そもそも誰が仕掛けたのかは知らない。たまたま複数の要因が重なったのかもしれない。なんだかわかんないけど、当時小学1年生だった私の記憶では、ある日突然、ランボルギーニ・カウンタックが大好きになり、その時にはもう、テレビをつければスーパーカーってなことになっていて、毎週月曜の夜は、山田隆夫司会の『スーパーカークイズ』なる番組が高視聴率をもって迎えられていたのだ。
駄菓子屋に行けばスーパーカー消しゴムが売られ、コーラを飲めば王冠の裏にスーパーカーがプリントされており、小学生達はそれらを夢中になって集めたのだ。
ところで、スーパーカーの概念とは? と聞かれても困る。これはおそらく永遠の謎なのである。よくわからんけどスーパーカーとは、スピードが速くてカッコよくて値段がばかみたいに高い車、ってとこだろうか。走ることだけが目的の超高級車ともいえる。
ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ512BBに代表されるようなこれらスーパーカーはピンクレディ同様、突然我々の前に現れて、あっというまに国民的アイドルになってしまったと言っても過言ではない。とにかくこれはスゴイ現象だったのだ。
2■美とは何かを知った瞬間。
初めて背中に電流が走るくらいのショックを覚えたのが、雑誌でランボルギーニ・カウンタックLP400を見たときだ。
当時の親世代は、おそらく幼児期における“じどうしゃが好き”の再来程度にしか考えてなかったのだろう。しかしあれは衝撃だった。価値観が変わる瞬間というか。子供だましという言葉の意味が解った瞬間というか。
例えば、変身ヒーローが乗ってる車なんかはわざと子供にウケがいいような形や色をしている。無駄に大きい羽根が付いていたり、ボンネットに炎の模様がペイントされてたり。そんな“オトナによる作為”は子供なりになんとなく感じていた。でも今度のは違う!
もちろんカウンタックにはヒーロー的な要素があふれている。速い。力強い。スマート。しかし、こういった記号はあくまでも導入口となったにすぎなかったのだ。
そしてこれらのスタイリングは、かっこよさを追求した結果のかっこよさではないことに気づく。その形に意味があるということを知ったとき。まさにこれが美とは何かを知った瞬間だったように思う。
空気抵抗を抑えるためリトラクタブル式とされたヘッドライト、吸気効率向上のためボディ側面に唐突に設けられたエアダクト。それぞれの形が機能している様はまさに衝撃的だった。
当時7歳だった私はこの衝撃をどう表現していいかわからず、とにかく絵を描いて、粘土をこねた。スーパーカーを描きまくって、スーパーカーを作りまくったのだ。
描いたり作ったりすると、それらの特徴が見えてくる。カウンタックやランチャ・ストラトスは直線的な形状であるのに対し、フェラーリは曲線主体のものが多い。で、いろいろ調べてみたら、前者はベルトーネ、後者はピニンファリーナがデザインしているという。
なるほど、デザインしている人が違うと、こんなにもかっこよさが違うのかー。今思えば、私はこのとき初めてデザインという仕事を知り、またこのことがデザイナーとしての道に進むきっかけとなっているのだ。
「そんなものにいつまでも夢中になってないで、もっと勉強しなさい!!」と、なんでもかんでも否定した当時のお母さん達、私はスーパーカーブームのおかげで、いま立派に飯を食ってますよ。
3■ランボルギーニ・カウンタックにおけるLP400派とLP500派
面白いことに、同じ小学生男子で同じランボルギーニ・カウンタック好きでも、LP400派とLP500派の二種類に分類できることができた。
ちなみにLP400とは最高時速300キロ、最大出力375馬力のベーシックかつシンプルなモデル。それに対しLP500とは、LP400ベースにチューンナップしたようなマシンで、最高時速315キロ、最大出力447馬力。車体後部に巨大なウィングを持ち、タイヤも太くデカイ。それに合わせてオーバーフェンダーが装着されている、まあ見た目も派手なモデルだ。
私は俄然すっきりした美しさのLP400派だった訳だが、友人のほとんどがLP500派だったことを記憶している。理由を尋ねても「速いから」とか「羽根がついてるから」とか、思わず「オマエは子供かーっ!」とツッコミを入れたくなるようなものがほとんど。まあ実際小学1年生なんだけどさ。
そんな彼らは「いちばん速い車に憧れを持たないオマエは変だ、弱虫だ」とかもう訳わかんないこと言ってくる。ホントこのときは、集団生活って難しいなあと実感したものだ。
さて、当時小学生だった彼らのその後の人生を検証してみると、LP500好きは女に積極的に打って出るタイプに。そしてシンプルなLP400を好む者は妄想だけで思春期を乗り切るタイプにほぼ分類が可能ということが判明しました。心当たりの方、いらっしゃると思います。
4■その後のいろいろ
ブームはまだまだ続く。とにかく日本中、どこを見てもスーパーカーだった。書店にはスーパーカーの本、おもちゃ屋にはスーパーカーのミニカーやプラモデルが所狭しと並べられ、自転車屋には『スーパーカーライト』と称するリトラクタブル式ヘッドライトを搭載した自転車なんてのが普通に置かれていた。
そして、なんとレコード屋ではスーパーカーの走行音レコードなるものまで売られていたのだ。当時はまだ家庭用ビデオがなかったか、あったとしてもほとんど普及していない時代だったので、少年達はこのようにレコード(もちろんCDではない)に針を落とし、目を閉じてフェラーリやランボルギーニの音を聴きながらその姿を想像していたのだ。中にはランボルギーニ社でカウンタックを作っている工場の音、なんてものまであった。
各地ではスーパーカーショーが催されていた。私も親にせがんで東京・晴海の国際展示場に連れていってもらっていた。初めて科学博物館で恐竜の骨格を見たときと同じくらい感動したのを覚えている。
が、そうこうしている間に熱は急激に冷めていき、“本気”の人達が重い腰を上げて『童夢-零』なんて車を発表した頃には、もうブームはすっかり沈静化していたのだ。
その間わずか一年ちょっとだったかな? 私も2年生になった頃にはすでに落ち着いて、3年生の頃にはもう『ブルートレインブーム』にどっぷりと浸かっていたのだった。ほんと、あっという間の出来事だった。
以上、スーパーカーブームの頃の話でした。当時私がもう少し大きかったらもう少し詳しく語れたのですが。まあ小学1年生の体験談というのもそうないと思うので、貴重な証言ってことにしといてください。また、今回書ききれなかったこと……プラモデル、スーパーカー消しゴム、駄菓子屋のカード等については、また機会があったら書きたいと思っています。ではまた。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
< http://www.c-channel.com/c00563/
>
最近『◯◯ブーム』ってないでしょ。「あらやだ、ちょっと前だけど、韓流ブームってあったじゃないの、ほら、ヨン様。」とか言われても、そういうのとあの日本中を熱狂させたスーパーカーブームって、ちょっと違うんだなあ。
時は1977年。ケータイもインターネットも当然存在しないあの頃、いちばんの情報源といえばテレビだった。学校での話題といえば、前日のテレビ番組がその大半を占めていたのだ。
CMから流行語が生まれ、歌番組からアイドルが生まれた。クラス全員ピンクレディが大好きだったし、クラス全員がドリフの東村山音頭を踊れたし、クラス全員がハトヤの電話番号を知っていたのだ。
そんな中で、突然クラス全員が夢中になってしまったもの。それがスーパーカーなのである。
そもそも誰が仕掛けたのかは知らない。たまたま複数の要因が重なったのかもしれない。なんだかわかんないけど、当時小学1年生だった私の記憶では、ある日突然、ランボルギーニ・カウンタックが大好きになり、その時にはもう、テレビをつければスーパーカーってなことになっていて、毎週月曜の夜は、山田隆夫司会の『スーパーカークイズ』なる番組が高視聴率をもって迎えられていたのだ。
駄菓子屋に行けばスーパーカー消しゴムが売られ、コーラを飲めば王冠の裏にスーパーカーがプリントされており、小学生達はそれらを夢中になって集めたのだ。
ところで、スーパーカーの概念とは? と聞かれても困る。これはおそらく永遠の謎なのである。よくわからんけどスーパーカーとは、スピードが速くてカッコよくて値段がばかみたいに高い車、ってとこだろうか。走ることだけが目的の超高級車ともいえる。
ランボルギーニ・カウンタックやフェラーリ512BBに代表されるようなこれらスーパーカーはピンクレディ同様、突然我々の前に現れて、あっというまに国民的アイドルになってしまったと言っても過言ではない。とにかくこれはスゴイ現象だったのだ。
2■美とは何かを知った瞬間。
初めて背中に電流が走るくらいのショックを覚えたのが、雑誌でランボルギーニ・カウンタックLP400を見たときだ。
当時の親世代は、おそらく幼児期における“じどうしゃが好き”の再来程度にしか考えてなかったのだろう。しかしあれは衝撃だった。価値観が変わる瞬間というか。子供だましという言葉の意味が解った瞬間というか。
例えば、変身ヒーローが乗ってる車なんかはわざと子供にウケがいいような形や色をしている。無駄に大きい羽根が付いていたり、ボンネットに炎の模様がペイントされてたり。そんな“オトナによる作為”は子供なりになんとなく感じていた。でも今度のは違う!
もちろんカウンタックにはヒーロー的な要素があふれている。速い。力強い。スマート。しかし、こういった記号はあくまでも導入口となったにすぎなかったのだ。
そしてこれらのスタイリングは、かっこよさを追求した結果のかっこよさではないことに気づく。その形に意味があるということを知ったとき。まさにこれが美とは何かを知った瞬間だったように思う。
空気抵抗を抑えるためリトラクタブル式とされたヘッドライト、吸気効率向上のためボディ側面に唐突に設けられたエアダクト。それぞれの形が機能している様はまさに衝撃的だった。
当時7歳だった私はこの衝撃をどう表現していいかわからず、とにかく絵を描いて、粘土をこねた。スーパーカーを描きまくって、スーパーカーを作りまくったのだ。
描いたり作ったりすると、それらの特徴が見えてくる。カウンタックやランチャ・ストラトスは直線的な形状であるのに対し、フェラーリは曲線主体のものが多い。で、いろいろ調べてみたら、前者はベルトーネ、後者はピニンファリーナがデザインしているという。
なるほど、デザインしている人が違うと、こんなにもかっこよさが違うのかー。今思えば、私はこのとき初めてデザインという仕事を知り、またこのことがデザイナーとしての道に進むきっかけとなっているのだ。
「そんなものにいつまでも夢中になってないで、もっと勉強しなさい!!」と、なんでもかんでも否定した当時のお母さん達、私はスーパーカーブームのおかげで、いま立派に飯を食ってますよ。
3■ランボルギーニ・カウンタックにおけるLP400派とLP500派
面白いことに、同じ小学生男子で同じランボルギーニ・カウンタック好きでも、LP400派とLP500派の二種類に分類できることができた。
ちなみにLP400とは最高時速300キロ、最大出力375馬力のベーシックかつシンプルなモデル。それに対しLP500とは、LP400ベースにチューンナップしたようなマシンで、最高時速315キロ、最大出力447馬力。車体後部に巨大なウィングを持ち、タイヤも太くデカイ。それに合わせてオーバーフェンダーが装着されている、まあ見た目も派手なモデルだ。
私は俄然すっきりした美しさのLP400派だった訳だが、友人のほとんどがLP500派だったことを記憶している。理由を尋ねても「速いから」とか「羽根がついてるから」とか、思わず「オマエは子供かーっ!」とツッコミを入れたくなるようなものがほとんど。まあ実際小学1年生なんだけどさ。
そんな彼らは「いちばん速い車に憧れを持たないオマエは変だ、弱虫だ」とかもう訳わかんないこと言ってくる。ホントこのときは、集団生活って難しいなあと実感したものだ。
さて、当時小学生だった彼らのその後の人生を検証してみると、LP500好きは女に積極的に打って出るタイプに。そしてシンプルなLP400を好む者は妄想だけで思春期を乗り切るタイプにほぼ分類が可能ということが判明しました。心当たりの方、いらっしゃると思います。
4■その後のいろいろ
ブームはまだまだ続く。とにかく日本中、どこを見てもスーパーカーだった。書店にはスーパーカーの本、おもちゃ屋にはスーパーカーのミニカーやプラモデルが所狭しと並べられ、自転車屋には『スーパーカーライト』と称するリトラクタブル式ヘッドライトを搭載した自転車なんてのが普通に置かれていた。
そして、なんとレコード屋ではスーパーカーの走行音レコードなるものまで売られていたのだ。当時はまだ家庭用ビデオがなかったか、あったとしてもほとんど普及していない時代だったので、少年達はこのようにレコード(もちろんCDではない)に針を落とし、目を閉じてフェラーリやランボルギーニの音を聴きながらその姿を想像していたのだ。中にはランボルギーニ社でカウンタックを作っている工場の音、なんてものまであった。
各地ではスーパーカーショーが催されていた。私も親にせがんで東京・晴海の国際展示場に連れていってもらっていた。初めて科学博物館で恐竜の骨格を見たときと同じくらい感動したのを覚えている。
が、そうこうしている間に熱は急激に冷めていき、“本気”の人達が重い腰を上げて『童夢-零』なんて車を発表した頃には、もうブームはすっかり沈静化していたのだ。
その間わずか一年ちょっとだったかな? 私も2年生になった頃にはすでに落ち着いて、3年生の頃にはもう『ブルートレインブーム』にどっぷりと浸かっていたのだった。ほんと、あっという間の出来事だった。
以上、スーパーカーブームの頃の話でした。当時私がもう少し大きかったらもう少し詳しく語れたのですが。まあ小学1年生の体験談というのもそうないと思うので、貴重な証言ってことにしといてください。また、今回書ききれなかったこと……プラモデル、スーパーカー消しゴム、駄菓子屋のカード等については、また機会があったら書きたいと思っています。ではまた。
【さいとう・ひろし】saito@tongpoographics.jp
1969年生まれ。小学生のときYMOの音楽に衝撃をうけ、音楽で彼らを超えられないと悟り、デザイナーをめざす。1999年tong-poo graphics設立。グラフィックデザイナーとして、地道に仕事を続けています。
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